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空蝉
パートが終わり、私は疲れた足を引きずるようになんとか歩いていた。家に帰らなければならないのだから仕方ない。
八月下旬の夕方はもわっと暑く、疲労でネガティブになっている私は、この暑さが私を殺そうとしているような気がしてならない。
途中、小学生くらいの男の子達数人が、道路沿いの桜の木を囲んで上のほうを指さしているのを見かけた。
「ほら、あそこ」
「あ、マジ、あった。蝉の脱け殻」
「取る?」
「やー、上手に取らないと壊れるぜ、あれは」
「中身、空っぽだもんな」
「じゃあどうする?」
私は男の子達の会話を聞きながら、その場を過ぎていった。
空蝉。
蝉の脱け殻のことだ。でもそれだけではない。「空っぽ」という意味もある。
私のことだ、といつも思う。
私にはなにもない。
家庭は、一応、ある。私に全く愛情も興味もない夫と息子と娘がいる、形だけの家庭。その家族のために朝四時からお弁当を作ったり家事をこなしたりして、一度も、ありがとう、と言われずに暮らしている。
それからパートに出て、誰にでもできる仕事をする。ラインで流れてくるシュウマイをお弁当の容器に入れるだけ。八時間、それだけ。
それでも八時間立ちっぱなし、約二秒で一個、シュウマイを拾い上げては容器に入れ続けると、気づいたときには体はガチガチ、クタクタになっている。それが週五日。土日は平日にできない家事をこなし、食材の買い出しに出かける。家族の誰も手伝わないのが当たり前の我が家では、私は重い荷物を一人で運ぶ。
私にはなにもない。
なにも考えないようにしている。もう心もない。
私は空蝉。
空っぽなまま、ただ生きているだけ。
小学五年生くらいだっただろうか。記憶は定かではない。
転入してきた男の子は、まるで何年もろくに太陽の下で遊んでいないのではないかと思わせるほどの真っ白な肌と、触れたら折れそうな細い体をしていた。
みつき君という名前だったと記憶している。名字も、漢字も、覚えていない。
不思議だったのは、みつき君は名前を呼ばれても返事をしてくれるまでに必ず数秒の間があくことだった。
友達に呼ばれるだけでなく、授業中に先生に指名されても、それは同じだった。
「……あ、ああ、はい」
といった感じで。
ぼーっとした子なのかな、と思ったが、名前以外ではそんなことはなく、むしろ逆で、どれほど本を読んできたのだろう、というくらい博識で、五年生とは思えないくらい多くのことを知っていた。
覚えているのは、あの暑い日の朝の記憶。
あれは夏休み後半くらいだった。近所の子供達は毎朝六時半に公民館の駐車場に集合し、ラジオ体操をやらなければならなかった。
みつき君がこの田舎町に引っ越してきてから四ヶ月が過ぎていた。みつき君の真っ白だった肌は日に焼けて、私達と変わらない普通の小学生らしくなっていた。そしてその頃には、みつき君、と誰が呼んでも、間を置かずに振り向くようになっていた。
その日、ラジオ体操のあと、みつき君がなかなか帰らず、なにかを見つめているので、私は不思議に思って、近づいた。
「みつき君?」
「かよちゃん、あれ」
みつき君が指さしたものは、木の幹にくっついている蝉の脱け殻だった。
「きれいな形だろ?輝いてる。図鑑で見るよりよっぽどいい」
「図鑑?」
蝉の脱け殻なんて珍しくもなんともないし、わざわざ図鑑で見るようなものだろうか?私にはみつき君が思うような価値がわからなかった。
「蝉の脱け殻はね、『空蝉』とも言うんだ。源氏物語の第三巻のことでもあるけど」
みつき君は目をキラキラさせて蝉の脱け殻を見つめていた。
愛読書が「りぼん」、それ以外に馴染みのある本は教科書しかなかった私に、源氏物語の第三巻と言われても……。
「みつき君て雑学博士だよね。いろんなこと知ってるって、みんな言ってるよ」
「え?そう?」
みつき君ははにかんだ笑顔を見せた。
