第21章 見ないふりはできない

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「それでも誰から見ても許されない、言語道断なことをしてることに変わりないわ。…ごめんなさいね、こんなこと。眞珂ちゃんみたいな綺麗な心の子の目に。入れないようにもっと、慎重の上にも慎重に気をつけるべきだったのに」 「いえ。大丈夫です、わたしなんかのことは。…それより絶対。澤野さんと師匠の方が。どう考えてもつらい思いをしてるはずだから」 すんなり自然にそんな台詞が口から出てきた。 そう、二人は楽しんでるわけじゃない。その事実が不意にわたしの中でしっくりと腑に落ちた。 この人たちはつらいんだ。そんな経験をわたし自身は知らない。だけど、澤野さんと師匠がお互いの家族のことを出し抜いていい気になって、自分たちだけよければいいんだと快楽をつまみ食いして浮かれてるんじゃないことは何となくわかる。 こんなことは許されない、いけないことなんだと重々承知でも止められない。会うことでお互い傷つくけど会わずにいることもできないんだろう。二人がこの部屋の戸口で向かい合って佇んでいる姿を思い出し、そんな空気を漠然と感じ取れた気がした。 二人は多分、逢引きを繰り返しながら別れられない自分たちを心の中でずっと自ら責めているんだと思う。傍から言われなくても本人たちが自覚してることを。何でわたしがわざわざ口にして、突きつける必要がある? わたしに責める気がないってことをこちらの目の中から読み取ったんだろう。彼女はどこか力の抜けた様子でふっと息をついて視線を落とし、ぼそぼそと低い声で述懐した。 「…何言っても言い訳にしかならないし。申し開きをする気はないわ。だけど、もし眞珂ちゃんがわたしたちのことを絶対許せないって気持ちじゃないんなら。…できたらこのことを他の人には知らせないでいてくれたら…、わたしはともかく。あの人の今後の仕事に。差し支えると思うから」 「もちろん言わないです。それに、ごく個人的なことじゃないですか。普段のお二人の仕事とは全然関係ないですよ」 彼女は顔を上げて、そこはかとなくいつもより大きく見える真っ黒な瞳でわたしを見返した。 「…眞珂ちゃんは。ほんとに優しいのね」 そんな風に買い被ってもらえるほどのことは。わたしはぶんと頭を振ってその言葉を否定した。 「優しいからとかじゃなく。こんな個人的なことで澤野さんや師匠の仕事が無意味になるのはおかしいと思う。それはそれ、これはこれでしょ。プライベートなことでわたしや茅乃さんや柘彦さんが何か迷惑被ったかって話ですよ。…でも」 ご家族は関係ありますよね。とうっかり口にしかけて言葉を呑んだ。そんな、本人たちが痛いほどわかってることを。たまたま居合わせただけの立場でしたり顔で説教するみたいな振る舞いはしたくない。 だけど、どうやってもどうしようもなく別れられないなら。二人がもう少し楽になれたらいいのに、と思って言葉を慎重に選んで尋ねてみた。 「…それぞれ離婚して。何とか一緒になるってわけにはいかないんですか?やっぱり難しいのかな。澤野さんのところはお子さんも大きいし。師匠の家ももう父親離れして休みの日は一緒に遊んでくれないって話だったから…。乳幼児や低学年の子がいればそりゃ、身動き取れないだろうけど。理解してくれる可能性もある年頃なんじゃないですか、もしかしたら」 まあ、知ったら絶縁される確率の方が遥かに高いかもしれないが。 それだけのことをしてるとも言えるので、何もかもを失うかもしれないとしても。周囲からはそりゃ無茶苦茶非難されるだろうけど、思いきって全てを表に出して。お互い以外何も残らない状態で一から始めるのも手なんじゃなかろうか。 彼女のいつになく疲れたような色の滲む目許がふと緩んだように見えた。 「眞珂ちゃん。…やっぱり、若いわよね。そう、それができたら。誰を傷つけても他の何もかも失っても。構わないから自分の気持ちに正直に生きられたら。…結局それが周囲のみんなに対しても誠実な生き方って言えるのかも、しれない。けど」 そこまで何とか続けてふと絶句してしまい、しばし沈黙がその場を支配した。 「…眞珂ちゃん」 再び顔を上げて口を切ったときは、既に冷静さを取り戻したみたいに彼女の目の色は静かな穏やかさを湛えていた。 「眞珂ちゃんは。…自分の気持ちを間違えないでね。世間から見てどう思われるかとか。自分の立場を弁えなきゃとかそういう常識に囚われないで、思うままに生きて。今は無謀に思えても結局長い目で見ればその方がみんな救われる。今なら間違えた地点に戻ってやり直すのも難しくない。…だけど」 そこで再び言葉に詰まる。わたしは口を挟んで先を促すこともできず辛抱強く彼女が気を取り直すのを待った。 「…わたしたちのことは。もういいの、こんな気持ちは。山は越えたと思うし、あとは何とかやり過ごしてごまかしていればそのうちすり減っていつか消えていくでしょう。時間は多少かかっても…。でも、眞珂ちゃんは。まだ何も決まってないし、始まってもいない」
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