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静かに踏みこんだはずなのに、足下からやけに大きな音が立った。
歌声はやみ、少女が不安げに僕のほうを見た。このご時世に軍歌以外を歌っていたことにうしろめたさはあるのだろう。
「いい声ですね」
僕は彼女に批判的な気持ちがないことを示すためにそう言って、近づいた。
「ありがとう」
嬉しそうに、心から嬉しそうに少女は笑った。そのまぶしい笑顔は真夏に咲いた花のようで、まだ肌寒いのを忘れそうになる。
ゆきさんみたいな白い肌にも嫌悪感はわかなかった。髪がおさげで、顔は赤みをおびていたからかもしれない。不思議と心が解放され、話したくなった。
「少し反抗したい気持ち、わかります。僕も――」
「え?」
はんこう? と、彼女は目をまたたいた。
「え。キミは世に抗ってさっきのような歌を歌っていたのだと、てっきり」
「あはは。そんなんじゃ、ないですよ。
楽しい思い出をつくっているんです。その日その日を大切に生きて、どの日も楽しい思い出にしたいんです」
一段と強くなった潮風が駆け抜けた。
それは、すがすがしく、すさんだ僕の心は吹き飛ばされた。
「けど、非国民と言われそうな行為をするときは気をつけないといけませんね。あなたが隣組の密告者でなくてよかったです。
声を褒めてくれてありがとう。いい思い出が一つ増えました」
風に心をさらわれたまま、僕は会釈する彼女にただうなずき、それから、
「また聞かせてもらってもいいですか」
と、口が動いていた。
「もちろん。ここかあそこの家に私はいるから、いつでも来てください。楽しい思い出をつくりましょう」
彼女は松林の裏にある家に視線を向けた。
そこにあったのは、簡素な板張りの家で、さまざまな樹木が周りを囲っている。いまは赤い梅や白い木蓮が彩っていて、もう少ししたら桜やサツキも咲きそうだ。
この日僕は少年兵として志願したことを少し後悔した。もっと彼女やあの花木を見たいと思ったのだった。
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