第1話:馬車の片隅で震え、暗い森に舞う少女

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--♥-- 「――魔獣だ!」  聞きなれない叫び声がした。あたしの身体は情けないくらいにビクリと跳ね上がって、隠れる場所を瞬時に探していた。けれど、冷静に考えれば声の主は複数の男。あたしを探しているであろうアイツの声ではないと思えば、今度は笑みが漏れた。これは僥倖。  男なら、ちょいと誑し込んで上手く紛れ込めば、あいつらを撒いて「森」から脱出できるかもしれない。もうアイツと一緒に暮らすなんてゴメンだし、なにより人間と愛を語りあうことは、これ以上なく楽しい。  聞けば、人間の国は荒れている。かの忌まわしい『鉄の王』ラフラニールは病に倒れ、彼を見限った諸侯たちによる群雄割拠の時代が差し迫っているとか。わざわざこの「森」に来る理由は、戦争を逃れるためくらいしか思い当たらない。  野心に溢れた男ならゴメンだけど、戦争から逃げてきた男なら願ったり叶ったりだ。あたしはアイツから逃げて、静かに暮らしたいんだから。  すいっと翼を広げて夜の「森」を飛ぶ。木をすり抜けて魔獣どもを下に見て。さあ急ぐのよシャッテ、まだ見ぬダーリンが何の魔獣に襲われたのかは知らないけれど、助けを求めた人間がまだ生きているうちに。願わくば怪我を負って弱った男がいますように。  ……だけど、願い事はいつも虚しくからぶる。あたしの人生はいつもそうだ。声がしたと思われる場所には男はどこにもいなくて、馬車が一台、少しも壊れずに残っているだけだった。  ……ひょっとして、これは罠? アイツが――『黄昏』が、あたしを誘い出すために、手頃な男を連れてきて……  いや、やめよう。悪い方向に考えが進むのは悪い癖だ。良い方向に考えよう。きっとどこかに臆病な男が隠れていて、あたしの助けを待っている。だからあたしはお母様の言ったように、いかなる時も魅力的でなければならない。ここで吐いた溜息が聞こえたら、男はあたしを訝しむ。翼を隠して、そっと地面に足をつけて少し咳払い。……喉の調子や良し。大丈夫、今日もあたしは可愛くて、魅力的。 「まぁ、大変! どうしてこんなことに!」  すこしわざとらしく、でも心からそう言っているように聞こえるように。そして何より、無力と心配を装って。馬車の周りを見る。……誰もいない。  お母様の教え――ここで焦って「誰かいませんか」と尋ねることは良くないこと――それを自分に言い聞かせて、重症の男を自分の力で探す。手は伸ばさせるのではなく、こっちから包んであげるものだ。そうすれば彼らは心を開いてくれる。  けれど、馬車の周りには馬を含めて本当に誰もいない。魔獣に襲われたのなら血の一滴くらいありそうなものだけど、それさえない。まるで跡形もなく消えてしまったかみたい。そこでふと、浮かんだ魔獣の姿があった。 ――『墓穴(はかあな)』だ。  なぁんだ、という言葉が思わず出そうになる。あの大蛙が全部食べちゃったのかもしれない。食われた男も可哀想。息が詰まって苦しんで死ぬか、そうでなければ何か月もかけて消化するっていうから、苦痛と絶望にまみれて死んでしまうんだろう。どんな酷いことをすればそんな報いが回ってくるんだか。もし生きていれば最高の恋愛をして、最期まであたしが幸せにしてあげたのに。  ……そこまで考えて、また別の考えが浮かぶ。『墓穴』なら馬車の中にまでは出せない筈だ。あいつらは動くものには敏感だけど、動かないものには少しも関心を示さないから。事実、馬車の中には明かりが灯っている。震えた臆病な男がもしいたら、安心させて抱きしめてやればイチコロだ。  そうと決まれば怯えた表情をつくる。それに「残された人がいるのなら助けなきゃいけない」という使命感の表情。その二つをうまく混ぜ合わせて、扉をゆっくりと開ける。 「……誰か、いま――」 「どちらさまですか?」  暗い馬車の中から返事をしたのは、金髪の女の子だった。あたしよりも幾分小柄だし、隅で小さく丸くなっているから余計に小さく見える。 「どちらさまですか? あなたは魔物ですか? それとも鉄の民(にんげん)?」  急いで馬車に乗せられたのか、寝間着のままだ。上等であろう真っ白いネグリジェを着ていて、それに負けないような透き通った肌をランプの灯火が際立たせている。