長岡空襲

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長岡空襲

昭和20年8月1日午後10時30分から、翌日未明0時10分までの間に米国からの空襲があった。 低空飛行でB29に積んだ焼夷弾がバラバラと落とされ、瞬く間に炎は広がっていった。 1時間40分にも及ぶ爆撃で市街地の8割が焼失され、1488名もの尊い命が失われたという。 米軍は昭和20年3月10日の東京大空襲以来、攻撃を焼夷弾で日本の都市を無差別に爆撃する方法へと転換させた。対象は人口の多い大都市からだんだん少ない地方都市へと移っていく。 県内で、どうして長岡市だけが空襲を受けたのか。 新潟県下で人口が2番目に多く、交通の要衝(ようしょう)で、兵器を作る工場がたくさんあり、石油も産出するところだったと言うのが理由だ。 兵力を削ごうという考えが米軍側にあったのだろう。 空襲で家を焼け出され、降り注ぐ爆撃を避け、熱い炎の中を逃げまどう人々。 想像するにはあまりにもむごい。 今日、長岡市で平和祈念式典が執り行われた。 12歳の時に空襲で母親を亡くしたという女性が講演している模様がニュースで流れていた。 「平和に心を寄せて下さい」と最後に締め括っていたのが心に響き、また胸を締めつける。 午後10時30分、慰霊の花火「白菊」が三発、夜空に打ち上げられた。 例年、打ち上げに合わせて、黙祷が捧げられる。 多くの人からの悼む心、平和への祈りは76年の時を超えてもきっと届いている。
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