第21章 見ないふりはできない

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「そうね。年が明けてひと段落ついたら、呉羽さんと柘彦さんはしばらくアメリカに滞在されるかもって話だから。そうなったらわたしも眞珂ちゃんも、そこでまとめてお休みを頂くいい機会かもしれないわね。お館でお世話する相手がいなくなるわけだから。そんなことでもないとなかなか休む気になれないのが問題なのかもしれないけど」 「え、そうなんですか」 わたしはがんと殴られたように感じて彼女を見返した。殴ったのは澤野さんじゃないけど。わたしの知らなかった事実。 柘彦さん。結局呉羽さんに連れられて、アメリカまで行くことになるのか…。 彼女はわたしのそんな反応を予期していたのか、動じず宥めるかのようにさらに優しく諭すように続けた。 「まだ本決まりになったわけじゃないみたいだし。行くとしてもひと月かそこらで、向こうに引っ越すわけじゃないから。そんなに深刻に捉える必要ないと思うわ。もちろんああいう方には場所が変わるだけでもストレスかもしれないけど…。でも、案外知らない土地で過ごすことでいい影響があるかもしれないわ。それは誰にもわからないでしょ」 「それは。…そうかも、だけど」 曖昧に呟いて黙り込んだ。確かに、お屋敷での抑圧が取れて開放的にのびのびとする柘彦さんがそこに現れないとも限らない。すごく楽天的に考えれば。 居場所を変えることで人生が開ける可能性があるなら背中を押すのが正解なのかも。だけど、今のあの人に。そんな変化を受け入れる余裕がある気が全然しないんだよね。 どこに行っても抑鬱状態で周囲のものが見えてない体調のときより。心身がある程度落ち着いていて、考えたりものを見たりできる状態のときの方が転地も効果的なんじゃないのかな…、と。 能面のような表情と何も映してないガラス玉の目を脳裏に思い浮かべて絶望的な気分になる。あの状態で、渡米…。 しかも呉羽さんと二人で。彼女の知り合いしかいない完全アウェイの状況だ。ますます頑なに閉じこもって、目も耳も聴こえず口も利かないなんてことになりはしないだろうか。 せめて小間使いとかお世話係みたいな立場でわたしがついていけたら。いや自分が彼の支えになれるかも、なんておこがましい考えはない。だけど、一ヶ月もの間日本で心配のあまりただ気を揉んでるしかないよりその方がずっとましな気がする。 じっと考え込んでるわたしの気を引き立てようとしてか、澤野さんは明るく励ましの声をかけてきた。 「大丈夫よ、多分。眞珂ちゃんは何も心配することないと思う。渡米するんならその前にちゃんとお医者さんに診てもらってから行くと思うし。精神的に無理、って判断されたらドクターストップかかるでしょ。そこはプロがしっかり見てくれるはずだから。さすがに呉羽さんだって、大切な旦那様をあっという間に潰しちゃうような真似はしないわよ。結婚した意味がないじゃない」 「まあ。普通に考えれば」 そう、なんですけど…。 正直、今の彼を診察して心身共に異状なしと結論づけるようなお医者さんに何を期待する気にもなれないな、と。それともわたしの方が見方がおかしいのか。 彼の心がゆっくりと壊れつつあるように見えるなんて。この結婚が上手くいくはずないって偏見からきた幻で、本当は彼はごく平常な状態でわたし以外誰が見ても問題ないように思えてるの? あまりにもみんなが彼を普通の状態だと判断してるようなので、だんだん自信がなくなってきた。こんなにはっきり危険な兆候が見えてるのに。 彼があんな状態で年末年始のパーティーに出席させられたり渡米させられたりするのを誰も本気で危惧しないなんて。わたし一人でこの流れを止めるのはどうやら相当絶望的な見込みだな、とどこか諦めたような気持ちになって肩を落とした。 「…ま、か」 全て終わってようやく腕に力が入るようになってから、哉多はわたしの背中に手を伸ばして自分の方へと抱き寄せた。火照りの残る滑らかな肌と肌を合わせて、ふっかりとわたしの肩先に顔を埋める。耳に口許をつけて囁いたわたしの名前に含まれた幸せそうな響き。 以前もよくこんな風に甘えてきてたけど、その頃ははいはい、としか思わなかった。満足して終わったあとは相手に甘える癖があるんだろう、わたし以外でも同じようにしてるんだろうなって。 それはもちろんそうかもしれない。だけど今ではこいつがわたしのことを特に個別認識もしてなくて、ただその場で手に入る適当な肉体としか思ってないんだと割り切るわけにはいかなくなった。 こいつがこうしていつも呼ぶ名前がわたしであることにはちゃんと意味があるのかも。少なくとも口にしてる本人はそう思ってるんだ、と改めて考えざるを得ない。髪に顔を埋めてすりすりしてくるのに閉口しつつも手を伸ばして一応頭を撫でてあげる。どう対応するのが適切なのかわからない。実にむず痒くて居心地が悪い。 「間が空いてごめんね。俺に会えなくてどう、寂しかった?」 「う、ん。どうだろう…。忙しかったからな…」
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