「愛している」と言う「さよなら」。

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「愛している」と言う「さよなら」。

 初めてキスをしたのは、私が彼の前で初めて泣いてしまった夜だった。  仕事でミスが重なり、くたくたに疲れて帰宅した夜。カッコイイ彼氏に甘えたくもなる。ダメなアラサー女子、私は、つい、なんにも考えずにメッセージを送る。 『今日、もう疲れちゃった…。ハグしたい…。会いたい』  そう出来たらいいな、なんて淡い妄想で。実際、それを切望していたわけではない。否、勿論望んではいたけれど、夜の八時を回っていたし、現実にそうして欲しいと甘えたかったわけではない。ただ、『お疲れ様。次に会う時に沢山ハグしよう』とか、そんな返信でよかったのだ。十分、私は満たされたはずだ。  けれど、実際に返ってきたメッセージに、私はつい「えっ!」と声を上げてしまう。 『十時半になっちゃうから、眠たかったら寝てていいよ』  あまりにも現実味を帯びている返答に、慌てて電話をかけた。 「あ、お疲れ様」 「今!何処ッ?!」 「今?駅の……あ、電車来た」 「乗らなくていいよっ!」 「え?」  きょとん、とした顔が窺えるような声だった。 「………ハグして欲しいんでしょ?」 「……それは……、そうだけど…」 「行くよ」 「いいよ……。明日も大学あるでしょ…」 「行くから」  待っててね。あ、寝てても良いからね。  優しく囁くような声で、電話は切れた。電車に乗るから、と声がした気がする。ああ、とんでもないことをしてしまった、と思った。申し訳無くて、泣き出しそうだった。  それでもインターフォンの音がして、玄関に立つ彼の姿を見た時、嬉しくって、結局、泣いてしまった。  そんな私に、彼はそっと体を引き寄せて包み込み、優しく口付けした。  今思えば、彼は、恐ろしい程自然に、私の欲しいものを適切なタイミングで簡単に与えてくれたーーーー…。 (……ねぇ、いつか、息の仕方を忘れてしまうんじゃないの……?)  愛してるよ、なんて囁いてくれるようになった。  当たり前のように身体を重ねるようになった。  それは、傍見には愛を着実に育んでいるようで、しかしそれ程に確実に、違和感を浮き彫りにし始めた。  彼はきっと、私のことを愛してはいない。  夜を重ねる度、一緒に迎えた朝の表情の違和を隠しきれないでいた。  それでもいい。ーーーそう、思っていた。  彼が私を好きじゃなくても、彼が、“気遣い”で私と付き合っていたとしても、それで、いい。  馬鹿で愚かな私は、思春期の子供みたいにそんなことを思う。私の日常にはすっかり、“彼”が必要な存在になっていた。彼が欠けてしまった世界では、もう生きていけないと、そう思っていた。  日々、そんな風に嘘をつくように過ごし、いつの間にか、付き合い始めて一年と数ヵ月が過ぎていた。  久々のデートの日。  新鮮さを取り戻したくて、現地集合で待ち合わせをした。  バッチリメイクに、普段はしない口紅。髪の毛はアイロンで巻いてみた。この日の為に、ワンピースも新調した。年齢的にギリギリかもしれない、お気に入りの可愛いパンプスを履く。  道中、緊張で心臓が破裂しそうだった。  気合い入れ過ぎって笑われないだろうか。変に思われないだろうか。イタくないかな。似合うって思ってくれるかな…。  待ち合わせの時間を三十分は早く辿り着いたと言うのに、やっぱりと言うか、彼は、もうそこに立っていた。 「あれ?早いね」  柔らかいその笑顔は、私が愛用しているハイライトよりも、眩しい。ヘアスタイルを真似させて貰った推しのアイドルよりも、尊い。  ふわり、と香る柔軟剤の香り。同じ柔軟剤を使っていると知っているのに、何故だか彼の方だけ、いつも優しく香る。  ああ、何もかも。  彼の前ではまるで敵わない。 「一緒に来なかった理由が何と無く分かったよ」 「……そう?」  待ち合わせたのは隣の県の水族館。先月新しく出来た、今かなりホットな水族館だ。私は、約束の時間に丁度間に合う電車の、一本前のものに乗った。