第22章 温室を出る

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澤野さんの部屋の小さなテーブルを挟んで向かい合ったあのとき。わたしと彼女の間で一瞬何かが通じ合ったんだと思う。 ただ新しく恋人ができて、ふわふわと浮かれて毎日を過ごしてる若い女ってわけじゃなかった。結婚しようって詰められてはいるけど、流されて受け入れたら将来後悔しそう。悔いが残ってそれが原因となって同じようなトラブルを起こしそうで、どうにも踏み切れずにいる迷いの中にいるわたし。 澤野さんと師匠を責められないでどこか理解を示してるわたしを見て、彼女にはすぐそのことが読み取れたんだと思う。逡巡があるなら世間がどう思おうと後悔しない方、心が選びたいと感じてる方に行きなさい。そうしないとあとでもっと余計に酷いことになる、って言葉には迫真的な実感がこもっていた。 本当はわたしにはもっと他に選びたい道がある。そのことが伝わって背中を押してくれた、のはわかる。…でもねぇ。 足許で機嫌よく弾むようにかりかりを食べている幸せいっぱいのノマドの前に屈んでその姿を眺めながら、わたしは諦め混じりのため息をついた。 そっち側へのルートはもうとっくに、何重にもかさねたバリケードで塞がれてて。踏み込もうにも足を入れる隙間もないんだよなぁ…。 大体、障害を乗り越え柵を破壊して何とか無茶してあの人の許へ駆けつけたとしても。そもそも本人がわたしなんかに来られて迷惑だと感じる恐れがないとは言えない。 いくら彼の心身の健康状態が切羽詰まっていたからって。そこから救い出そうとする人間との関わりもまた鬱陶しい、自分に構おうとする奴が存在するのも嫌だって彼自身が思うんじゃどうしようもないよね。 自由にはなりたいけど救世主みたいな顔をされてそばに来られるのも迷惑だ。それくらいなら自分の中に閉じこもって心を鎧っている方がましだと思われてたら。わたしが心のままに行動することが、結局彼にとって何のためにもならなくて終わる可能性もあるだろう。 何と言っても一度は目の前ではっきりと関わらないで欲しい、と拒絶されたことのある間柄だから。向こうが今、弱っているからといって自分に何か権利があるみたいな我が物顔でずけずけと立ち入っていいのかどうか。いざとなるとこちらも怖気づいて身動き取れない。ってのも我ながら無理からぬ話だと思う。 数日後、あれ以来初めて顔を合わせた師匠はさすがにやや気まずい様子でわたしの前に現れた。 「奈月」 竹箒で枯葉や枝を集めてるわたしの近くにやってきて、どんな表情を浮かべていいか迷ってる顔つきで一瞬言葉を失う。それから覚悟を決めたように居住まいを正し、深く頭を下げた。 「申し訳ねぇ。この間は、…見苦しいところを見せたりして」 「いえ、そんな。顔あげてください」 真面目な話恐縮する。いつも厳しくてびしびしもの言って歯に衣着せない威厳のあるあの師匠が。 こんな小娘に頭下げて、しかも理由が自身のダブル不倫かと思うと。…正直頭を下げられてるこっちも何だか居心地が悪い。 わたしは箒を動かしてた手を止めて彼に向き直り、考え考え言葉を選んだ。 「大丈夫です。わたしは…、たまたま。居合わせただけだし。特に何も見てないですから。師匠がお気にされることは何もなかったですよ」 廊下を歩いて自室に戻ろうとしたら、澤野さんの部屋の前で立ち話してる師匠を見かけただけ。別におかしなところは何もない。一点、時間帯の問題を除けば。 そんなニュアンスを匂わせて告げると、師匠はその意図するところをちゃんと察したようだった。ふう、と息をついて肩を落とし、力の抜けた声でしみじみと重く呟く。 「済まねぇな、ほんとに。奈月に余計な気なんて遣わせて。師匠の風上にも置けねぇよ。弟子にこんな風に庇ってもらう羽目になるなんて…」 「いえですから。何も庇ってないですよ。変な場面は全然見てないですから。ただお二人が立ち話してるとこに出くわして挨拶したってだけなので。…澤野さんときちんとお話ししましたし。もうこれでこの話は終わりですよ。ね?」 まだ肩身の狭そうな師匠を見て、慌ててさらに言葉を重ねて念を押す。いつまでもこうやって引きずられると、周囲の人たちに何か異変があったと察知されそうだ。今まで通りの堂々とした態度で接してもらわないとそのうちぼろが出るぞ。 澤野さんほどクールに割り切れないどうにも正直な師匠をフォローするのに心を砕きつつ、わたしは何も起こらなかった体で日々振る舞い続けた。そうしてるうちに師匠もそれに慣れていき、次第に何もかもが平常通りに戻りつつある。…表面上は。 しかしわたしの胸の内では、あの日の澤野さんの表情と声がありありと甦り心の奥深くに向けてずっと訴え続けていた。 忘れようとしても上手く忘れられそうにない。少なくともこの世の中に一人。わたしが自分の心を捻じ曲げて、見て見ぬふりでなかったことにして違う道を進みかけてる事実を知ってる人がいる。 内側の激情や迷いや弱さを全く外に出さず、端然とした態度で日々の仕事を黙々とこなしている彼女を見るたびに。そのことを改めて思い知らされた。
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