第2話:リック、『黄昏』からのお誘いを断る

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--☆--  シャッテは楽しそうにお話をしてくださいますが、無理に明るく振舞おうとしているのは良く分かりました。無理に明るく振舞おうとする理由は何でしょう。思いついてから1日、じっくり考えましたがこれというものに思い至りません。ひょっとしたらわたくし、なにか不愉快にさせるようなことをしたのでしょうかと自問をしますが、心当たりがどうにもありません。 「……さて、そろそろ食べられるものを取ってくるよ。すぐ戻るから」  そういう訳で、ひゅうっと舞い上がり暗闇に消えていく彼女を見送ると「ふう」と溜息が漏れてしまいます。  彼女は何かを考えている様子でした。というのも、シャッテは考え込むと話しかけても気付かないことが多くあるようです。どうして人間の叙事詩について知っているのか尋ねても彼女はぼーっとしていて、名前を4回呼ぶまで気付かなかったのですから。ひょっとして何かの病気にかかっているとか、月の巡りがきているとか、何か身体に支障を来しているのではないでしょうか。帰ってきたら思い切って尋ねてみましょう。力にはなれなくとも、お話くらいは聞くことができますから、辛い思いを分かち合うことができるかもしれません。  ですが夜の民に対してここまで親しみを持てるとは思っていませんでした。ただの夜の民なら誑かされているのかもしれません。ですが、彼女は誇り高き夜の民。わたくしの事を大切に思っていることは手に取るように分かります。  昨日の話で言えば、きっとシャッテは騎士を見逃したのでしょう。なんとなくですがそんな気がします。そもそも誇り高き夜の民となったのなら、その起点となった人間を食い殺すことなんてできないはずなのです。もし人間を食べたうえで誇り高き夜の民を自称するようになったというのなら、一生その騎士を食べたことを悔いて生きなければならなくなるのですから、それはちょっと疲れる生き方です。だいたい、シャッテの身体で人間を一人食べたら、もっとぽっちゃりとしてしまいそうなものです。  ……それにしても、 「果たして今は夜なのか昼なのか……」  思わず声がもれました。真っ暗な森の中では時間の感覚も曖昧になりますが、言葉にはし難い不安感に包まれているような気がします。さっき飛んで行ったばかりのように思えても、もう結構な時間が経っているのかもしれません。そう思うとシャッテに何か異変が起こったのではないでしょうかとも思えました。木の根っこに躓いて転んでいないでしょうか。帰り道が分からなくなって、泣いていないでしょうか。  ――と思ったその時、どこからか、人の声が聞こえたような。 「……もし、」  と、さっきよりは大きい音で、でも羽虫の鳴き声のような細い声。  声の方向を見ると、茂みから背の高く綺麗な女性が女性が歩いてきました。ところどころ破れたみすぼらしい服装から察するに奴隷でしょうか。それよりも目を見張るのは腕から血をじわじわと流しているところ。助かるか、助からないか。手の施しようでどちらにでも転がっていく程度の出血です。 「お助け、ください。先ほど、巨大な虫の魔獣に襲われて、家族はみな食べられてしまいました……どうか、どうか」  ふらふらと歩み寄ってくる足取りから、相当錯乱している様子です。前に出した両手はわたくしに向けているのか、それともあるはずもないものが見えているのか、判断しかねるほどに。 「どうか、どうか――」  ここにいるのがわたくしではなく、魔物であっても彼女は縋り付いたかもしれません。そう思わせるほどに悲壮な表情の彼女はわたくしに寄り譫言のように「どうか」とつぶやいています。その腕は細く、痩せこけて、血がべっとりと付いていました。それなのに指だけは力強くわたくしを掴もうとしています。 「そこまでです」  ――指がわたくしに触れる直前に、その手が止まりました。 「血というのは案外、不潔なものなのですよ。手を取れれば良いのですが、わたくしが病気になっては共倒れです。それは避けなければ。手当をしましょう。そこに掛けてお待ちください」  名も知らない女性は大層驚いた顔をして、わたくしを見つめていました。初対面の方に血は不潔、というのは些か礼節を欠いていたかもしれません。後で謝りましょう。  ネグリジェの裾を裂けば包帯代わりにすれば――『色狂い』さんの体液がしみ込んでいない部分を使わなければいけません――止血には使えそうです。 「傷をお見せください。縛って血を止めましょう」 「は、はい……」  女性は戸惑ったように右腕を差し出してくれました。傷よりも上側に裂いたネグリジェを巻き付け、きつく締めます。 「痛くありませんか?」 「ええ、大丈夫です……」  少し緊張したような話し方です。