彼に会うかもと思ったけど、結局会わなかった。彼は、そのもう一本前の電車に乗って来たのだろうか…?  入場券を買う為に窓口へ行こうとすると、「もう買ってある」と言う。そんな気がした。財布を取り出すと、制止の手。 「後で飲み物でも奢ってよ」  財布を仕舞うように促し、そのまま手を握る。指と指を絡めて、恋人繋ぎ。未だに、ドキドキとしてしまう。生娘か!とセルフツッコミで、なんとかその心臓を落ち着かせようと試みたが無理だった。  順路通りに見て回り、魚が可愛いだとか、イワシの大群は美味しそうにしか見えないだとか、いちいち感想を言い合っては笑った。昼には施設内のカフェでランチをして、イルカのショーを見た。ペンギン達のエサやりタイムにも間に合った。お土産を見て、盛り上がったテンションのまま小判鮫のぬいぐるみを買う。水族館を出て、近くのカフェで紅茶を飲みながらケーキを食べる。  模範的なデートプラン。 『よく見るカップル』の中に、きっと私達も上手く紛れ込んでいる。 (でもどうして、)  今日が暮れ始めると、同調するように沈んでいく気分は、デートの終わりを惜しんでの事ではなかった。 「どうかした?疲れた?」  目敏くそれに気が付いた彼は、丁寧に切ったハンバーグを口に運ぶ手を止めて、私を気遣う。 「何でもないよ。……確かに、ちょっとはしゃぎ過ぎちゃったかも。年甲斐も無く」 「年甲斐って…、まだ若いじゃん」 「アラサーだよ、アラサー」 「なりたてホカホカじゃんか。これあげるから、ほら!元気出して!」  先程食べかけていたハンバーグを私の方へ差し向ける。私は迷い無く「あーん」を人前でやってのけてしまった。 「条件反射こわっ!」 「ははっ!良かった、元気出たみたいだ」  夕日の茜色の光を受けても、彼の笑顔は眩しい。私は相変わらず、その笑顔に目を細めてしまう。  私と彼。  きっと、『お似合いのカップル』とは程遠い。  私の何処が好き?なんて、意地悪な質問を今したら、直ぐに答えられるだろうか。ふと、そんなことを思う。  私は、彼が好きだ。愛おしい。愛している。  だけどそれ程に、益々、この想いが一方的なものであると気が付く。  彼はいつもその、朗らかな表情を崩さなくて。ケンカなんてしたことが無い。私が食べたいと思うものを食べさせてくれるし、行きたいと言うところに一緒に行ってくれる。衝突するはずがなく、そんな彼に対して私はなんの不満もない。  だからこそ、彼が『本当は何を望んでいるのか』、私は知らない。分からない。  思ったよりずっと、彼のことを知らないままに時だけが流れていた。  知らないふりは、もう止めよう。  彼の寝顔を見ながら、静かに、決めた。  小さな寝息。それに合わせて、上下する掛け布団。カーテンの隙間からこぼれる月明かりが、彼の白い肌を照らす。何処までも尊い、私の天使。神様。幸せを運んでくれる人。青い鳥。 (私が貴方に焦がれる程に、貴方はどんどん、自分を磨り減らしていくんだね……)  愛とは何か?と、昔生きていた思想家だか誰かに問われたような気がした。  その答えは、十人十色、人それぞれで良いと思う。 (私の場合、それは、『その人の幸せを願うこと』……)  まるで、この心内を詩にして、歌にでも出来そうな気分だった。突然の出会いから、ありふれたラブソングは、突然の悲恋に変わる。滅茶苦茶かな。詩なんて作ったことがないから、定型的な決まりとかわからない。歌い出しはどうしようか?彼の持論、「青い鳥はペンギンのこと」は何処かに上手く盛り込みたい。難しいな。やっぱ無理かな。私に詩なんて書けないのかな…。 「ははっ…」  静かな夜に、私の乾いた笑いが部屋の空気を震わせた。  解放してあげよう、もう。  この夜の後、その朝が来たら、言おう。君に、「さよなら」と。  そして朝。    私の紡いだ「さよなら」に、彼は目を丸めて、少しだけ考えて、案の定、「わかった」と言った。
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