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 彼女と再び会えたのはサツキが咲きだしたころだった。学徒動員での作業が忙しく、なかなか浜まで行けなかった。  入隊のほうは、収容する兵舎の空がないからと、七月下旬に延びた。同じ中学からの志願者が四月や五月で入隊していくなかで。 「あら。やっと来たのですね。もう会えないかと思いました」  彼女は松林ではなく、家の縁側にいた。柱に背をあずけて座っていた。  波音と風が穏やかに流れていく。 「家の人は?」  家族の気配はないものの、僕はおどおどと座敷の奥をのぞいた。見知らぬ少年が娘と話すのを見たら怒りくるい、叩き出されるかもしれない。 「おばあちゃんと私の二人で、おばあちゃんはでかけてるから、いまは私だけです」  と、彼女は空を見上げた。  淡青(うすあお)の空に羊雲がぽっぽと浮かんでいる。 「今日は空を見ているのですか」 「ええ。今日はこれくらいしかできませんから」  そう言って、今日も彼女は笑った。  けど、前回のような明るさがない。目の下にはくまがたまり、こけたほほは下がったままだ。  どうしたのだろうか。  空襲警報で眠れないのか。いや、このご時世、身内になにかあった可能性もあるから気安く訊ねるのはよくないかもしれない。 「あなた、名前は?」  元気のない理由を問うべきか考えていたら、彼女から問うてきた。 「藤野(とうの)です。きみは塩田さん、ですよね」 「いいえ」 「え……」  ちょっと得意げに彼女の名前を当てるつもりだったのに、否定された。表札にあった文字を僕はしっかり覚えていたはずなのに。 「え……塩口……塩尻……。塩水……は違うよな」  くすり。と彼女が笑った。  混乱した記憶と格闘していた僕が見た彼女は笑いをこらえるのに必死そうで、あのときの明るさが戻ったかのようだ。 「ここは縁戚の家です。だから私の名前は……私のことは松にいたマツコとでも呼んでください」 「え。本当の名前は」 「いいんです。どうせ短い命です。楽しい思い出をつくりたい。松にいたマツコと呼ばれるのもおもしろいでしょ」  そうマツコさんは目を細めた。
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