第22章 温室を出る

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だけどこの場で、そんなこと止めてください。ちゃんとこの人の顔色を見て。いつかこのまま限界が来るまで引き回し続けてたらそのうち取り返しのつかないことになりますよなんて。 ドレスと正装姿の上品なお客様でごった返すホールの中で、どんだけ空気読めない奴として冷たい視線を浴びる羽目になるんだ。 と想像すると結局、ここで全てを敵に回してもいいから敢然と啖呵を切るべきなのかっていうと。気持ちの上ではそうしたいのはやまやまだが、必ずしも今それが最も有効な手段とはいえない。何とか自分を宥めて後ろ髪を引かれながらホールを後にした。 パーティーの会場で今すぐ彼が倒れるとか壊れてしまうとか。異変が起きる可能性はそんなに高くない。だとしても周囲にこれだけ人がいるんだから、お医者様にすぐ診せるくらいのとこは誰でもしてくれるだろうし。 それより本人が大変な思いをするのは今日の試練が終わってから、ようやく一人になれたときじゃないかな。人前で頑張って何とか気を張ってたのがどっと一気に決壊して酷いことになりかねない。 呉羽さんも多少のフォローはするだろうけど、それで足りるならここまで彼を弱らせてはいないだろう。彼女と較べてわたしの方がより充分なことができると自惚れてはいないが、ここにあなたの苦しみを察知してるものがいる。この状況が本当につらいなら協力するから一緒に変えて行こうよ、わたしはあなたの味方だってことをどうにかして直に伝えたい。 キッチンで黙々と食器の片付けを手伝いながら、脳内では何とか彼に接触する機会を得られないかとあれこれ策を練っていた。 今日はクリスマスだから、あと一週間ほどで年末年始だ。お正月になるとまた新年の祝賀パーティー。それからすぐではないかもしれないが、多分一月のうちに二人はアメリカに出発する予定と見た。 できたらそれまでに彼と何らかの形で話をして、健康上渡米は無理なんじゃないかと問題を提起するきっかけを作りたい。本人もこの状況はつらいんだ、今のペースで同じようには続けられないって感じてるのを確認して。周囲のみんなにも認めてもらわなきゃ。そのための説得材料が欲しい。 彼は大勢の前で主張するのは苦手だと思うからその役割はわたしが代わりにやる。そのことでどれほど呉羽さんの敵意を買うことになろうが平気だ。 柘彦さん本人からの信頼を得て希望を託してもらえさえすれば。 だけど、この短期間で。柘彦さんがひとりになって、わたしが近づけるチャンスがどれほどあるのかが肝心のところだよな。 普段は使用せず奥に大切にしまわれているお屋敷所蔵の高価な食器を、丁寧に拭いて重ねて積み上げながらわたしは真剣に思案した。 呉羽さんだってそろそろ年末の仕事休みに入る時期だろうし。毎日ぴったりそばにいられたら間違いなくつけ入る隙がない。声をかけようとしただけで多分見つかって反撃を受けて瞬殺だ。 だからどれだけ彼女の不在の時間があるかが勝負なんだけど。…まあ、忙しい人だから。 これからお正月まで十日あまりの間、まるまる完全に休むってこともないだろう。個人事業主だし。多分仕事を日常から完全に切り離すのは苦手なタイプだ。いつものようにちょこちょこ東京の方へ戻ってはまたこっちへ顔を出す、と考えるのが妥当だと思う。 ただ問題は。そのたび彼も一緒に東京へと連れ去られてたら、全然意味がないことなんだけど…。 悶々と悩みながらひたすら言われるがままに駆けずり回ってるうちに、無事にクリスマスパーティーは終了した。 タクシーやシャトルバスを動員してお客様たちを自宅や近場のホテルへと送り届ける。宿泊可能な客室も既に部分的に完成してるんだけど、数組だけをここに泊めるとなると不公平感が出るということになって今回の使用は見送られた。 嵐が去って日付を跨いだ頃に片付けもざっとひと段落ついて、ようやく長かった一日が終わる。床に着いて翌朝は昼近くまでぶっ通しで眠った。 遅く起きた次の日は残りの後始末。だけどもうあとの期限は特にないから程よいペースでちまちまやればいいし。一夜にしてお客さんのいなくなった館はがらんと広く開放的に感じられて、気楽だ。やっぱり人のいないいつも通りのお屋敷が一番いい。 「…呉羽さんは。今日はもういないんですか?」 のんびりした昼食の席でその場にいる人たちを見回して尋ねる。昨夜の残り物をアレンジしたメニューだけどお昼ごはんにしてはなかなか豪華だ。 心なしか気の抜けた表情でテーブルについている茅乃さんと常世田さんが口を開くより先に、一人分の昼食を載せたトレイを手にキッチンの出口に向かいかけた澤野さんがいつもと寸分違わぬきびきびした口振りで答えた。 「今朝早く東京へお戻りになったわ。年末のお休みを前にぎりぎりまでお忙しいみたい。今日もまだ相当スケジュールが詰まっておいでのようよ。一応、三十日には仕事終わりの予定になってはいらっしゃるけどね」 「うちと同じね。…ああ、だけど。今年からはここ閉めるわけにはいかないのかぁ。あのひと、ここが自宅になったんだもんね…」 茅乃さんが少しうんざりした顔つきでため息をつく。
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