第22章 温室を出る

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第22章 温室を出る

わたしはもちろんその晩見たことを誰にも告げず、何事もなかったように次の日以降も過ごした。 澤野さんも翌朝顔を合わせたときにはもう、特にわたしの前で態度を変えることもなくごく普通にいつも通り接してきた。こちらが気が変わって大騒ぎしたりいきなりどこかへぶちまけたりしない限りは、今まで通りの生活を続けるつもりなんだろう。 わたしがやっぱり許せない!とか言い出してみんなの前で告発を始めればそれはそれ。自分たちに非はあるんだし仕方ない、と腹を括ったんだろう。そのときは甘んじて世間様と家族からの裁きを受けるけど、そうじゃない限りは何も起こらなかったかの如く平常運転で行くってことらしい。 わたしが思い悩んでもしょうがないけど。二人はそれでいいのかな、と内心で思わないこともなかった。 あまりのことにこちらもややパニック気味で細かいところまで記憶がはっきり残ってるわけじゃないけど。確かお互いの思いは既にピークを越えていて、あとは消し炭みたいに燃え残った火が自然に消えるのを待つより他ない。みたいな話だったような気がする。 何とかごまかして日々やり過ごしていれば必ずいつかこんな気持ちは終わる。それまでの辛抱だから、なんてことを言ってた。師匠の心算はともかく少なくとも澤野さんの方は、自分たちのことをそんな風に受け止めてるらしい。 だけど、そうまでして結局別れられないでいるのなら。いつまでも隠して黙って会い続けるのも、かえって家族への裏切りとしては酷さ倍増ってことにならないのか。 そこまで気持ちがよそに向いてるんならそこははっきり白黒つけて、もうそっちにきっぱり行ってくれた方がまし。愛情がないのに我慢してそばにいられるなんてこっちこそ願い下げだから、きちんと話し合って別れてからさっさと新しい相手の方へ移ればいいじゃん、とか。それぞれの配偶者からは思われないのかな。もし万が一あとでこのことが知られたら。 そう思ったけど何とも言えない。わたしは当事者じゃないし。 実際に彼女みたいな立場になったら、やっぱり何も知らない家族にはそのままでいてほしい、出来るだけぎりぎりまで波風立てたくないって考えるかもしれない。 夫や子どもに打ち明けて浴びせかけられる非難や罵倒に耐えて、その上すんなり別れられるかどうか。ごたごたが何年も続いてもつれにもつれるかもって思ったら、とにかく自然に事態が収まるまで様子見したい、みんなにばれる前にお互いの気持ちが落ち着いて気が済むかもしれない。って判断を先送りしたくなるのかも。経験してないことを評論家よろしく、上からああだこうだ言い切ることはできない。 そこまで考えて、そもそも自分だったらまず絶対に浮気自体するわけないしとか。結婚しといて他の人を好きになったりまして身体の関係を持つなんてまずそれだけで万死に値する、っていうような全否定の思考回路がわたしの中にそもそもないのは何でなんだろう。ってふと素朴な疑問が浮かんだ。 普通、未婚で浮気なんか身近にない若い女だったら不倫をしてる中年男女を見たら何より拒絶とか否定、嫌悪感が先に立ってもおかしくない。生理的に無理、と激しい反応を示すのが普通かも。そんなことするんなら最初から結婚しなきゃいいじゃんとか。配偶者に迷惑かけるくらいならさっさと別れてあげなよとか。 わたしとばったり深夜の廊下で鉢合わせたときに、澤野さんがまず想定してたのもそんな反応だったように思う。ネットで赤の他人の不倫のニュースを叩いてる人みたいな正義感で厳しく非難してくる、って身構えてたんじゃないかと。あとから思い起こせば。 なのにわたしはショックこそ受けてはいたが二人に嫌悪を示したり道徳的観点で責めたりはしなかった。あのときの澤野さんの表情や反応からして、そのことは少し意外だったんじゃないだろうか。 そして、そのせいで。やや落ち着いて自分を取り戻した彼女は、わたしに対してあんなアドバイスを伝えたってことで…。 そこまで考えて力なく首を振った。あとで後悔しないように思うがままに生きろ、なんて。言うのは簡単だけど澤野さんだってつまりはできなかった、無理だったから今こうなってるってことでしょう。誰だってそうできたら苦労はない。 自然とそんな風に考えちゃったのがまずやばい。いえわたしはあとで悔いが残りそうな状況なんて全然今は思い浮かばないです。結婚を考えてる相手もいるし。わたしのことを大事にしてくれてなるべく早く一緒に暮らしたいって言ってくれてる。その申し出を受けるのにためらいなんて何もないよ。…っていうようにはやっぱり、思えなかった。 そのもやもやを多分あの一瞬で見抜かれた。自分ももしかしたら彼女たちみたいな袋小路に追い込まれる可能性がゼロじゃない。どこかでそんな危惧を感じてて、自分の身の上に照らし合わせてほんの少しだがいっとき理解してしまった。僅かな躊躇から多分、そのことが伝わったんじゃないか。
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