ママによろしく

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 「思い出せないんです」  クライアントの顔色は悪くなる一方だ。視線もなかなか合わない。目の下の隈は濃いし、いらいらと落ち着かなくて挙動不審な部分も見受けられる。  最初、彼女を見た時、これはわたしの分野ではないのではないかと思った。人がこんな具合になるのは珍しいことではない。ストレス社会の中、誰にでも起こり得ることだ。うちは決しておおっぴらに宣伝をし、客寄せをしているわけではないが、評判を聞いてふらっと訪ねてくる人がいる。その中の半分くらいが、ジャンル違いの客だ。おかげでいつでもドクターを案内できる用意はできているのだが。  県内の心療内科やら、精神科の番号をあつめたアドレス帳が、ひっそりと相談机のブックスタンドに見えている。いかにも謎めいた金の英文字の古びた黒い本や、スピリチュアルの本が十冊ほど並んだ最後に、それはある。今回もこのアドレス帳が役に立つのかな、と思っていたのだが、どうも様子が違う。さっきから、机の下でがくがくと貧乏ゆすりをしたり、首を曲げてみたり、前髪を指でいじめてみたりする彼女の輪郭が、微妙にぼやけている。乱視が酷くなったわけではない。眼鏡は先日新調したばかりだ。世の中がきっぱりはっきり見えてきたところなのだ。このクライアントの顔に限り、乱視が悪化するはずがない。  なにか、ある。    おもむろにわたしは問いかけた。  「それであなたは、思い出したいんですか」  びくりと、クライアントは震えた。伏せていた目を一瞬、はっとあげた。がっちりと視線があった瞬間、強烈な風景がわたしにも伝わった。それは、赤い。  赤いーー夕日だろうか。場所は、学校か。  「思い出したくありま」  せん、と言おうとしたが、クライアントは言葉を飲み込んで、ほとんど泣き出しそうに顔をゆがめた。片手でほほをひっかき、潤んだ目を大きく開きながら、視線を机に落とした。  かなかなかなかな。  突然、ひぐらしが鳴いた。とたんに、あたりが一瞬、赤く染まったような気がした。  (なんだろう)  クライアントから視線を外さないまま、わたしは考える。部屋の中が赤くなるはずがない。これは幻視だ。能力の発動を制御する術は心得ているはずだが、今回はよほど、相手の背負い物が重たいのだろう。さて、これは本物だ。ひさしぶりに「仕事」にありつけそうだ。わたしはひっそりと手を組み合わせ、相手に集中を始める。  「思い出さなくてはならないんです。子供のためにも」  と、クライアントは言いなおした。けれど、本当は思い出したくはない、思い出すのも恐ろしいだろうことが見え見えだ。顔色は青ざめて、もはやほとんど紫色に近い。  小さな子供がいる。今やっと年中さんだ。可愛くてならない男の子だ。万が一、この子供になにかがあったら。彼女がこれほど恐怖するのは、忘れさっている記憶がおぞましいものである予感だけではなく、自分の子供にまでなにかが起きる可能性を思うからだ。    「わかりました」  わたしは言うと、組んだ両手を机の上に置いた。  「まず、わたしの目を見てください」  かなかなかなかな。  かなかなかなかな。  ぶるぶると震えている。机ががたがた音を立て始める。クライアントは歯を食いしばりながら、ゆっくりと顔をあげる。そうだ、もう少し。もう少しだ。やがてその充血した目と、わたしの職業的視線ががっきりとかみあう。  よし。  これでもう、逃がさない。  「逃がさない」  「思い出させ屋」の看板は伊達じゃない。わたしはただ、思い出させるだけ。思い出したくはないけれど、思い出さなくてはならないーーと、本人が自分で思い込んでいることーーを、記憶の泥沼から拾い上げ、きれいに洗い上げるのが、わたしの仕事だ。  まあ、こんな仕事、ほんとうはないほうが良いのだろうけれど。