第22章 温室を出る

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わたしのことは嫌いでもきっとノマドのことはまだ好きでいてくれてると思うし。機会があったらまたこの子に触れたい、顔を見たいって気持ちは多少なりともあるんじゃないかなぁ。 と微かな望みを猫と共に胸に抱いて、恐るおそる階段を昇る。 古い絨毯が敷き詰められた廊下は当然何の物音も立てない。こつこつと靴の音が天井に響いたりしないんだ。深夜に歩き回る必要があるときはそれをありがたいと思ったりもしたけど。 せいぜいわたしが動くたびに生じる微かな衣擦れの音くらいかな。彼の部屋の前をゆっくりと通り過ぎるときに腕の中のノマドも鳴き声を上げてはくれなかった。前は夜になるとこの扉の前に行きたがってずっとむずかってたのに。 ほんの半年くらい前のことだけど。猫にとっては人間が感じるより長い時間のことだから、もうすっかり忘れちゃったのかな。 彼のことは思い出さないのか、ここが以前は毎晩通ってた眠り部屋だったって単に気づいてないのか。わたしに抱っこされてることで満足しきったみたいに肩近くに顔を寄せて目を細めてる。…まあ、可愛いから。別にいいんだけどね、それは。 なかなか事前に思ったように都合よくはいかないもんだな、と諦めのため息をそっとついて片手でノマドを支えてもう片方の手で重い図書室の扉を押した。 「…、!」 最初は一見して違和感の正体がわからなかった。 図書室の照明は点いてなくて、カーテン越しの外からの薄明かりはおそらく月の光だ。満月に近い頃なのか真っ暗ではない。がらんとした寒々しい室内に、重くて暗い大きな塊があるな。と漠然と感じてその影を遠巻きに見やった。 窓際のテーブルに向かい椅子に腰かけてると思しき何か。ていうか形からして人影、…だけど。 なんていうか。生気がない。 まさか、生まれて初めて邂逅するこれが幽霊。ってわけじゃないだろうな。一瞬びびりながらも冷たい水を浴びたみたいなぞっとする感じがないせいかあまり怖いとまでは思わない。 禍々しい空気も出てないし、霊だとしてもそれほど悪いものじゃなさそうだ。と向こうがこっちに気づいてないのをいいことに引き気味にそっと目を凝らすのと、わたしの腕の中のノマドがにゃーんとひと声鳴いて嬉しそうに飛び降り、そちらに走っていくのがほぼ同時だった。 「あ。…こら」 焦って声を抑えて叱ると、それを耳にしたのか真っ暗な影はようやく目を覚ましたみたいにのろのろと顔を上げてこっちを見た。 わたしは今度こそ水を頭の上からぶちまけられたみたいに凍りついた。 「…柘彦、さん?」 「はい。…ああ」 久しぶりのその声。と感慨に浸る間もなく迷いのない動きでノマドがひょい、とその膝に身軽によじ登った。彼は驚いたみたいにその身体を両手で支え、膝の上の生き物に視線を据えて小さく呟いた。 「ノマド。…眞珂、さん」 「はい」 顔は猫に向けられたままだけど。この子だけじゃなくわたしのこともセットで覚えててくれたならそれでいい。と胸をじんと熱くして思わず小声で返事をした。 「わたしです。…お久しぶりです、柘彦さん」 彼はそれに応えて何か言おうとしたのか。口を開きかけて喉を震わせ、そこで何かがどっと込み上げてきたみたいに言葉に詰まってしまった。 大きく息をつき、声にならない音を立てたかと思うと両腕でノマドをそっと抱きしめ、背中を丸めて温かい身体に頬を寄せた。 微かにすすり泣くような声がその喉から漏れたような気がした。 「…会いた、かった」 「はい」 わたしはつられて喉を震わせ、泣きそうになりながら静かに彼の前に進み出た。 「すみません。この子を長いこと連れて来られなくて。…わたしが来るのは迷惑でも。ノマドは本当は、あなたに会わせてあげないととは。ずっと、考えてはいたんですけど」 「いえ。…この子だけじゃないです。ノマドだけの、話では。…なくて」 消え入りそうな小さな声。この人、こんなに弱々しい話し方だったかな。静かで決して大きくはない声だったけど、もっとゆったりして深くて。自信を持った喋り方だったような気がする。 真冬のやけに光り輝く月の光が、カーテン越しに屈んだ彼の真っ白な髪を包むように明るく照らしていた。 まるでそれ自体が神々しい光を内側から放っているように。 「君にも。…会いたかった、ずっと」 心細い掠れた呟きが信じられないほど強くわたしの胸を打った。 「わたしも」 考える暇もなく彼のそばに近づき、前に立って抑えた声で夢中で訴えかけた。 「会いたかったです。…遠くからずっと、あなたのこと見てて。大丈夫なのか訊きたかった。今、幸せなのかって」 彼はその言葉に触発されたかのように軽く身を震わせ、恐るおそる顔を上げた。 わたしを見上げるその両目に、怯えた子どもみたいな見たこともない感情が溢れているのが暗い中にもはっきりと見て取れた。 「…幸せ」 語尾に抑揚がなくて疑問形になってない。ただその単語の音を確かめるように、ざらざらした不快なものみたいに舌に乗せてみた感じ。 わたしは頷いて、彼にもう一度静かに畳みかけた。
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