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── 何ちゃん?
── 水木です。
── みずきちゃん?
── いえ、苗字です。
── 下の名前は?
── 水木、……シオです。
よろしく!シオちゃん!と共通の友人を介した出会いに強引な流れで握手を求め手を差し出した慶は、初めての彼氏になった。
「何食べよか、シオは好き嫌い変わりない?」
出会った時と同じ、変わらない気安い態度。
一足跳びに詰められた距離は、離婚により燻っていた不安を一時とはいえ忘れさせてくれる。
「え、ええ」
「大和はアレルギーとかは?」
「大丈夫、何でも食べられるよ。ね?」
レストランフロアには、四月に入り残り僅かな春休みの日曜日を満喫しようとする家族連れが溢れていた。
メニューはカジュアルだから大和もいけるはずと、慶が案内してくれたNYスタイルのダイニング。ビル九階のテラス席の心地よい風は喧騒を拭い去り、大和と一緒に久しぶりの街景色を楽しむことができた。眼下の人や車のせわしない流れを何気なく眺めていると、思わず俯瞰した考えに至る。自分だけが社会から取り残されたように、皆それぞれ何かしら思い抱えて過ごしているのだろうことを忘れがちになる。
グレープフルーツの酸味が効いた生ハムの前菜はともかくメインのお肉のボリュームに戸惑う私を懐かしむような視線。それに応える私の視線とが交わる先には、ただただ目の前の欲に溺れていた学生時代の私と慶がいた。
大学時代の四年間は日数だけなら大した事はないかも知れない。けれどその一日の二十四時間ほとんどを彼と過ごした。親不孝この上ないけれど、最低限の単位取得や必須の授業と少しのアルバイト以外の時間は片時も離れずに彼といた。とても自堕落で幸せだった日々。
「このあとシオ達予定あるん?」
特に予定の無いことを告げると、近くにあるテーマパークへ行こうと提案された。大和との会話に出てきたキャラクターの子供向けのアトラクションがあるのだと。
いつも私を喜ばそうとしてくれていたもの慣れた気遣いも、すっきりと整った顔に日本人離れした高身長の慶は合うサイズがなかなか無いのだとシンプルなハイブランドをさらりと着こなしていたのも何も変わらない。
変わらない彼と先の見えない今の自分との落差に翳る気持ちに蓋をし、案内された彼の車に大和と乗り込んだ。
車内で、ふと懐かしい香りがした。遠い昔、慶が勝手に自分のものにしてしまった私のメンズフレグランス。
気配の痕跡に気づいた私に、変わっていないはずの慶の視線は記憶に無く物憂げで。私の知らない彼の八年を思った。
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