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翌日、イベントに参加できるという趣旨の連絡がマスターからあった。複雑だったけれど、やっぱりうれしかった。
『ありがとうございます!』
早速だけど、とマスターのお店で打ち合わせをすることになった。もちろんあの主催者の女性も交えて。クッキーも食べてもらったほうがいいと思い、少し多めに詰めてラッピングした。
待ち合わせは夕刻。梅雨らしくシトシトと降る雨が草木を濡らし、ライトアップされたカフェは更に雰囲気が増していた。入口の門に掛かるプレートが『close』になっていた。おかしいと思いながらも、ゆっくりと扉を開けた。
「いらっしゃい」
いつもと変わらないマスターの笑顔。いつもと違うのは、バリスタエプロンをしていないということ。
『マスター!本当にありがとうございます!うれしい。またクッキーになっちゃうんですけど、感謝の印です』
「ありがとう、頂くね。そうだ、昨日のクッキー…」
向かい合って私たちが会話しているところに、女性がやってきた。ドアを開け、私たちを目にした時、一瞬、顔をしかめた。だけどすぐに華やかに口元をカーブさせた。
「はじめまして、由美です。よろしくお願いしますね」
打ち合わせの最中、暁斗さんが言うような粘着質な言動は感じられなかった。むしろ、すごく丁寧な説明で、聞いていた印象とは全く違った。
打ち合わせが終わり、マスターが出してくれたのはハワイコナ。南国リゾートを思わせるクリアな味わいが、気分転換になるんだと教えてくれた。
由美さんがマスターと話しはじめたから、私はコーヒーをいただきながらノートに今日の感想を記した。
“大きなイベントに出店できることになって夢に一歩近づきました!私の夢は、たくさんのひとに私の作ったクッキーを食べてもらって、幸せを感じてもらうことです。マスターの今の夢はなんですか?2021年6月19日 星”
書き終え、前のページをめくる。そこには私が昨日書いたものがあった。その下に、返事があった。
“ごちそうさまでした。味もデザインも申し分なし。見た目よりも甘さが控えめだから、うちのコーヒーならケニアが合うかな。たっぷりミルクを入れて濃厚なカフェオレにして一緒に飲んでも美味しいと思うよ。またクッキー持っておいで”
胸が高鳴った。甘酸っぱい思い出がよみがえるような感覚だった。男の人にしては綺麗な文字。一文字一文字を追うように、指先を滑らせた。
「それじゃあ今日はこれで」
由美さんの声にハッとして、ノートを閉じた。
『それじゃあ駅まで一緒にどうですか?』
「ううん、私たちちょっと…」
由美さんはマスターを見た。
『あ…それじゃあ…またご連絡します。本当にありがとうございました!マスター、ごちそうさまでした』
なぜか私は逃げるようにお店を出た。何となく振り返った先に、磨りガラスに透ける二人の影があった。由美さんがマスターの首に腕を回しているんだと、シルエットで分かった。
色々な思いが駆け巡っているのに、頭の中はからっぽ。雨上がりの道を、所在無さげに歩く。
「あれ、星ちゃん?」
『…暁斗さん』
「どしたの?ぼーっとして」
『いえ…あの、マスターとあの女性はいい感じなんじゃないでしょうか…』
「は?ないない」
『だって…抱き合ってた…』
暁斗さんが私の顔を覗き込んだ。
「それで?ショックでそんな泣きそうな顔してんの?」
泣きそうなのか私には分からない。そんな私に、暁斗さんはきっぱりと言い切った。
「それって朔のこと好きってことじゃん」
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