292人が本棚に入れています
本棚に追加
私は玄関にポツンと残された。また腕時計をチラリと見る。タクシーが来るまで後八分。スマートフォンでタクシーアプリも確認すると、案外近くまで来ていることがわかった。
「先生」
洗面所にいるであろう先生に声をかける。
「もしお時間かかりそうなら、タクシーに待っててもらいますから仰ってください」
「大丈夫です、もうじき出られます」
男性の身支度は女性よりは時間がかからないだろうけれども、それでも十分を切っているというのに大丈夫だろうか。
「三原さん、朝ごはんは召し上がられた?」
リビングからお母様が風呂敷包を抱えて出てこられた。
「いえ、新幹線に乗る前に駅でなにか買おうかと思いましてなにも」
「良かったらこれ、持ってって。お弁当」
「えっ……、ありがとうございます、よろしいんですか」
「真吾も朝ご飯食べてないから、一緒に食べてやって。口に合わなかったらごめんなさいね」
「いえ、とんでもないです、楽しみにいただきます」
「真吾、早く支度なさい」
お母様は今度は洗面所の先生に向けて声をおかけになった。なんだかこのやりとりを聞いていると、呉林家の一員になったような錯覚を起こして顔がにやけてしまう。
「すみません、お待たせしました。行きましょう」
洗面所から出てきた先生のお姿に、一瞬言葉を失ってしまった。
ドライヤーをかけなかったのか、濡れた髪が額に張り付いている。それを器用に長い指でかき分けながら、先生は上着を羽織りお母様に向かった。
「行ってきます。礼央のことよろしく。なにかあったら電話して」
「はい、気をつけて。朝ご飯は三原さんに渡してあるから」
「ああ、三原さんすみません、僕が持ちます」
「いえ、大丈夫です」
「僕の方が力ありますから、貸してください」
先生は有無を言わさぬ強さで風呂敷包みを持つと、ショルダーバッグを肩にかけ、空いた手でキャリーバッグの持ち手を持って玄関を出た。私はお母様にお辞儀をして、慌てて後を追う。ちょうどタクシーが来ていた。良いタイミングだ。
「パパ、いってらっしゃーい」
お母様と礼央くんが門のところまで出てこられて手を振る。それに手を振りかえす先生の横顔が凛々しくて美しい。
ああ、神戸二泊三日の出張。どうか何事もなく無事に取材旅行が終わりますように。いや、少しくらいは先生と親密になれる時間が取りたい。そう思うのは邪念か。私はタクシーの中で小さくため息をついた。煩悩はちっとも理性の言うことを聞いてくれない。
最初のコメントを投稿しよう!