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帰宅時間帯の下りの横須賀線に、東京駅からの始発は、一時間に一本しかない。高橋真人は、七時台の始発に乗って帰ることが多い。
月曜日から木曜日までは普通車に、金曜日だけは奮発してグリーン車に乗るのが、コロナ禍でのルーティンになった。
ホーム上のグリーン券売機にSuicaをかざし、目的地のボタンを画面上でタッチするだけの手軽さも、人の少ないグリーン車で悠々と冷えたビール片手に帰る優越感も悪くない。もともと、グリーン車なんて金の無駄だと思っていたクチだが、午後八時以降の飲食店での酒類提供が禁止されたあたりで、ふっきれた。立ち飲み屋で千円払う感覚で、ゆったりと座りながら最寄り駅まで送り届けてもらえるなんて、すばらしいではないか。
そのうえ、グリーン車というのは、各列車の中央付近にあるので、たいていの駅で改札口への階段から最も近い位置に陣取れる。この蒸し暑いなか、エスカレータの長い行列を待つ時間も短縮できるとは、思わぬ副産物だった。
高橋はその日もキオスクで三五〇ミリ缶を買って、グリーン車に乗り込んだ。迷わず二階への階段を上り、中央付近の席に滑り込む。頭上の端末にSuicaをかざすと、空席を示す赤いランプが緑に変わる。それさえ済めば、あとは自由だ。後席が埋まるまえにさっさと座席を倒し、テーブルを出して、ビールを据える。
おそらく、高橋がいちばんの長旅だ。横須賀線に、東京から終点の久里浜まで乗り続ける者はほとんどいない。目的地が同じなら、品川や横浜から京急線を使うほうが安くて早いからだ。しかし、鎌倉に住まう高橋には、他に選択肢がない。一時期は、途中駅の大船や戸塚まで東海道線を利用してみたこともあるが、三分ばかり通勤時間を縮めるために乗り換えるのが馬鹿らしくなってやめた。
ビールがだいぶ軽くなったころには、周囲の席も空席が多くなっていた。いつものことだと窓に目を転じようとして、高橋は違和感に眉を寄せた。斜め前の席の頭上に、緑のランプが点灯している。だが、利用者の姿は席になかった。グリーン券というのは、降車駅を指定して買うものだ。まだ、乗り続けられる区間なのに、人がいない。……トイレか?
席には、ビール缶が残されている。口をつけられた形跡のない缶の肌を、水滴が伝っていた。まだ冷たいビールを置いて、どこか別の車両に移るとは思えない。
その後も気にして見ていたが、高橋が降りるまで、ついぞ、利用者は席に戻らなかった。
人間、より楽な方法を一度見つけてしまうと、その方法が利用できない日を不便に感じてしまうのだから、まったく困ったものだ。
押し合いへし合いしながら普通車に乗り込み、ようようつり革を手に入れ、息をつく。網棚に通勤カバンを放り投げ、両手でつり革にしがみつく。こうしておかないと、痴漢に間違われるのだと先輩に教わってから、高橋は満員電車では必ず両手を肩より上にあげることにしている。スマートフォンや文庫本が見られないのはつまらないが、どうせ、都内を抜ければ、どこかしらの席が空く。それまでの辛抱だ。
思っていたとおり、目の前に座っていた客が降りたのは、武蔵小杉だった。網棚からカバンを下ろして膝に乗せ、腰を落ち着ける。読みさしの文庫本を読もうと、取り出したときだった。乗降客の流れに逆らうように中年の男が車内の人波を縫ってくる姿が目に留まった。
上質な背広の生地、胸の内ポケットから取り出したハンカチはきっちりとアイロンがかかっている。しきりに額の汗を拭いながら、こちらにやってきた男は、高橋より二十は上に見えた。もしかしたら若く見えるだけで、六十を越しているかもしれない。
もっと遠くまで歩く気だったようだが、電車が動きだしたせいで、男はとっさに高橋の前のつり革を掴んだ。真っ青な顔だった。具合が悪いのかと、腰をあげざま、声をかける。
「どうぞおかけください」
いや、と断りかけた彼を無理に座らせる。周囲が怪訝そうに自分を見るのを無視して、その場のつり革を掴んだが、ここにいては相手もやりにくいだろう。面を伏せ、広げたハンカチで顔全体を覆っているのは、体調の悪さだけではなく、気まずさに思えた。
高橋は電車の揺れに合わせてするりと場所を変え、ドア付近の高い位置のつり革に手を伸ばした。カバンを持った片手が下にあるのが気になったが、偶然にも女性は近くにいない。次の駅でどうにかすればいい。
考えていると、車両のむこう、ちょうどさきほどの男が来た方向から、高い足音が聞こえた。ピンヒールが床を鳴らす音だ。女性が近づいてくるなんて、間の悪いこともあるものだ。思いながら、ちらっと音の主を見やる。
髪の長い女だ。顔は見えなかった。女は高橋の後ろを通り過ぎ、コツン、コツン、と間遠に音を響かせながら、むこうへ歩き去っていく。
