第21章 見ないふりはできない

10/12
前へ
/21ページ
次へ
彼女は習慣で動いてたところをふと我に返ったみたいに足を停めて、こちらに向き直って戻ってきた。 「そうね、確かに。もうこんな時間だし。あんまり遅くなっても明日に差し支えるから手短に済ませましょ。…ごめんね、眞珂ちゃん。変なことに巻き込んで」 「いえ。わたしこそ、こんな時間に。部屋から出てうろうろしてたから」 そこはちょっと自分でも後ろめたい。もちろんこっちは哉多もわたしも独身だし。一応将来的には結婚を視野に入れてる、と言い訳出来なくもないのでさほど言語道断、不道徳な関係とは思われない可能性もあるけど。 それでもどうしてか胸を張れないわたし。堂々と、哉多と付き合ってるんですって誰にも正面切って宣言できないでいる。多分このお屋敷の中ではとっくに周知の事実になってるんだろうに。澤野さんも全く驚いていなかったし。 わたしの向かいに座った彼女の視線の位置が下りてきてお互いの目が合った。よく見ると意外と微かな皺が目の下にある。と間近に正面で顔を合わせて初めて気づいた。澤野さんは普段から若々しくてなかなかの美人だ。こんな見た目でも確かアラフィフなんだよな、と改めて思う。 漠然とせいぜい四十前後くらいの感覚で考えてた。だけど完全に落ち着き払った大人の態度ともうお子さんたちが成人してる、って知識のせいで。誰かとまだ恋愛する可能性のある人なんだって全然頭の隅に思い浮かんだこともなかった。 わたしなんかよりこれだけ歳上の大人のひとで、旦那さんと長く人生を共にしてきてお子さんを二人育て上げたあとでも。誰か別の人をまた好きになったりすることがあるもんなんだろうか? ほんの二十歳そこそこの子どもには完璧に想像の外の領域の話だ。 自分の思考の中に沈んで黙り込んでしまったわたしの顔つきにはよほど複雑なものが滲み出ていたのかもしれない。澤野さんの目許にふと柔らかな笑みに似たものが浮かんだ。 「眞珂ちゃんは別に、いいじゃない。自分の意思で決めたんなら悪くない選択だと思うわ、哉多くん。二人とってもお似合いよ。…特に不本意な成り行きってわけじゃないんでしょ?」 何となく探りを入れられたというか。念を押された感があるけど、どうしてかはわからない。そんなつもりじゃなかったのに流されてこうなったとも言えず、わたしはやや曖昧に頷いた。 「ええまぁ。…はい」 その微妙な反応に何か感じるものがあったのか。彼女はそれ以上哉多の話を続けなかった。 しばし黙って、やがてぽつりとこぼしたとき話は既に切り替わっていた。 「…軽蔑するわよね、こんなの。普通に、眞珂ちゃんみたいな純粋な子から見たら」 「…え。いえ、そんな」 反射的に全否定してからそっか、と改めて認識した。 普通に考えたらそういう反応でおかしくないのかも。自分の母親くらいの年齢の既婚で子持ちの女性と、四十絡みの妻子持ちのしかも愛妻家と聞いてた男の人。双方とも日頃の距離が近くて何くれと面倒を見てくれる親しい間柄だ。 感謝と尊敬を感じてる二人が、まさかの不倫の関係にあったなんて。普段のイメージからの反動で思いきり幻滅と嫌悪に転じても別に不思議じゃない。こっちは未婚で異性経験も浅いから、その辺相当潔癖だろうと予想してたのかな。 だけどどういうわけなのか。いかにも出来心や弾みで、ってことじゃなくある程度以前からの継続的な深い仲なんじゃないかって感じさせる馴染んだ様子の二人を目の当たりにしても、わたしの中に拒否反応や生理的嫌悪感はほとんど湧いてこなかった。 どうしてなんだろう。こっちの見た目で澤野さんが判断するほど、大してわたしは純粋ってこともないからか。それもまあ事実って言えば言える。なんていうか。いい歳した中年の男女が不倫なんてぞっとする、って感覚がそもそもあんまりないかも。自分の中で。 何しろ育った家の親があんなだしな。と自嘲したけどそれが理由ってのもしっくり来ない。母や父と、澤野さんたちはわたしにとっては全然重ならない存在だし。 わたしは目線をしっかり前に据えて、心配そうにこちらを覗き込む澤野さんの眼差しを真っ向から受け止めた。 「…軽蔑は、しません。よくわからないけど。澤野さんと師匠なら。…こうなるしかない退っ引きならない事情が。きっとあったんだって、思うから」 澤野さんの旦那さんやお子さん、師匠の奥さんやお子さんたちならもちろんそんな風に思えないに違いない。だけど、わたしは二人の家族とは立場が違う。 同じように怒ったり非難したり、嫌悪を剥き出しにしなくていいんだ。この人たちも人間なんだから。複雑だけどいろいろあるんだな、としか思えないならそれを無理に捻じ曲げなくてもいい。 しばらく彼女はわたしの言葉が信じきれないように怪訝な表情でこちらを伺っていたけど、やがてその台詞が本心からなのを悟ったからか両肩からふっと重荷が降りたように見えた。 「…眞珂ちゃんがそう言ってくれるのは。わたしとしては救われないこともない、けど」 それでもまだやや硬い顔つきで、身の置きどころがないみたいにテーブルの上で両手を落ち着かなく何度も組み替えた。
/21ページ

最初のコメントを投稿しよう!

4人が本棚に入れています
本棚に追加