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エレベーターを降り、先生について部屋に入る。ドアがカチャリ、と音を立てて閉まったのがやけに耳に残った。
先生の部屋は私の部屋とちょうど対になる構造だった。ベッドの上に荷物は置かれておらず、綺麗に整えられている。
「座ってください」
先生が示されたのはデスクの前の椅子だった。私は「失礼します」と、先生の前を頭を下げて通り、椅子に座った。
「お茶でも淹れましょう」
「先生、私がやります」
「いえ、僕が誘ったことですし、これは業務時間外です。やらせてください」
浮かしかけた腰を再び椅子に下ろし、先生の好意に甘えた。先生は冷蔵庫からペットボトルを取り出すと、中の水をポットに開けてスイッチを押した。
「篠和さんの紅茶は美味しいですね」
その言葉が何を意味していたのか。私はいつもの先生とは違う緊張感に、居心地悪さを感じていた。
もしかして、先生を罵倒するようなことでも言ってしまっただろうか。それを本音と思われては困る。全力で否定しなければ。しかし、酔った人間は本性が出るというし、催淫効果のあるお茶のせいで出た言葉を本音と思われても仕方がないのではないか。いや、そこはきっちりと否定しなければ今後に差し支える。
カチリ、と音がして電気ポットのスイッチが上がる。湯気がポットの口から立ち上る。先生はティーカップにそれぞれ篠和紅茶のティーバッグを入れると、静かにお湯を注いだ。やがてアールグレイの香りが辺りに漂い始める。
「熱いですから気をつけて」
「ありがとうございます」
デスクの上にそっと置かれたカップ&ソーサー。先生はカップを手に立っていらっしゃる。沈黙。どうしよう。私はとんでもないことを言ってしまったに違いない。
「……黒田さんとは、よく連絡を取っていらっしゃるのですか」
「は?」
思いがけない質問に脳がフリーズした。上司に対してありえない相槌だ、と気がついて焦る。
「え、っと、黒田さんとは今回の件で連絡を密に取りはしましたが、それだけです」
「京都行きを誘われたのは」
先生が何を聞きたいのかが今ひとつ見えず、私は正直に答えた。
「京都、行ったことがないので一度は行ってみたいとは思ってます。私、修学旅行の前日に熱を出して行かれなかったものですから」
先生の眉間に微かに皺が寄る。いけない、どうやら先生を困らせている。
「ですが、それはいつか行きたいであって、黒田さんがどうして誘ってくださったのかはわこりませんし、行く気もありませんから」
「本当に?」
先生の瞳が私をまっすぐに見る。ああ、こんな風に見つめられて、どうして嘘などつけようか。はなから正直にしか物申していないというのに。
「黒田さんとは京都には行きません」
「ならば」
先生の顔が迫る。心の中で悲鳴が起きる。いや、大好きな人の顔が迫り来るということへの驚喜なのか。
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