膝丈の黒っぽいスカートに、白いブラウスを着ている。猛暑の最中、手首まで詰まった長袖なのも、毛量の多い黒髪を腰元まで伸ばしているのも、暑苦しく映った。後ろ姿だけなら就活生だが、足元は違った。黒いエナメルのピンヒール。靴底が赤い。あれは確か、有名なブランドの特徴だと記憶している。
高橋がそんな些細なことまで見て取れるほど、のんびりとした動きで、電車の揺れにもよろけることなく、女は歩いていく。
その姿が見えなくなったころ、車内が一気に空いた。手近な席に座ったものの、文庫本に熱中できるほどの時間もなく、最寄り駅についた。
鎌倉で、階段をおりようとしていると、うしろから呼び止められた。人の流れに沿って歩きつつも振りかえると、そこには先刻、高橋が席を譲った男がいた。
「お加減はいかがですか? 顔色はずいぶんよくなったようですが」
先手を打って話しかけると、男は礼を述べながら高橋の隣についた。
「助かりました。妙な女に追われていたんですが、あなたが席を譲ってくださったおかげで、うまく撒くことができたようです」
「妙な女、ですか?」
「ええ、こんなして、ずっと駅からつきまとわれてしまって」
こんなして、と、男は両手を挙げ、顔を覆った。そのしぐさに、ひやりとするものがあった。
さっき、あれほど混み合った車内で、なぜ女の服が手首までの長袖だとわかったのか、高橋もやっと感付いた。
女は、手で目隠しをしたまま、車内を歩きまわっていたのだ。
待ちに待った金曜日、グリーン券やビールを買う時間を考慮して会社を出ると、高橋はいつもどおりの時刻にホームに到着した。
夏のビル街はとんでもなく暑い。街路樹に渡されたコードからミストが出ていて、日陰は確かに涼しいが、日が延びたぶんだけ、暑い時間だって長いし、ミストのせいでかえって蒸すような気がしてしまう。
肌に貼り付いたYシャツを気にしながら、グリーン券を購入しようとSuicaをかざす。そこで改めて、うっかりミスに気づいた。残高不足だ。千円札でチャージはできるが、改札口の外でクレジットカードでチャージする予定だったのをすっかりと忘れていた。
これも暑いせいだなどと考えて操作していると、うしろに並んだ女性から声がかかった。
「……いいですか」
「あっ、済みません!」
もたもたしてしまった。電車がそろそろ到着するし、焦る気持ちもわかる。高橋は急いでグリーン券を購入すると、ビールを買うためにキオスクの入口へ走った。
涼しい店内で目当てのビールを見つけ、つまみを買おうか逡巡する。硬質な足音で、自分のうしろにだれか並んだことに気づいて、高橋はビールだけを清算しようとした。
「……いいですか」
さっきの女性の声だ。すぐにわかった。邪魔だと、そういう意味だろう。カチンと来たが、高橋は商品棚に近寄るように脇へ避けた。ちょうど、好みのつまみが目に留まる。貝柱のパックを手に取って、清算する。
店内にはもうだれもいない。当然だ。電車到着を知らせるアナウンスが響いている。さすがにそろそろ列に並ばなければ、席が取れない。
袋を断ってキオスクを飛び出し、列に並ぶ。よかった、まだ六人しかいない。これなら座れるだろう。ほっと息をついていると、自分のうしろにもだれかが並ぶ気配があった。
コツン……
ヒールらしき音がする。また、さっきの嫌みったらしい女ではないだろうな。だが、さすがにこの列の並びに文句をつける隙はないはずだ。譲ってやる気も無い。冷たい缶ビールを握りしめながらムスッとしていると、電車が滑り込んできた。
ほんの出来心だった。相手の顔を拝んでやろうと、車窓を見て、高橋は目を見開いた。
両手で顔を覆った女が、高橋のすぐ真後ろに、まるで、こちらの肩に頭でも預けそうな距離に立っていた。
「もういいですか」
耳朶にふれる声が、産毛を揺らしたような気がした。
ぞわりと怖気が走った。無我夢中だった。改札口まで階段を駆け下りて、左右を見渡して、急いでトイレに駆け込む。高橋の血相に驚いたように、個室から出てくるひとが身を引く。気にせずに空いた個室に飛び込んで、鍵をしめ、立ちすくむ。
ビール缶を伝う水滴で、指が冷え、ぬめる。缶を持ち替え、濡れた手をズボンで乱暴に拭い、高橋は缶とつまみとをカバンに放り込んだ。むろん、用を足しに来たわけではない。ズボンも下ろさずに座面に腰を下ろし、荒い息を整える。
──なんだ、あれは。
気味の悪い女に出会ってしまった。おかげで、東京駅始発を逃した。たぶん、これからホームへ上がっても、間に合うまい。始発はこの時間帯、一時間に一本しかないのに。
悔しさと気持ち悪さでぐるぐるする腹を押さえ、高橋はてのひらを見た。もう一方の手も開いて、指をそろえる。
どこかで、見たことがある気がした。
両手で顔を覆っていた女の仕草を真似して、ふりかえっているうちに、高橋は既視感の理由に気づいた。
『こんなして、ずっと駅からつきまとわれてしまって』