少なくとも、「思い出したい」と自分で思い込んでいる本人にとっては。 **  いつのころからだろう。  彼女は、行く先々で、目があった人から「あらっ、久々ね」と声をかけられることが増えた。誰だったろう、と、首を傾げながら、適当に受け流していた。保育所、小学校、中学、高校、大学。歩んだ道は長く、その中で数えきれない人と関わってきた。全員を覚えているわけではない。だが、あまりにも頻回にそれは起きた。酷い時は、休みの日に出かけたショッピングモールで五人くらいに声をかけられた。皆、覚えのない相手だった。みんな、にこにこと懐かしそうに声をかけてくるのだが、なにか、目つきに険があり、彼女の様子を探るようにしているのだった。  良かったわね、幸せみたいで。  良かったわね、元気にお過ごしのようで。  別れ際、そんな言葉が決まって寄越された。悪意ある言葉ではないのに、どうしてか、さくっと胸に突き刺さり、なにか後味の悪いものが残るのだった。  なんだろう。わたしが幸せだと、元気だと、なにか悪いのかしら。  自分でもおかしな受け取り方だと分かっているが、彼女に思い悩ませるような「何か」が、確かにその、正体不明の「古い知り合いたち」にはあった。  あまりにも気になるので、ある時、「久しぶりだねー」と、声をかけてきた男に「あの、いつお会いしましたっけ」と言ってみた。どんな反応が返ってくるだろうかと、内心恐ろしかったが、相手はあっさりと「あ、うん、だよね、忘れていてあたりまえかも。ごめんねー」と、笑った。まるく太った顔に、ぶよんと突き出した腹をした男だ。確かにこんな知り合いはいないと思うが。  「だよねー。君が覚えているわけないか。俺らなんかのことをさー。だよねー、だよねー」  と、少々しつこく、男は繰り返した。だんだん彼女は気持ちが悪くなってきた。やがて男はにいっと笑った。けれど、目は決して笑っていなかった。  「だけどねえ、忘れないからね。思い出してもらえるまで、忘れないからね、僕らはさあ、みんな」  ね、物事って、した方は忘れちゃえるけれど、された方はいつまでも覚えてるもんじゃない。わかるっしょ、ね。    「ま、それでも良かったね、元気で楽しくやってるみたいだからさー」  と、男は言い、フレンドリーに手を振って、去っていった。  だけど彼女は手を振り返すことができなかった。男と目が合った瞬間、赤い風景が蘇ったからだ。  赤い。  (赤い)  夕日。  染まった床。手。大きく見開いた目。空が近かった。  空が。 **  もう少しで思い出す。  記憶の扉は開きかけている。けれど、そこから先は禁忌だった。開いた瞬間、恐ろしいものを思い出す。そうしたら、その瞬間から自分は、楽しく、愉快に生きることができなくなる。それどころか、今までの人生がーー職場でイケメンと結婚した。彼の稼ぎが良いので裕福な暮らしを満喫し、自分は遊んでいることが叶った。なかなか授からなかった子供が、やっとできて幸せの絶頂にいるはずだーーがらがらと音を立てて崩れてしまう。  嫌だ。  (嫌だ)  嫌だ嫌だ嫌だ。  (嫌だ、手放すのは嫌)  だって、この幸せは自分がつかみ取ったものだ。底辺の、負け組の、一緒に息をするのも嫌な弱虫たちなんか、誰一人手がとどくはずのない、勝ち組の幸せだ。  じゃあ、思い出さなければいいじゃない。そう思った彼女は、思い悩むのをやめた。すると、あれほどしつこく「あら、久しぶり」と声をかけてくる見知らぬ人々が、一度に消えた。スーパーに行っても、デパートに行っても、そんなことはなくなった。  やった、勝った、「やつら」に勝ったんだ。  彼女はそう思っていたのだが。 **  「子供が保育所から帰ってきたら、言うんです」  彼女は言う。瞳孔が今にも開きそうだ。唇はしまりがなく、肌はけばだっていた。  「今日、知らないおばさんに会ったよ。ママによろしくって言ってたよ」  きっと、こんなふうに彼女の息子は喋るのだろう。