第22章 温室を出る

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「はい。…ずっと、確かめたかったんです。今の生活であなたが、つらくなければいいんだけどって。前みたいに落ち着いた一人の時間が充分に取れなくて、人前に出ることが増えたから。本当はもっと、ひっそりと静かに暮らしたいんじゃないかって。…心配だったの」 結婚に不満があるかどうかって話はあえて避けた。それは二人の間のことだから。わたしが不躾に踏み込んでいいことじゃない。 だけど、その台詞がきっかけで彼の中の何かが一気に決壊したみたいに思えた。 「ああ。…はい」 その声はまるですすり泣くように聞こえた。 彼は膝の上で満足そうに身を丸めているノマドの背中を撫でながら、急き立てられるようにもつれる口で話し出す。 「別に、耐えられると思っていました。よく知らない他人と形の上で家族になって一緒に暮らすくらい。…どうせ僕の残りの人生には何もないし。それなら結婚って形でこの屋敷を維持していける可能性が生じるなら。ただの無意味な穀潰しでいるより僕の存在に意義がある。ここに住むみんなの生活も維持できるし。…君のことも」 今まで聞いたこともない、余裕のない切羽詰まった喋り方に呆然と耳を傾けていたからそこで語られていることの内容がそのときは上手く掴めないでいた。 ただ、この人はやっぱりこんなにも追い詰められていたんだ。心身共に健康で心配要らないなんて嘘じゃないか。今まで彼を診察してた医者は一体どこを診てたんだと考えてたら言いようのない憤怒が湧き上がってきた。 「…いつかは独立してこの家を出ていく人だから。それまでの間、何とかここをこのまま保っていないと。それに例えば結婚したあとだって何かあれば、また一人になる可能性がないわけじゃない。君には実家や頼れる身寄りがいないから。帰れる家を用意してあげられるのは僕だけだ。そう考えると簡単にここを手放したり畳んだりするわけにはいかない。どうにかしてなるべく長く、残していかないとと考えたら。…これがどう考えても一番確率が高いと思えたから。僕には、何の能力もないし。この世界で財を成したり受け継いだものを末永く遺していけるような」 「そんなの。どうでもいい」 わたしは首を振って彼の悲痛な独白を夢中で遮り、俯いたその足許に膝をついて目線を合わせ顔を覗き込んだ。 「世間での存在意義なんて。お金を稼ぐことや地位を得ることだけが人の価値じゃないでしょ。柘彦さんは、…そんなことより。いてくれるだけでいい。生きてるだけで」 わたしを幸せにしてくれる。 この人が穏やかに静かに、満ち足りて暮らしててくれればそれで充分。彼の人生に関われなくてもわたしの胸をその事実が暖めてくれる。 この人を手に入れられなくてもいい。ただそのままでいてくれさえすればそれでよかったんだ。 なのに。 彼は自動人形みたいに、ぎくしゃくした固い動作で首を振った。まるで何かに外側から無理やり動かされたようだ。 「違うんです。僕には、…求められてる役割がある。ここの主として、あの人の夫として最低限のことを…、果たさないと。ここにはいられない。生きてる意味がない…」 「そんなこと。ないから」 彼の重く垂れた頭をひしとかき抱きたい気持ちを何とか抑えて、わたしはその膝の上のノマドの背中を手を伸ばして撫でた。彼の柔らかな白い髪を撫でる代わりだとでもいうように。 「役割なんて考えなくても。あなたはちゃんと、この家の主じゃないですか。もともとずっとそうだったでしょ。結婚する前だって、あなたがいてくれたから。このお屋敷のみんな、ここで穏やかに平和に暮らしてられたんですよ。そのときのように戻ればいいじゃないですか」 「そういうわけにはいかない」 彼は顔を上げずに白黒の背中に視線を落としたまま、か細い声で呟いた。ノマドはその台詞の深刻さに微塵も動じた風もなく満足そうに温かい膝の上で目を細めている。 「もうここは、僕の場所じゃない。どこもかしこも、あの人の…。自分の部屋ももう、僕のための空間じゃなくなった。どこにいても他人の気配がして。…いられないんです。何もかもが、…気になって」 途切れとぎれに独白する彼を見下ろしてわたしは苦虫を噛み潰したような顔になった。…まあ、そうなるか。 思えばもともと繊細な、感覚過敏な人だった。他人に極限まで接しなくていいよう昼夜逆転の生活を送ってたくらいだったのに。 いきなり他人とプライベートな空間の全てをシェアするなんて、普通の感覚のわたしでもかなりきつい。結婚したときに彼女は彼女の個室をちゃんと準備されてたはずだが、どうやらそっちを使ってたのは最初だけで最近は当たり前のように来訪時は彼の部屋で過ごしている様子だ。 「…それで。こんな時間に、ここにいたの?」 明かりも点けず。図書室なのに本を読むこともしないで。 そっと尋ねると、ようやくわたしの言葉が入っていったようにふと我に返ったといった声で受け応えてくれた。 「ああ、はい。…最近は。ここでこうしてると落ち着くんです。本を読む気にはなかなか、なれないんですけど…。以前はよくここで過ごしてたなとか。君も、ここにいました。何を話すでもなくただここでお互い本を読んでいたな、と」 「はい。覚えてます」
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