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「年越しも、新年も。何もかもなくなればいい。誰にも会いたくない。どこにも…、海外にも。アメリカに行くなんて、そんな気力…。意識がなくなって何も感じなくなればいいのに。無機物か、虫にでもなれたら。…何も考えなくていい…」
「駄目です、そんなの。…柘彦さんは柘彦さんじゃないと」
わたしの思いきって伸ばした手が彼の肩へと到達した。
そっと手のひらを添えて力づけるように軽く揺する。目を覚まして。起きて、立ちあがろう。
あなたを一人にはしない。
「ここを出よう、柘彦さん。…わたしも一緒に行く。大丈夫、二人でなら。どこででも何とでもなるよ」
突拍子もない唐突な台詞でも、実際に口から出るとなんの根拠もなくても実行可能に思えてくる。
これも言霊ってやつか。と頭の端っこでやけに冷静な感慨を抱きつつも次々に飛び出してくる言葉は止まらない。
「もう無理しなくていいんだよ。柘彦さんはすごく頑張ってくれた。これ以上は必要ない。…あとは、わたしに任せて。どこか遠くへ行って、身体と心を休めよう。そうすれば、きっとまた元気になれる。二人でひっそりと、身を寄せ合って協力して。見つからないよう静かに暮らしていけば…」
彼の肩から伝わってくる温かな生身の体温。大丈夫、まだ間に合う。
この人がわたしにしてくれたことの一つひとつを思い出して脳裏で並べてみる。行き場のないわたしに声をかけ、細かいことは何も尋ねずに引き受けてくれた。仕事をくれて教育を受けさせ、路頭に迷わないように配慮してくれた。風俗か水商売くらいしか選択肢のないわたしの視野を広げて、将来の可能性はちゃんと自分にもあるって思わせてくれた。
きっとわたしはこの館の外でも生きていける。それは全部この人のおかげだ。
だから、今からその分をきっちり彼に返そう。
そのために投げ出すものはどうせ元からわたしが持っていたものじゃない。別に惜しいとは思わない。もらった分を返すべきときが来た、それだけ。
柘彦さんがどう受け止めるかわからない。わたしは必死に気持ちを込めて、こちらの声が聞こえてるかどうかもわからない、はかばかしい反応を見せない彼に向かってさらに訴えかけた。
「わたしね。柘彦さんのおかげでこうして無事に暮らせて、二十歳になった。高校も卒業したしもうどこに行って何でもできる。ちゃんとした仕事にも就けるよ。…だから。何も心配しないで、わたしを信じて。一緒に出て行こう。この子も、…ノマドも連れて」
名前を呼ばれたことがわかったのか、どんぴしゃのタイミングでノマドが嬉しそうににゃあ、と鳴いた。
その声に背中を押されたのか。反駁するほどの気力も思考も残ってないからなのか、彼が肩をぴくりと僅かに震わせてからやがてゆっくりと小さく頷いたのが、触れてる手のひらから直に伝わってきたのを何とも言えない気持ちで感じていた。
彼の部屋に行って最低限のものをまとめるのを手伝った。私物に触れるのをためらってる余裕なんてない。お互い決意が鈍る前に、理性が戻って身動き取れなくなる前に。とにかくここを出ないと。
それから彼とノマドをそこに残してわたしだけ自分の部屋へ戻り、手早く着替えてから身の回りのものとノマドのキャリーバッグを持ってくる。彼はわたしに頼まれた通りきちんと着替えてそこで静かに待ってくれていた。
やっぱり家を出るのは無理だ、止めようとはならなかったんだな。と胸の内で確かめるように噛みしめながら彼の手を引いて部屋から出た。
柘彦さんは全く抵抗せずに素直にわたしについてきた。
子どものような頼りない、弱々しいさまに複雑な痛々しい思いが去来する。あんなに凛として、超然としたひとがここまで弱りきって参ってしまった。やっぱりこのままここに置いてはおけない。
先がどうなるかはわからない。だけど、とにかくまずはお屋敷とあの人から引き離さないと。
そのためにわたしは全部手放しても構わない。
そっと静かに建物から出て、門の方へと向かう。ゲートを内側から開けるときふと振り向いて、館とそれを取り囲むまだ花のない冬の庭園をぐるりと一瞬見渡した。
お別れだね、と心の中で呟く。楽しいことも大変だったことも、幸せだったことも。わたしの感情に関することはここで初めて生まれて動き出したって言っても過言じゃない。館に来る前は何も感じてなかったも同然だった。
人生で一番大切な、かけがえのない二年半。だけどこの人を守って生かすためなら捨てられる。
何も惜しくない。門を開けるわたしに後悔はなかった。
軋む音を立ててゲートが開く。誰かが気づいて追って来ないかな、とひやりとなったけどそれは杞憂に済んだようだ。
「…行きましょう」
小さく声に出して促すと、彼は機械的な動きで頭を僅かにこくりと頷かせた。
さよなら、わたしに幸せな時間をくれた場所。
そう胸の中で呟いて門を出た。背後でかしゃん、と閉まる音を聞いたけどもう後ろ髪を引かれる思いもない。
しっかりと彼の手を取り直した。
それから彼の歩みのペースに合わせて、もう二度と歩くことのない坂道をゆっくりと並んで歩き始めた。
《第12話に続く》
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