先日の中年男がやってみせてくれた、あれだ。まさか、あのとき車内で見かけた女か。
まったくもって、ゾッとしない。
冷えた二の腕をさすりあげ、高橋は便座から立ち上がり、カバンを取った。手を洗ってトイレを出ると、空気はむわっとしていて、いかにも夏だ。それなのに、どうしたことだろう。どこか、肌寒い気がした。
これまで、女はうしろから話しかけてくるばかりだった。要は、背後を取られなければいいのかもしれない。
次の電車の時刻を電光掲示板で確認し、その時間がくるまで、壁を背にスマホをいじる。ときおり周囲を警戒してはいたが、それらしき人影はない。きっと、別の獲物でも見つけたのだろう。
ホームから漏れ聞こえる電車到着のアナウンスを合図に、階段をあがる。グリーン車に並ぶ列は、始発電車よりぐっと短い。当たり前だ、座れる確証もないのに、高い切符代を払う人間は少ない。払い戻しはできても、帰り道にその手間をかける労力は、普通車にそのまま乗り込むのと天秤にもかけられない。
隣席も埋まったが、どうにか席を確保できた。ビールとつまみを取り出すと、カバンのなかはビールのかいた汗のせいで、じっとりと湿っていた。
走ったせいで泡を噴くかと案じたが、ビールは問題なく飲めた。マスクをつけたまま貝柱をかみしめ、時折ビールを口に含む。アルコールが少し入ったせいか、じわりと眠気が忍び寄ってくるのを感じて、あくびをかみ殺し、目を伏せる。
居眠りをしていたのは、どのくらいのあいだだったのだろう。次に高橋が目を開けたとき、隣の席は空になり、頭上のランプも赤の表示に戻っていた。いつのまにか、大きな駅を過ぎているらしく、周りにも空席が増えていた。
横浜を過ぎたあたりかと、車窓から状況を確認する。夏の時期、まだ日は落ちきらず、外はぼんやりと明るい。どうやら、もう少し下ったあたりのようで、見慣れたビル街は遠く、代わり映えのしない夕暮れどきの住宅街ばかりが目の前をよぎっていく。
テーブルのうえのビールは、ぬるくなりはじめている。ひとくちふたくちと続けざまに喉を潤して、高橋は深く息をついた。
ようやく、一日の終わりが感じられてきていた。仕事も家族も忘れてぼんやりと、ただ疲れを背負って、電車に揺られる。今日も何事もなく──いや、そうでもなかったか。
高橋は例の女のことを思い出し、むしゃくしゃした気持ちを持てあまし、残りの貝柱を口に放り込み、力強くかみしめた。東京駅を使いだして長くなるが、あんな妙な女に出会ったのは、今日が初めてのことだ。
くりかえされた「もういいですか」とは、どういう意味だったのだろうか。両手で顔を覆ってホーム上を歩きまわるなんて、危険だし、気味が悪いし、とにかく正気の沙汰ではない。本人は遊んでいるのかもしれないが、良い迷惑だ。
……遊んで?
高橋は、顔をあげた。そうだ、遊んでいるのだ。あれは、もしかして。
『もういいかい』『まあだだよ』だれともない子どもの声で、耳慣れたフレーズが脳裏によみがえる。かくれんぼだ。まちがいない。あの女は、鬼のつもりなのか。
カツン……、カツン……と、グリーン車の二階席への階段をあがってくる靴音がした。のったりとしたリズムで、ヒールの音がこちらへ近づいてくる。
アテンダントが来たのか。つい、ちらっと入口に目をやって、高橋はすぐに顔を背けた。
そこにいたのは、アテンダントの乗務員ではなかった。両手で目隠しをした女が、いつぞやと同じ長袖のブラウスを着て、黒いスカートを纏い、グリーン車のなかを歩いていた。
なぜここにあいつがいるのか。一本前の列車に乗ったんじゃなかったのか。高橋は顔を隠すように腕をあげ、できるだけ窓のほうを向いた。ヒールの音が通り過ぎていくのを、じりじりとして待つ。
頼む、気がつかないでくれ!
車内アナウンスが次の駅名を告げるまで、身じろぎひとつできなかった。その駅でグリーン車の乗客はまた少なくなり、ついに二階の乗客は高橋ひとりになった。
電車が発車して、すぐのことだ。また、階段から音がしはじめた。
カツ……ン、カツン……、カツ……ン
たどたどしい歩みに確信を持って、高橋は震えた。隠れたいが、この車両にはもう自分ひとりだ。どうすれば。
考えて、席の隙間にしゃがみこむ。足音は、高橋の脇を通り過ぎ、どこかの席に座った。
──なんだ、ただの乗客かよ。
ほっとして、自分の怯えっぷりに笑い、高橋は立ち上がった。そうして、うしろのほうに座った乗客を確かめる。
そこには、だれの姿もなかった。着席を知らせる緑のランプも、どこにも点灯していない。
「え……?」
戸惑いで漏れた声に、自分で焦る。どういうことだ? 考える時間は、しかし、与えられなかった。
「みいつけた」
高橋の耳元で囁いたのは、果たして、あの女の声だった。
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