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あの日、僕の壮行会のしたくをしていたゆきさんの目を盗み、五包みはいった薬袋を握って駆けた。
西日が厚い雲に隠されていた。沈むまで汗をかかせる太陽の暑さは届かない。
松葉はひんやりとした風に揺らされ、やかましいセミの声はやみ、海がうなる。
マツコさんの家に着いたときには、雷鳴がとどろき、薄暗かった。
「マツコさん。薬飲んで」
あがるなり、湯呑み茶碗に水をくんで床に急いだ。
「く、すり?」
「うん、薬持ってきた。僕はあした海軍航空隊へと向かうから。また戻ってくるまでに元気になって歌って」
荒い息のマツコさんを抱き起こし、粉薬を溶いた湯呑みを彼女の口に近づけた。
そっか、と彼女は苦しむ顔を少しやわらげ、ちょっとずつすすった。
それから、縁側へ視線を送った。行きたそうに。
「もうすぐ夕立が来そうだけど」
「おね、が、い」
話すのもやっとの病人に懇願されたら、ことわれない。
マツコさんを抱えて運ぶ。骨と皮ばかりになった彼女は軽かった。
「さい、てる」
縁側の前の庭にはハマボウの花が咲いていた。
淡い黄色の花、ハマボウ。けど、夕方には紅く染まり、落ちてしまう。
そして、いま、夕やけのように色づき、強く降りだした雨に打たれている。
歌が流れた。
消えそうな声で、マツコさんが。
「なんで。マツコさん。やめなよ」
「となり、ぐみ。雨なら、気づかれない、でしょ」
彼女はもうつくれない笑顔を彼女なりにつくった。
楽しい思い出をつくろうとしているのだろう。
「うん。聞かせて」
楽しい思い出を今日もつくろう、とうなずく。
マツコさんは再びかぼそい声で歌いだした。
激しくなる雨に彼女の歌声はまたたくまに消されていく。
かすかに聞こえてくるのは、初めて会ったときに歌っていた曲。「ハマボウ」。
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