かたことであどけなく、ちょっと首をかしげ、上目になって。彼女は息子の口真似をして、そう言った。次に、破裂するように叫んだのだった。  「でも子供は保育所から出ていないはずなんです。知らないおばさんになんか、会うわけがないんです」  ううん会ったよ、うそじゃないよ、会ったんだよ。  幼い男の子は泣きながら言う。  うそよ、じゃあどこで会ったのよ、ずっと保育所にいたんでしょう。  彼女は問い詰めるが、子供はなんだかわけのわからないことしか言わない。だっていたんだもの、廊下にいたんだもの、トイレにいたんだもの、いるんだもの、いつだって。  いつだって!  今や、彼女の輪郭は複数の顔型の寄せあつめだった。男だったり、年老いていたり、中年の女だったり。様々な顔が彼女の輪郭から浮き上がっていた。  わたしは見た。複数ある顔型の中で、この事態を招いた原因となるものがあるはずだった。ヒステリックに泣く彼女の背後に、またぐわっと赤い風景が現れる。  ああ、間違いない。夕日だ、これは。しかも、空に近い場所から見る夕日だ。  かなかなかなかな。  かなかなかなかな。  そしてわたしは見た。 **  彼女は、思い出した。  衝撃のためにしばらく身動きが取れなかった。それはそうだろう。かつて彼女は、友達をーー少なくとも、その当時は親友だと思っていた友達をーー殺したのだから。子供時代の友情は熱くて重いくせに、ぺろんとひっくり返る危うさをはらんでいるものだ。よくある小さな虐めだったかもしれない。彼女にしてみれば、ほんのお遊びだったかもしれない。だけど相手の子にとっては、命を失ってでも、彼女に思い知らせたいような悔しさ、辛さだったというわけだ。  学校の屋上。夕方。泣きながら詰め寄ってきた友達ーーほんの数か月前までは何をするのも一緒だった友達、けれど今は、クラス中をまきこんで無視や仲間外れをする対象になってしまった相手ーーを、突きとばした。触らないでよ汚い、もう誰もあんなのことなんか好きじゃないのよ、キモイから学校くんなよ、バーカ。  わずかな力だった。だけど相手は大げさによろけて、壊れかけたフェンスを押し倒して、地面に落下した。その時、相手はじいっと彼女の目を見つめていた。  かなかなかなかな。  かなかなかなかな。  ひぐらしが鳴いていたらしい。 **  その子の両親。きょうだい。親戚。いろんな人たちがその子を愛していた。  相手の死は重いものだ。受け止められるわけがないのだった。  「わたしはどうしたら」  と、彼女は言った。  思い出した瞬間から、彼女は別人になった。豊かな髪の毛、ヘアサロンで整えられた素敵な形をしていたのに、白髪交じりになり艶を失った。肌は荒れ、ほほは落ちくぼんだ。  口から出る言葉は自信なさげだった。自己肯定感に満ちていて、幸せを享受してこれからも生きてゆくはずだったのに、もう彼女はその権利を失った。  自分から、放棄したのだ。  「思い出させ屋」の「仕事」は終わった。窶れはてた彼女から視線を逸らして、わたしは告げる。  今まで彼女を思い悩ませてきた「見知らぬ知り合い」たちは、実は存在しないことを。否、存在しないというわけではない。現実に、昔、一人の子供が学校で亡くなったのだ。自殺だと報じられたようだし、誰も彼女を犯人扱いしたりはしなかったが、亡くなった子供を悼み、長く心の傷を引きずった人々は確かにいる。けれど、その人々が道端やスーパーで彼女に声をかけるはずはないのだ。  無下に扱い気にもとめなかった人々が、幾人いるのだろう。彼女の生きた道の中で。  放心し、崩れそうな彼女を慰めるわけではなかったが、とりあえずわたしは伝えようと思った。「あなたの一番心配している、『誰かが恨みをはらすために幼い息子に手を出すのではないか』ということは、起こりはしない。そこは安心しても良いのだ」と。
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