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『山の夕立は、人の心を奪う』
数百年ほど昔、とある村があった。
名前は私も忘れてしまったが、小さなその村は、大きな山と、そこから流れ落ちる川、それぞれの麓にくっつくようにして作られていて、村人たちは年中畑を耕して、細々と暮らしていたんだ。
別に大した名産があるでもない、素朴な村だったが、唯一あった不可思議な言い伝えがそれだった。
かつて村には、とある家族が暮らしていた。家族の名ももう思い出せないが、ただ息子の名前は、三郎太、と言った。
この三郎太一家は、山へしばしば山菜を採りに行っては、それを村人たちと分けていた。その日も、まだ幼かった三郎太を村人に預け、両親は山へと昇っていった。
それからしばらくすると、村から見える山間に、夏の夕立雲がかかっているのが見えた。
両親はいつもなら、雲がかかり始める頃には山を下りてくるのだが、その日はどういう訳か、いつまで経っても戻ってこない。
心配した村人たちが山へと入る道まで様子を見に行くと、そこには父親が只一人、びしょ濡れでぼんやりと立ち尽くしていたという。
雨宿りをしなかったのか。母親はどうした。なにがあった。村人がいくら話しかけても上の空で、その手は空を掴むように力なく握る仕草を繰り返す。
まるで何かに心を奪われたようだった。
以来、父はこれまでの働きぶりが嘘のように、なにもしなくなった。
心ここにあらずな表情で空を眺め、遠くで雷が鳴るとそちらに気を取られ、籠も担がずに幾度も山を登っては降り、雨雲が出始めると、傘もささずにずっと外で立ち尽くす。
村人たちは、その様子はまるで、恋の病にでもかかったかのようだ、と思った。
一年の後、また山に夕立雲がかかった。
父はそれを見るなり、手にしていた包丁を掴んだまま、止めるのも聞かずに飛び出していって、それっきり生きて帰ってこなかった。
それが、言い伝えの元だ。父親は息子を差し置いて、夕立と駆け落ちをしたのだと。
……息子?あぁ、しばらくしてやはり同じように、夕立に魅入られてしまったと伝えられている。
そう、父親の死から、十五、六年ほど経った頃か……。
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