第1話:馬車の片隅で震え、暗い森に舞う少女

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--☆--  黙っていれば絶対に分からなかったと思いますが、目の前の方は自ら自身が夜の民であることを教えてくださいました。そのような境遇でも、仲良くなるためにはお互いの出自を教え合うことが大事です。そのことを相手からしていただけるということは、この方はわたくしと仲良くなりたいということなのでしょう。わあい。  ……と、喜ばせてわたくしを(たぶら)かそうとしているのかもと思い至り、わたくしはかぶりを振ってお父様の言葉を思い出します。  ――夜の民。美しい姿をした人喰いの魔物。夢魔や淫魔とも呼ばれ、人を(たぶら)かし、心を奪い、身体を弄び、最後は骨も残さず人を喰らうという恐ろしい魔物。そんな恐ろしい魔物が今、わたくしの目の前にいらっしゃいます。  確かに目の前の女性は、人間で言えば20代半ばほど、現れたときは金髪碧眼でしたが、カラスのような翼を広げると同時に、髪は木苺のように赤くなり、それと対比するように肌は浅黒くなりました。最初の姿では人間かとおもいましたが、今や完全に魔性の美しさを放っていて、同性でありながら見惚れて溜息を吐いてしまうほどです。はあー。  ……あ。「人気のないところで一人の女性が手を伸ばしてきたら手首を切れ」というお父様の教えは夜の民かどうかを判断する為の物だったのでしょうか? それにしたって誤魔化せば分からなかったのに。ということは、この方はやはり誇り高き夜の民なのでしょう。  しかし、そんな誇り高き夜の民がいらしたなんて、と言えば失礼にあたるでしょうか。お父様からは夜の民というのは卑怯で狡猾な生き物だと聞いていましたし、騎士の方から伺った例もそうでした。「誇り高き」とは、他の方々とは違うということなのでしょうか。――いえ、今はそういうことを考える時ではありません。どこからかギチギチという金属がすれるような音が飛躍したわたくしの思考を落ち着かせてくれます。 「その誇り高き夜の民さんは一体どのような用件で、わたくしに会いに来たのでしょう?」  夜の民さんはまるで絵画のように動かなくなりました。様子がおかしいです。やはりわたくしを食べようと隙を伺っているのでしょうか。一応ナイフを構えておきます。 「あ、あなたに」  声は少し震えているようです。 「あなたに、っていうか、男の叫び声が聞こえたから来ただけさ。だから、その、なに、あの……」 「ひょっとして、助けに来てくださったのですか?」 「……そう、それ! なにか助けになれればと思って!」  ……やはりこの方、お父様が言っていたような卑怯で狡猾な魔物、とは全く異なる存在のようです。まったく別の種族である我々を助けようとするなんて、なんて誇り高い御方! ……それとは別に、またギチギチという音。ひょっとして馬車が崩れかかっているのかもしれません。 「……あの」 「あなたも気付いた?」  誇り高き夜の民さんも気付いていたようです。わたくしは人質らしくしていろと言われていますが、馬車が崩れそうになっている今、そんなことも言っていられません。 「はやく馬車から出た方が良いかもしれません」 「そうだね。『色狂(いろぐる)い』の声がする」  ……色狂い? 「あいつはこんな馬車あっという間に壊しちゃう。そうすればあんたはタダじゃすまない」  ひょっとして夜の民の間では、馬車の経年劣化の事を色狂いと呼ぶのでしょうか――ギチギチ、とさっきよりも大きな音――それなら早く出た方がよさそうです。ギチギチ、ギチギチとどんどん大きくなっていきます。 「話はあと。とにかく今は逃げるよ。あたしが気を引いといてやるから。そっちから降りな」 「はあい」  夜の民さんは人間を魅了する術を知っていると聞きますが、馬車の気を引くこともできるのでしょうか。馬車の気を引けば、馬車の崩壊を先延ばしにすることが出来るのでしょうか。夜の民はいろいろな魔法を使うと聞きますが、そんなことが出来るとは驚きです。  とにかく、理屈は後で聞くとして、今は早く馬車から降りなければなりません。扉を開けてぴょんと飛び降りると、伝わってくるのは足の裏のひんやりとした感触。大変です、これでは足の裏が真っ黒になって、次に履くお靴を汚してしまいます! 「危ない!」  夜の民さんが叫んだ直後、背後でいくつもの食器を割ったような炸裂音。振り返れば馬車は崩れ、大きな剣のようなものが突き刺さっています。暗い森の中にいても否応なく目立つ黄緑色のそれは、ゆっくりと馬車から引き抜かれました。そこにいたのは、それはそれは巨大な蟷螂(かまきり)でした。 --♥-- 『色狂い』は前に見かけた奴よりも一回り大きい奴だった。あたしがこの女の子を肩車すれば、目の高さが合うくらいだろうか。逆三角形の頭に、別々に動く大きな両目で私とこの女の子を値踏みするかのように見定めている。細長く伸びた胴体から生える両腕の鎌には少し血が付いている。 「……『色狂い』とは、」  お嬢さんが呟いた。 「そう、こいつさ」答える声は震えていなかっただろうか。 「あたしはムードを大事にするけどね、お構いなしなのがこいつだよ。初対面の女の子にギザギザの鎌で抱き付いて、首元にキスするみたいに血肉を啜るんだ。だから『色狂い』」  ギチギチと鳴いて『色狂い』はお嬢さんを見た。 「泣いても叫んでも、放してくれないよ。いつの世も好き勝手にされるんだから、女の子ってつらいよね」 『色狂い』は動かない。少しでも隙を見せればお嬢さんに飛び掛かっていくだろう。虫の魔獣は、鳥や四つ足にはない速度がある。人間では、どうあっても太刀打ちできない。  あたしとしては、このまま騒ぎを起こされるのはごめんだった。この娘があいつーー『黄昏』の罠でないと言い切れない以上、変に騒ぎを起こせば見つかってしまう可能性もある。そうでなくても『墓穴』が起こした騒ぎを聞きつけているかもしれない。ここはお嬢さんを見捨てて逃げたほうが良いのかもしれない……けど、  お嬢さんは『色狂い』を見ている。というよりもその力強い目でこの蟷螂を威圧しているようにも見える。 「いい? お嬢さん、この危ない状況を脱する方法を教えてあげるわ」  その思いがあたしの口を勝手に動かしていた。我ながら声だけは立派で、でもこれは夜の民の資質として大事なのだとお母様も言っていた。ダメなのは、何の計画もなく後先考えずに話し出してしまうこと。 「このアホ蟷螂は、動くものになんでも反応するんだ。この森の奴は、大体そうなんだけどね。たとえ木の葉にだって襲い掛かるから、だから迂闊に動かないことが大切だよ」  ――考えろ考えろ考えろ考えろ――  腋汗が服を濡らしている。黒い服だからバレていないハズ。いや、そんなことはどうでも良くて、今は『色狂い』を何とかする方法を考えなくちゃ。「だから――」 「かしこまりました」  お嬢さんはそう言うと、何かを投げた。「ひゅぅっ」という風を切る音がした。かと思うと『色狂い』の両腕の鎌が動き、何かを弾いた。弾かれたそれは、弧を描いて宙に舞う。ナイフだ。 「なにを」  状況に付いていけていないのはあたしだけだった。『色狂い』は、その本能に従って宙に舞うナイフに鎌をのばしていた。お嬢さんは、いなくなっていた。  ――風に色がついていたら、きっとこういう風に見えたのだろう。あたしの視界に残っていたのは彼女のネグリジェが残像となった、白い影。  彼女は風のように(はや)く静かに『色狂い』に駆け寄っていた。ナイフを見ていた『色狂い』は反応が遅れ、鎌を振りかぶる。その時には、彼女は獲物の首に絡みつく蛇のように、しなやかに後頭部まで登り詰めていた。そしてどこかに隠し持っていたもう一本のナイフを振りかぶり、何の躊躇もなく振り下ろした。 「ぐじゅ」という、柔らかい肉と液体が混ざったときの音。『色狂い』の頭にナイフを突き立てられたナイフはすぐに引き抜かれ、――もういちど「ぐじゅ」。 「色狂い」が身体を震わせると同時に、白くて小さな手がもう一度ナイフを大きく振りかぶった。いや、それはもう振り抜いた後だった。すでに逆三角の頭は宙を舞っていて、その大きな目は恨みがましく彼女を睨んでいた。  ごと、と地面に落ちたその頭はギチギチと恨言を呟いていたが、その目は間もなく光を失った。それを見越したかのようなタイミングで黄緑色の身体もゆらりとバランスを崩す。ぶしゅっと体液を吹き出すその身体には一瞥もくれず女の子は飛び降り、『色狂い』の身体もそれに続くように倒れこんだ。「ふう」とため息を吐いた少女の服には『色狂い』の黒い血と薄黄色の漿液の飛沫がついて、暗い森の中でひときわ艶やかに見えた。  でも何よりも輝いていたのはやはり両目だった。その目はただ雲一つ無い空のようで、吸い込まれそうになる。そんなあたしをまるで焦らすように彼女は目を細めた。白いネグリジェが、蟷螂の体液で汚されている。彼女はそれを嫌悪するでも無く、誇るでもなく、静かに微笑んでいた。 「うまくいきました」  その微笑みから、あたしは目が離せなくなっていた。魔獣を蹂躙したその小さな少女は、あたしが今までに見た何よりも美しく――夜の民としてはあってはならないことなのに――あたしの胸は高鳴っていた。
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