第21章 見ないふりはできない

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澤野さんは特に驚いたり動じた風もなく、落ち着き払って納得したように頷いた。 「そうか。…今日哉多くん来てるのね。夕食のときにはまだいなかったけど。ずいぶん遅くに着いたのね?」 「哉多?…ああ、あいつか。てことは、こら。…奈月。お前」 それを耳にした師匠が急に色をなしてわたしの方に向き直る。とすぐに自身の今の状況に思い至ったか、文句を言いかけた口を気まずそうに閉じて黙ってしまった。 お互い何をどう切り出していいのか。その場がしんと静まって、三人ともすくんだようになりしばし空気が膠着してしまった。 そこは年の功、と言うべきか。硬い表情ながら最初に口を切ったのは澤野さんだった。 「…そうね、こんな時間だし。あまり大きな声を出すのもよくないわ。寝入ってる他の人たちを起こしたらいけないし…。廊下じゃなんだから。眞珂ちゃん、ちょっと。今大丈夫?」 ごく小声でそう言って自室の中へとわたしを招き入れようとする。ドアを押さえて入るよう促され、わたしは思わず素直に頷いてしまった。 「あ、はい」 ノマドのことがちらと脳裏をよぎったけど、すぐ隣のわたしの部屋の方から特に猫の声や気配は伝わってこない。おそらく心配は杞憂で、あの子は今も普段通りすやすやとベッドの上に丸まってほっこり熟睡してるんだろう。 確かにこのまま廊下で立ち話をしていて、例えばすぐそこの部屋で眠っているはずの茅乃さんが気配を感じて起きてきたりしたら大変だ。 澤野さんの部屋の前で部屋着姿の彼女と今来たとこか帰るところか外出着の堤さん、それから油断しきったリラックスウェアにパーカーを羽織っただけのわたし。こんな絵面の三人を見て茅乃さんに何て思われるか。いやわたしだって今のこの状況がちゃんと正確に飲み込めてるかといえばそりゃ怪しいけど。 何となく、他の人に見られたらまずい場面なんだってことはさすがにわかる。ここでごちゃごちゃもめて誰かに気づかれる前にとにかくどこかへ引っ込まないと。 促されるままに澤野さんの部屋へと足を踏み入れるわたしの肩越しに、彼女は顔を上げて師匠の方を見やり声を落として囁いた。 「そしたら。気をつけて帰ってね。事故とか起こさないで。…連絡してね、お家に無事着いたら」 わたしの背後から響いてくる低い小声の方をとても見られない。どんな顔して振り向いていいかわからないし。 「大丈夫。あとで連絡するよ。…奈月、ごめんな。なんか、…変なことに。巻き込んだみたいで」 心から申し訳ない、と思ってるのが伝わってきてわたしは慌てて俯いたままぶんぶんと首を振って否定した。 「そんな、こと。…平気です。すみません、わたしこそ」 何を謝ってるのか自分でもはっきり説明できないが。二人の邪魔をしてしまって?これから一緒に過ごすところだったのか、それともこっそり時間を共有したあともう帰るところだったのか。どのみちわたしがうっかり居合わせなきゃ何の問題もなかった、はず。…師匠の奥さんと。澤野さんの旦那さんにとってはそうもいかない話だろうが。 ていうか。…これって、つまり、やっぱり。そういうことだよね? 全く想定の範囲からとっ外れた明後日の方向からの大暴投そのものの投球で頭がくらくらしながら呆然と澤野さんの部屋の中へと通された。かちり、とドアが閉まった音を耳にしてようやく普段の話し方で大丈夫かと判断して普通の声で尋ねてみる。 「…ししょ…、堤さん。今からお帰りになるんでしょうか。車で来てるんでしょ。門大丈夫?」 このお屋敷のゲートは当然だけど夜間はロックされてて、事務室から操作しないと開かない。と思ってたからさっき哉多を入れるときも、こそこそと事務室に走っていってそこから開けてやった。 だけどさすがに館のあれこれを熟知している澤野さんは、あっさりとそんなわたしの懸念を払拭した。 「それは平気。門の内側にロックを外せる開閉ボタンがあるから。そうじゃなきゃ、この家の人が出払ってるときに残った人が夜中に出ようとしても出られないでしょ。他の人に頼まずにこっそり出て行くこともできないし」 「あ。そうですね」 言われて納得した。そりゃそうだ。 昼間はともかく、夜中は家の中からロック外さないといけないのかと何となく思い込んでた。だけど、他の家族が誰もいないとき事務室で操作してもらえないから夜は出られない、ってわけにもいかないしね。いろいろ門回りのことはわかったつもりで済ませてるな、わたし。 哉多はどんなに遅く来ても必ず泊まっていくから。深夜にここから出て行くために門を開けてやる、って発想が今までなかった。 と同時に、その説明を何も受けずに普通に帰されていた師匠のことを思う。彼としてはその程度の仕組みはとっくに既知の話ってことか。 つまり、多分。今日のこれが初めての密会ってことじゃない。二人にとっては。 小さなテーブルの前の椅子を勧められ、そこに腰をおろしながらようやくじわじわとそんな事実が頭の中で実感をもって迫ってきていた。 「…コーヒー淹れる?こんな時間だし、眠れなくなるかな」 「あ、はい。大丈夫です。もうこのあとすぐ、部屋に戻って寝るので」 部屋の隅に置かれているコーヒーメーカーの方へ向かいかける彼女の背中に慌てて声をかける。
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