こんな時どうすれば緊張を解せるか、わたくしは知っています。そう、冗談です。冗談にできそうな話題を何とかして引き出せばなりません。 「御無事で何よりです。……差し支えなければ、どのような魔物にやられたのですか?」 「……大きな、カマキリの魔物に……」 「それは災難でしたね。もし次に会えば、何かで気を引いてから間合いを詰めると良いでしょう」 「……は?」女性は呆気にとられたような表情をしていました。 「茂みから来たのに物音ひとつ立てないなんて、相当な鍛錬を積んだ足運びです。服装は奴隷のようですが、本業は何か別にあったのではないですか? 例えば、」  ――ここで、飛び切りの面白い単語を! 「暗殺者、とか?」  うふふと笑うと、きっと彼女もあははと笑っていただけると思いましたが、女性の顔は焦燥そのものでした。 「……バレてしまっては、」  仕方ないと、言うや言わんや女性は右手を手刀にして振りかぶっていました。  このままじっとしていれば、彼女の手によって、わたくしから血が流れたでしょう。  でもわたくしの手はそれよりも速くナイフを取りだして、次の瞬間には彼女の手首が宙を舞い、頬に黒い返り血。間をおいて、絹を裂くような叫び声。 「……手を伸ばしてくる女性の手を切れ、と育てられたもので」  女性は、あうあうと言葉にならない喘ぎを漏らしています。それからやがて動かなくなり、真っ黒い砂塵になって消えました。 「……魔物でしたか」  砂塵の飛ばされた方向から、ぱちぱちと勿体ぶった拍手の音。そこには黒いドレスを着た長身の……男か女か、見た目だけでは分からない魔物、恐らくは夜の民が立っていました。 「――鮮やかです。うん鮮やか。でもワタシ達の麗しき王には敵わないよ」  長身で肉付きはしっかりとしています。それに反してその声は少女か少年のように澄んでいました。 「何の躊躇もなく手首をチョンと切ったね、うん、切った。ねえ貴女、なんであの子が貴女の命を狙ってるって思ったの? ワタシ、知りたいなぁ。うん、ワタシも知りたいよ」  胸元が大きく開いた上衣は夜の民の服装でしょうか、シャッテに比べて露出が多く、見えている肌は美しいのですが、品は感じません。  殺気はあまり感じませんが、それは恐らくわたくしのことを食事だとおもっているからでしょう。誇り高くない夜の民という言葉を思い浮かべました。 「わたくしとしては面白い冗談のつもりだったのですが」  その魔物はひゅーぅー、と気の抜ける口笛を吹きました。飄々とした態度が癇に障ります。 「失礼ですが、どちらさまですか? わたくし、魔物のお知り合いはそう多くありませんの」 「あら失礼、お嬢様」その夜の民はそう言って、わざとらしく頭を下げました。「私は『黄昏』……夜の先駆け」  変わったお名前ですが、失礼に当たるので名前のことをとやかく言ってはいけません。 「初めまして、『黄昏』さん。わたくしの事はリックとお呼びください」 「ふぅん、リックちゃんって言うんだ」 『黄昏』さんはぺろりと舌なめずりをしました。その見た目の美しさや、澄んだ声ではなく、その舌が彼女のすべてを表しているようです。誇りなど微塵もなく、嗜虐に飢えた表情。 「歳はいくつかな? 見たところ17,8くらいか。ああ、素敵。でもワタシ達の美しき王の方が素敵。ねえリックちゃん、ワタシはね、あなたみたいな人を探していたのよ? ワタシたち、お腹が空いていてね」  ――視線。いつの間にか囲まれているようです。サッと見回しただけでも6体。 「ねえ、こんなところに一人でいたって仕方ないわ。ワタシ達と一緒に楽しいことしない?」  楽しいこととはどんなことでしょう。ご一緒にお食事ができるのならば歓迎したいですが、シャッテを放っておくわけにはいきません。それに彼女たちのご飯とは、わたくしのこと。 「生憎ですが、見逃していただけると助かります。わたくし待ち人をしていますの」 「その人が帰ってくるまでの間だけよ。すぐに終わるからさ、良いでしょう?」  ぺろり、と舌なめずり。その時わたくしはお父様の教えを思い出しました。夜の民の物言いは迂遠で扇情的であると。ああ、いけません。婚姻に至らず関係を持つなんて、とても健全とは言えません。  それでも、わたくしを囲む夜の民たちはにじり寄ってきます。これは、戦うことを覚悟しなければなりません。でもシャッテがここに帰ってきたら? わたくしが夜の民と戦っているのを見て、彼女は何を思うでしょうか? 「じっとしてたら、痛くしないからね」  ……乙女の操の危機です。申し訳ありませんが、事を構えなければなりません。ナイフを握り直し、構えます。 「痛くなくても、いけません。不健全です」  言い終える前に、背後の夜の民がにじり寄ってきました。 「……来るなら、 容赦は――」
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