第21章 見ないふりはできない

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「とにかくさ。俺も頑張って早く卒論終わらせるから、そしたらもっとしょっちゅう会いに来るけど。式とか披露宴はあとでいいから、とにかく入籍だけは卒業と同時に済ませようよ。そうしたら、就職と同時に。二人で一緒に住めるもんな」 「ええ、と。…わたし、あの」 そういうわけにはいかないよ。と何を理由に反対すればいいんだろうと頭を悩ませつつとにかく口を開こうとするとキスで唇を塞がれ、快楽の余韻が残ってるところを指で柔らかく弄られて思わず喘ぐ。 「想像しただけで。なんか興奮して、変な気持ちになっちゃう…。疲れて家に帰って、チャイム鳴らすと中からちっちゃい可愛いお前が出てきて迎えてくれるんだと思うと。仕事始まるのちょっと憂鬱だったけど。それはそれとして、四月からが楽しみになってくるよね。すごく…」 「あっ、んん…、っ」 胸に顔を埋められ、返答もできずに切なく身を捩った。さっき終わったばっかりなのに。何でまた、するの…。 結局流されるままにその日二度目の行為になだれ込んでしまった。 立て続けに二回もしてさすがに精も根も尽き果てたのか。奴は例によって満足そうにわたしを抱きしめるとふかぁ、と幸せな猫みたいに目を閉じてあっという間に寝息を立て始めた。 わたしはずきずきする快楽の残滓をお腹の奥に感じながら、間近に哉多の綺麗な寝顔を見つめる。 こんなに求めてくれるなら。向こうのご家族が反対してくる可能性はまだだいぶ高いとは思うけど、それを除けばこいつと結婚するのが結局一番平和なエンドなのかもしれない。 わたしだって哉多のこと、別に嫌いじゃないし。こうしてても気楽で安心して落ち着ける。 まあ入籍して何年も経ったら案の定すっかりわたしに飽きて、別の女の子をこそこそ追い回すようになるって結末が容易に想像できるのは難だが。結婚相手が誰でも当然あり得ることだし、哉多ならその確率がちょっと他の人より上がるってだけだ。 そうイメージしてみてもそれほどむかつかない。舐められるのは癪だけどそれくらいのこと。傷ついたり立ち直れないくらい落ち込んだりってほどのことでもない気がする。 だけど浮気されてもまあ別にいっか、って簡単に割り切れるような相手と。押されるがまま成り行きで結婚するのがほんとに正しい選択って言えるのか? そこは疑問がなくはない。かと言って現実的にはこの選択肢よりましな自分が幸せになれるルートが全然想像できないのは、我ながら何とも複雑な気分だけど…。 奴が深い寝息を立てだしたのを見計らって、苦労しつつこっそり力の抜けた腕から這い出してようやくベッドから降りる。 眠ってるノマドが今日もわたしの部屋で待ってる。なるべく早くそっちへ戻らなきゃ。 足音を立てないよう慎重に絨毯を踏みしめながら廊下を経て階段へと急いだ。 実は今日は、かなり急に夜遅くなってから哉多の連絡が入って今から行くよ、と言われて慌てて迎え入れたって経緯だった。夕食も終わって寝る間際になってからの不意打ちだったから、ノマドが寝つく前にあいつが着いちゃうと門を開けに行けないとひやひやした。 一応熟睡してるな、と確かめてから哉多を迎えに部屋を出たけど。わたしが出て行く物音で目を覚まして寂しがって鳴いてるんじゃないかとちょっと心配。だいぶ時間を食ったから、それでも今頃はまた寝直して落ち着いてるといいんだけど。 ノマドの状態のことばっかり考えて頭がいっぱいだったから。自分の部屋のある三階で階段から出たときに廊下の方から微かに人の声がしてたのに気づくのが遅れた。 あれ、何だろ。こんな時間にと意識の端に引っかかったときにはもう階段から廊下へと足を踏み入れたあとだった。反射的に顔をそちらに向けたと同時に、廊下の先の方にいる二人と図らずもばっちり視線がかち合ってしまった。 …しばし視界に入った情景の意味が全然理解できなくて立ち尽くす。 「…堤。さん、…?」 何でこんな時間に。お屋敷の廊下に、師匠がいるの? しかも開いたドアの戸口で。彼と向かい合って立っているのは、どう見ても部屋着姿の。…澤野さん、だよね? 二人がいるのはわたしの部屋の隣だから、確かにそこは澤野さんの個室に間違いない。でも、こんな深夜に。師匠が何で、彼女の部屋の前にいるの…? 思わず瞬きして見直してもその姿は消えない。まあ、わたしがこんな幻覚を見るいわれはどう考えても全然ないから。これは現実の存在だろうと推測しても多分妥当なんじゃないか。というのはわかる。…けど。 「…眞珂ちゃん」 ようやく声を絞り出してわたしの名前を呼んだのは。呆然と立ち尽くしてその場に固まってるままの師匠じゃなくて、ひと足先にやや冷静さを取り戻したかのように見えた澤野さんの方だった。 「どうしたの、こんな時間に。もしかしてまたノマちゃん。どこかに隠れて行方不明?」 「いえあの、そうじゃなくて。…ええと」 抑えた声で向こうから問われて初めて自分の方の立場に思い当たって口ごもる。考えてみればそうか。わたしの方も、こんな夜遅くにこそこそと館の中を歩き回ったりして。充分怪しい行動してるとこ見つかったって言えなくもない。
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