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「南のほうに行ってくる」
さっきまで読んでいた本に、しおりを挟んで、布団にもぐったところで、一足先に眠っていたはずの銀次がそう言った。
「なに、また行くの」
「うん」
わたしに背中を向けたまま、銀次はそう言った。
「いつ」
「あした」
「ええっ」
驚いたわたしは、思わず起きあがった。わたしと銀次の体温で暖まった布団と、部屋のなかのひんやりとした空気との、想像以上の温度差に、わたしは身をすくめる。
「いつ決めたの」
「いま」
「どうして」
「理屈なんてないよ。ただ行かなきゃと思ったんだ。いま」
わたしは、ちゃぶ台に上がったカメラをこっそりと盗み見る。
――またあなたですか。
無駄も承知で心のなかでそう念じると、心なしか、カメラがわたしに申し訳なさそうにしているように見えてきた。外からは、木枯らしが吹いている音が、ひゅうひゅうと聞こえてきた。
「急なんだね」
「ごめん」
銀次はそう言って謝っているくせに、わたしのほうは一切見ない。銀次の背中と話しているみたいだ、とわたしは思った。
「銀次、そろそろ雪降るかなぁ」
わたしは銀次を振り向かせたくて、そう言ってみた。だけど、わたしの思惑は外れて銀次はこちらを向くことはおろか、返事をすることもなかった。どうやら眠ってしまったようだ。
そのあとも、わたしはなかなか寝付くことができなかった。
隣では銀次がただ静かに眠っている。銀次は、出会ったころからそうだった。一緒にいるこちらが心配になるくらい、静かに、とても静かに眠ってしまうのだ。
だからわたしは、もしわたしがこの部屋から出ていったのなら銀次は、いともたやすく死んでしまうのではないかと、ひそかに思っている。決して大げさではなく、わたしはそう思うのだ。それくらい、銀次には生命力がないように見える。
そのまま意味もない、とりとめのない思考をめぐらせていたわたしは、とうとうしびれを切らして、銀次を起こさないようにそっと起きだした。それからちゃぶ台のうえのカメラに触れ、そっと持ち上げた。初めて銀次に無断で触ったそれは、黒くて、ずっしりと重くて、無機質に冷たかった。
目を覚ますと、隣に銀次はいなかった。
そしてもちろん、カメラも。
銀次は本当に今日、行ってしまったのだ。わたしに行ってくるとも言わずに。
そうはいっても、最初のうちはすぐに帰ってくると思っていた。銀次がわたしを置いてどこかへ行くのも、これが初めてではなかったから。
でも、一週間を過ぎても、一か月を過ぎても、二か月を過ぎても、銀次は、帰ってこなかった。
ーー南のほうに行ってくる。
南、という言葉から漠然とだけれど、わたしは銀次が海のきれいな場所にいるような気がした。(わたしは銀次と比べて行動範囲が狭いのでどうしても、南、島、海の連想になってしまう。)
寒いのが苦手な彼だから、雪国の中の、この小さな町の冬が終わった後に、ふらりと帰ってくる。わたしの勝手な想像だけれど、それが銀次にはしっくりくるような気がした。
銀次がいなくなって三日後、この小さな町に初雪が降った。私はそれを、部屋にある小さな窓からぼんやりと眺めながら銀次を思った。
今、わたしの頭上に降っている雪が、銀次がいるどこか暖かい町の海へ向かって舞い降りて、それが水面にぶつかった瞬間、溶けていく。
ああ、この雪の名を何というのだろう。それを聞く相手は今、わたしの隣にはいない。わたしは、この時になってようやく、銀次の話をきちんと聞いておけばよかったと後悔した。わたしはいつだって、自分の未来は銀次とともにあるものだと信じて疑わなかった。だから、そんなのいつだって聞けると思って、彼が教えてくれた雪の名前なんてはっきりと覚えてはいなかった。淡雪、風花、雪風巻。
ああ、あとは何だっけ。
この瞬間、わたしは海に解ける雪の名前が知りたいと思った。
溶ける前の姿ではなく、海に解けるためだけに生まれた、雪の名前。
もし、それに名前がついていたならば、誰か、その光景を美しいと思った人が名前を付けてくれたならば、わたしは救われるような気がするのだ。この世に生を受けたわたしも、つかみどころのない銀次の恋人になったわたしも、寒くて小さな部屋の隅で丸くなっているわたしも、そして帰ってくるのかもわからない銀次をただひたすら待っているわたしも、わたしという名のすべての存在が救われるような気がするのだ。
この冬からわたしは雪を見るたびに、銀次、と思うようになった。「好き」でも「愛してる」でも「会いたい」でもない。冬になって、雪が降ると、銀次、心のなかで呼びかけるように、念じるように、祈るように、ただ、そう思うのだ。
あれから何度か冬が来て、また過ぎ去って、今ここにはわたしとわたしの大切な人との子どもがいる。白くて、小さくて、やわらかくて、あたたかい、いのち。
すぐ隣ではこの子の父親であり、わたしの夫である人がいる。そして、わたしがいつかふれたような、黒くて、ずっしりと重くて、無機質に冷たいそれを構えている。そして彼はあたたかな思い出を切り取るために、ぱしゃりとシャッターを押すのだ。
「銀次、初雪だよ」
窓際にいたわたしは、愛おしい人に振り返り、そう微笑んだ。
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