第22章 温室を出る

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わたしはじんと込み上げてくるものを抑えかろうじて答えた。 わたしだってもちろん、その頃のことは忘れていない。ほとんど毎日のようにここに通っていたなぁ。ドアを開けたとき柘彦さんがそこにいたら宝くじを当てたみたいにラッキー、と内心で舞い上がってた。姿が見えない日は諦め悪くいつまでも本を探すふりして棚の間をうろうろしたりして。 わたしたちはどちらも、あの頃から。どれだけ遠くまで流されてきてしまっていたんだろう。 胸がきりきりと痛むのを感じながら下を向いた彼の頭の天辺を眺めて暗澹となった。 こうしてるとわかる。わたしたちは以前のあの毎日には、もう二度と戻れない。 ここであの頃と同じように時間のあるときに二人で本を読んでいても。あんなに落ち着いた、満ち足りた気持ちにはなれないだろう。 表面をどんなに穏やかに繕っても心のどこかでこれは偽物の平和なんだ。現実にはこの場所も彼も他所からやってきた別の人に所有されてる。あの人はいつでも自由にここに立ち入って、簡単にわたしたちを引き裂けるんだって認識は消すことができない…。 だけどあの頃のことをこんな風に懐かしむってことは。やっぱりこの人、今は幸せではないってことだよね。 何を言ってもそらぞらしい気がして言葉が出て来ず、ただひたすら繰り返しノマドを撫でながら脳内で改めて確かめるように反芻する。 夫婦のことは傍からは判断できないし。見ず知らず同士とはいえ結婚して半年余りの間、二人がどのように言葉を交わしてお互いを分かち合ったのかは他人には絶対わからない。だから、多少なりともパートナーとしての情はあるんだろうと漠然と思ってきたけれど。 この様子だと意外にそれほどでもないのか。食事のときやお客様の接待をしてるときとか、わたしの視界に入る範囲では大概彼は全く喋っていなかった。呉羽さんと二人のときはまさかそこまでじゃないはずって何となく思い込んでた。だけど、もしかしたらこの人と彼女はほとんどろくに会話もしてないのかもしれない。 何しろ奥さんの痕跡が感じられる空間では落ち着かなくて居場所がない、って吐露するくらいだから。これは相当重症な気がする…。 今までこんなに弱さを隠しきれずに剥き出しにした痛々しい彼を見たことがないし。いつもすっとした姿で超然とした無表情、硬いガラスみたいに何ものも内側へと浸透させられるとは思えないその佇まい。この人の内面に干渉することはどうせ誰にもできないってずっと思い込んでいたのに。 打ちひしがれた姿を晒して繕うこともできない無防備な彼を目の当たりにする日が来るとは想像もしてなかった。わたしには何の力もないのに。 どうやったらこの人を救う方法を思いつけるだろう。その温かさに縋るように目を細めた猫を膝に抱く様子を見守りながら、何か彼を多少なりとも慰められるフレーズを探した。だけど、実体のないただの言葉だけじゃ。現状を変える実効性もないし何の意味もないのか…。 このままここで結婚生活を続けてる限り、パーティーと会食に連れ回されて見せ物にされ続けることからは逃れられない。彼女が不在な間だけでもここで翅を伸ばそう、と思っても。視界に入るもの全てが、ここは最早お前だけのための場所じゃないと意地悪く低くざわめいているのを感じてるんだ。 この人を取り囲んでいる今のこの環境をとにかく変えないと。このままじゃ崩れかけた態勢を建て直す余裕もなく心が壊れてしまう。…そのために。 わたしなんかに。一体何ができる? ノマドを撫でる繊細な細長い指がふと止まった。それから徐々に何かを思い出したように俯いた肩がわななき、目に見えて震え始めた。 「…ここにいたくない。もう」 「お部屋に。…戻りますか?」 わたしは慌てて尋ねた。もしかして、気分が悪いのかな。ここは寒いし。何も先のことは考えずに今は自分のベッドでひとまず深く眠った方がいいのかもしれない。 彼は珍しく子どもみたいに嫌々と首を振ってみせた。 「部屋だけじゃなくて。ここも、…館の中のどこにも。…眠れないし。何も考えられない。…消えてなくなりたい。ふっと意識がなくなって、そのまま。…いなくなれたら」 「何を…。そんな」 気色ばんで彼のか細い呟きを制止しかけて思いとどまり言葉を呑み込んだ。 そんなこと考えちゃ駄目。頑張って、元気出して。きっといつかは何とかなるよ。 励ます方はそう言えば何か助けになれたような気がして勝手に満足できるかも。だけど、そんなこと口でだけ言われても彼からしたら何の意味もない。 実体のない言葉、何の痛みも払わない具体性のない励まし。彼に今必要なのはそんなものじゃない。人生経験なんて毛程もないわたしにだってそのくらいはわかる。 思わずつと手を伸ばした。何も持ってない、力もないわたしだけど。身を投げ打って何がしかの痛みを引き受ければ。この人を救う手立てのひとつも見つからないわけがないんじゃないだろうか。 今持ってるものを全て引き換えに差し出しても。人ひとり救えない、なんてこと。あるはずないと思わない? 彼はわたしの逡巡にも気づかないかのように自分だけの思いに沈んだ様子で呟き続けた。
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