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「で、今日はこの後ご予定はあるんですか」
黒田さんはフレンチトーストにたっぷりと生クリームをつけながら言った。問われたのは私か。ピザトーストをごくりと飲み、答える。
「一応今日は一般的な観光を中心に回るつもりでした。異人館や中華街、ポートタワーとか」
「でしたら、よかったら僕も同行させてください」
「よろしいんですか」
私が口を開くより早く、先生が返事された。
「もちろんです、夕方にうちの書店にご挨拶の予定でしたよね? その時間まで地元民しか知らないマニアックなところもご案内しますよ」
黒田さんが案内してくれるなら心強い。ネットの情報で先生が舞台として好まれそうなロケーションやお店などはある程度調べてはおいたものの、実際に行ってみて違った場合の代替えプランが思い浮かばなかった。黒田さんならきっと、より先生の興味に合うところへ連れて行ってくれるだろう。
「食べ終えたら早速移動しましょう。夕方までの時間、有効に使わないとせっかくこちらまできてくださった意味がありませんから」
「すみません、お世話になります」
「本当に、黒田さんがきてくださってよかったです。先程の」
先生が、言いかけて少し溜めた。私と黒田さんは目を見合わせ、そして先生へと視線を移した。先生は、俯いていた。
「先程の……はは、実は僕、これでも結構ショックを受けてましてね。いい歳の男がなんで、って思われるかもしれませんが、なんというか……」
先生が言葉に詰まる。クリームソーダのスプーンを取り、闇雲にかき混ぜるからバニラアイスが緑色のジュースにまだらに溶けていく。
「こんなにメンタルが弱いとは、自分でも思っていなかったです。一人のファンにここまで振り回されてしまうとは」
「先生」
先生に落ち度はひとつもない。川上小春が悪い。彼女は自分のことしか考えていなくて、でも先生はいつも読者のことを、ファンのことを考えているから、今回の提案を疑う余地もなかった。そもそも、彼女は彼女の夫を偽装してメールしてきたのだから、騙されたのは先生のせいではないのだ。
そう言って慰めたかった。でも、なんだかそれは違う気がした。先生がご自身を責めていらっしゃるのは、その理由ではない気がした。
「……三原さんには、嫌な思いばかりさせてしまって本当に申し訳ない」
「え!? いえ、そんな、大丈夫です、私は全然!」
「呉先生、三原さんは大丈夫ですよ、このひと強いですから」
黒田さんはフレンチトーストの最後の一切れを口に放り込むと、紙ナプキンで上品に口元を拭った。
「あれは事故みたいなものですよ、貰い事故。先生にも三原さんにも落ち度は全くないですし、どちらかというと落ち込むより怒るべきと思ってますよ、僕は」
黒田さんはアイスティーを一口飲むと、雰囲気を変えるようににこりと微笑んだ。
「僕の大好きな街が先生の小説の舞台になるなんて光栄です。張り切ってご案内しますね」
その言葉に、思わず気持ちが弛んだ。最初はちょっと、鼻持ちならないと思ったこともあったけれども、黒田さん……良い人だ。
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