第22章 温室を出る

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いつもの年はわたしに柘彦さんのお世話を丸投げしてみんな帰省してたからな。尤もわたしと彼はそもそも帰るところがないし。別に不満はなかったので無問題だったけど。 澤野さんはトレイを手にしたまま笑って頭を振った。 「まあ、大丈夫よ。茅乃ちゃんはいつも通りにご実家に顔見せに帰って。眞珂ちゃんがいてくれるからここの人手は充分だと思うし。…それに、呉羽さん今朝出て行くときに。もしかしたら年越しはホテルでするかも、ってぽろっと仰ってたわ。わたしたちを休ませてくれるよう遠慮したのと、もしかしたらその方がご本人も気楽で寛げるってことじゃないかしら。使用人に見守られて年越し、ってのも息が詰まるのかもね」 「ほぉ。…そしたら柘彦さんも一緒に、そっち?」 「そういうことになれば、もちろん同行なさるでしょ。懇意のホテルをこれから当たるから、決まったら連絡くださるって話よ」 二人の会話が終わって澤野さんがせかせかと出て行ったあと、ローストチキンをアレンジしたサンドイッチを齧りながら今聞いた話をぼんやりと脳内で反芻していた。 もしその思いつきが実現すれば。もう年内に彼と話す機会はほとんどないな。 できたら年が明けて新年会が開かれるより前に、彼の状態を確認した上で本人の意向を一度はっきり聞いてみたかったんだけど。何かしっかりした根拠がないと、あの人をこれ以上立て続けに人前に出すのはやめてしばらく休ませてあげてください、って提言もできないし。 まあ、年末年始水入らずでホテルで二人きりで過ごすんなら。普通はそこでしっかり会話して、お互いの心境や体調を把握しておくのが普通の夫婦ってもんじゃないの?って気が。しなくもないけど…。 他人に指摘されなきゃそんなことにも気が回らないような奥さんが。関係ない外野であるわたしに何か言われたからって、夫についての考えを改めてくれるようになるとは。あんまり期待はできないな。 そうすると結局、わたしより信用のある茅乃さんか誰かを介して意見を上げてもらうよりないか。尤も前にそれを試みたときは、結局途中で止められてしまい呉羽さんの許までわたしの差し出口は届かなかった、と記憶してるが。 澤野さんにお願いした方がむしろ、やんわりと優しい表現で棘もなく受け入れ易い言い方で伝えてくれるかな。見てると呉羽さんも彼女のことは一目置いて尊重してるみたいだし。 わたしからの意見だってわざわざ言い添えなければ。意外と客観的に自身の旦那さんの状態を見直すきっかけになって、やっぱり無理はさせないでおこうって思い直してくれるかも。 ただ、直言が影響して新年会一回分くらい何とか回避できる可能性はあるけど。問題はここで大事を取ったとしても、そのあと結局アメリカに連れて行かれれば彼の更なるダメージは避けられないだろうってことなんだよなぁ…。 午後も無理のない範囲でゆっくりと片付けと家事を手伝いながらずっと頭の中で思い悩んでいたけど、やっぱりこれという名案は浮かばなかった。 その晩の就寝時間。わたしは例によってノマドを抱いて悶々と悩んでいた。 呉羽さん不在で彼だけだってわかってる日は年内にそう何日も残ってないだろう。今なら部屋を訪ねていってもそこには柘彦さん一人だけ。もうそんなチャンスはいくらもないのでは? それはわかってるけど、そう簡単な話でもない。彼一人のときに部屋を訪ねられるもんなら正直とっくにそうしてる。 彼の結婚前は何でもないごく日常の習慣だったのに。やっぱり今さら猫を抱いてあの部屋のドアをノックする、って考えただけで身体がすくむ。 既婚の男の人の個室を奥さん不在のときに狙いすまして訪ねていくなんて。すごい軽蔑の眼差しを向けられないかな。 いやそんな感じの人ではなかった、…とは。思うけど。とやや心細く考えた。最近は完全に勘が鈍って、柘彦さんが今の時点でしそうな反応が全然読めなくなってる。 以前は少なくともわたしのことを嫌いじゃなかった、割と好意的に思ってくれていた。と考えてたから。尋ねていったら迷惑な可能性はあるけどうんざりされるとまでは危惧してなかったからできた。でも、言えなくて黙ってただけで本当はずっと他人ががんがん自分の方へ来るのは気が重かったって打ち明けられちゃったからなぁ…。 あの頃みたいに遠慮しながらも無邪気にドアは叩けない。 どうにもじっとしていられなくて結局、大人しくわたしの胸に身を寄せているノマドを連れたままそっと部屋を出た。 どうせこのままじゃ落ち着いて眠れそうにない。一回そっと、四階をさりげなくうろついてみよう。 何なら眠れなくて本を探してた、といって図書室を目指せば別に不自然でもないはず。以前は普通によくそうしてたし。 それでたまたま気配を感じて彼が部屋から顔を覗かせてくれたり、…はしないか、やっぱり。 だけどここで閉じこもって悶々としてるより、彼の顔を見られる確率はちょっと上がる。自室にいたら彼と出くわす可能性はゼロだ。 もしかしたら柘彦さんの部屋の前を通るときノマドが都合よく鳴き声をにゃーんと上げて。それを耳にした彼があれ?と顔を出してくれるかもしれない。
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