そして肩まで伸びたブロンドの髪が灯火を反射して、まるで夕焼けを映す水面のように輝いている。良い物を与えられ、惜しまれぬ手間をかけられている。貴族の娘だ。 「まずいな」とあたしに思わせたのは、その両目だ。その青い瞳は、聡明さが泉のようにこんこんと溢れ出ているように見えるし、どんなに小さな嘘も見逃さず燃やし尽くす魔法の炎みたいだ。  その証拠に落ち着いている。汗の一滴さえ流さず、まるで魔獣に襲われることを予め知っていたかのようだ。生き方が顔に出るという言葉を何度か聞いたことがあるけれど、この女の子もきっとそうなんだろう。女性の地位が低い鉄の民(にんげん)の女でありながら、惜しまれぬ教育をされたに違いない。そんな人間を相手にする時には慎重にならなければいけない。あたしの語る愛が、騙る愛だと見抜かれれば、心は決して開いてくれないだろう。  もう一つの問題は、女だということ。恐らく性欲に振り回されないから男ほどは簡単に心を開いてくれないだろうし、もしも心を開いたとしても、世間ではいささか目立ってしまうから隠れ蓑として不十分だ。けれど愛し合う分には性別でそれほど変わるものでもないし、貴族の子どもなら強力な後ろ盾があるかもしれない。そうなればアイツがあたしを探し出すのは至難となるだろう。 「あの、」  さてどうしようかなと悩むあたしに、目の前の女の子は意を決したように口を開いた。 「貴女は、手を伸ばしてこないのですね?」 「手? 手が気になるの?」  何の気もなしに手を指し出す。なんで突然——と、あたしが言い切る前に、伸ばした手首を何かがすり抜けた。お嬢さんが目にも留まらぬ速さで腕を振り上げていて、その手には、ナイフ。  なにが起こったのか、一瞬考えた。このお嬢さんが、あたしの手首を、切り落とそうと、した。 「――あっぶな!! あっぶなあっぶなあっぶな!! どうしてそんなことするの! あたしが人間だったら死んでるでしょうが!」 「申し訳ありません。『人気(ひとけ)のない場所で女性が手を伸ばしてきたら斬りおとせ』と父から教わりましたもので」 ――なんて物騒な。 「……でもどうして、貴女の手首は切れなかったのでしょう?」  う、と唸ってしまった。そう、あたし達「夜の民」は剣では殺せない——あたしが触れようと思った以外の物は、あたしの身体を擦り抜けるからだ。  ……この躊躇の無さから考えて、あたしが夜の民であるということは見抜かれているとみて間違いなさそうだ。油断はできないと思った直後に油断して、みっともないくらいに狼狽しているのが自分でも分かる。  これは諦めた方がよくない? と冷静なあたしが自問する。そして答えるのは情熱的なあたし。……誇り高き夜の民は、勝てない戦いを挑まない。何も言わずにソソクサと逃げ出すのが最善ね。 「……そう、よく見破ったわね」  けれど現実のあたしは、まったく違う言葉を出していた。口に出してから「ただのナイフじゃあたしを殺せないだろうし」とタカをくくっている自分に気が付いた。あたしが相手をするには、格が違う相手だろうに、その余裕が、あたしに見栄を張らせていたのだろう。……あたしのバカ!  それでも、ここまで来ては動揺を見せてはいけない。お母様がそうであったように、あたしも誇り高き者なのだ。声色を変えて、自信にあふれた表情を作って、翼を広げて見せる。少しだけ浮かび、鼻筋を通して相手を見下ろす。お嬢さんは少しだけ驚いた表情をしたけれど、両の瞳は動じる様子もなく、あたしを捉えつづけている。 「お察しの通り、あたしは夜の民よ。見破ったことは、ひとまずは褒めてあげましょう。可愛らしいお嬢さん。あたしは誇り高き夜の民。自身の出自を偽るなんて、そんな卑しいことはしないわ」  どれほどの傑物でも夜の民(魔物)と知れば多少は怯むはず。そこに逃さず付け入るのだ。だからあたしよ、次の一言は何か考えろ。命乞いをしたのなら尊大な態度で受け入れれば良い。攻撃してくるのなら身体を透けさせて力の差を見せれば良い。とにかく動揺に付け込んで、優位に立つのが鉄則だ。  けれどお嬢さんは少しも表情を変えずに青い瞳であたしを見つめ、それから極めて冷静に、動揺なんて少しも見せずに首を傾げた。 「……その誇り高き夜の民さんは、一体どのような用件で、わたくしに会いに来たのでしょう?」  ……あたしのバカ!
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