「これからは本から知識だけを得るんじゃなくて、沢山体験するつもりなんだ。空蝉の実物を見るみたいに」
みつき君はキラキラした目をして蝉の脱け殻を指さし、私にそう言った。まるで未開の地に冒険に行く探検家のように、期待でいっぱいの気持ちの後ろに、実は恐怖があるような、不安定な笑顔だった。
「そうだ、かよちゃんは蝉の脱け殻に『幸運』の意味があるって、知ってる?」
「えー、ないでしょ」
「蝉はね、羽化するとき、つまりこの殻から出て成虫……大人の蝉になるとき、敵に狙われやすいんだ。だからこの脱け殻は無事に羽化できた証拠なんだよ。それで『幸運』て意味を持つんだ」
「みつき君て本当になんでも知ってる。すごいね。なんで?」
私は感心した。しかしこの「なんで?」は良くなかったらしく、みつき君からスッと笑顔が消えた。
それから二言、三言、会話を交わしたような気がするが、よく覚えていない。
夫と別々の部屋で寝るようになったのは、子供が産まれてすぐのことだった。
新生児には夜中も三時間おきに授乳しなければならない。夜中に赤ちゃんが泣くと、夫は睡眠不足になって仕事に支障が出るだろう、と気遣って、寝室を別にした。それがそのまま、子供が大きくなり、それぞれの部屋を持ち、一緒に寝ることがなくなっても、私達夫婦は寝室を別にしたままだ。
先日、偶然、夫がアダルト動画をスマホで鑑賞しているところに出くわしてしまった。
そのときは夜中の二時近くで、私は夫が一人で使っている、本来なら夫婦の寝室のクローゼットにワンピースを取りに入ったのだった。
夫が眠っていると思い込んでいた私は、ノックをせずに寝室のドアを開けてしまった。
その瞬間、目にし、耳にしたすべてが、なかなか忘れられない。
真っ暗な部屋の中で、スマホの明かりが煌々と光っていた。スマホからはなまめかしい女性の喘ぐ声が漏れていた。そしてスマホの明かりに照らされた夫の顔は、このうえなく、気持ち悪くにやけていたのだ。
「あ、ごめん」
私は慌ててドアを閉めた。
最初は気持ち悪い、としか思わなかった。スマホの明かりで見えた夫のニヤニヤした顔が、この世で一番汚い気がした。しかし少し時間が経つと、夫には性欲がまだしっかりあり、女性を求めていることに気がついた。でも私はこの二十年、一度も求められていない。女性として扱われてさえいない。
やはり私は空蝉なんだ。空っぽ。なにもない。殻だけはある。この家、この家族、誰にでもできる仕事。殻だけはしっかりあるのだ。ただ、空っぽな人間というだけで。
「藤巻さん、今日本社の人が見に来るって知ってた?」
同じラインで働くパートの女性が、更衣室で着替えながら教えてくれた。
私が働いている会社は多くの食品を製造している大企業で、工場は日本各地に点在している。本社は兵庫県にあると聞いたことがあるが、工場パートの私には遠い存在なので、気にかけたこともない。
「めんどくさいこと、あったりします?」
私が尋ねると彼女は、わからない、といったふうに首を傾げた。
その日は結局いつも通りの労働で、私は夕方、着替えて更衣室を出た。
「藤巻かよさん、ですか?」
呼び止められてふり向くと、スレンダーで手足の長い、素晴らしくかっこいい男性が、ペットボトルのジュースを持って、はにかむような笑顔で立っていた。
この田舎町にはこんなにすっきり、頭の天辺から足の先まであか抜けている、美しい男性はいない。ということは、この人が本社の人だろうか。私と同い年くらいだろうけど全然違う。
私が勝手に見惚れていると、美しい男性は持っていたジュースを私に差し出した。
「本社の松本といいます」
「あ、ありがとうございます。藤巻です」
ジュースを受け取ると、本社の松本さんはまたはにかんだように笑った。その笑顔を見たことがあるような気がして、私は一瞬ドキリとした。
「松本さん、下のお名前伺ってもいいですか?」
「たいき、です」
松本さんは流れるような所作で名刺をくれた。そこには『松本大樹』と書かれていた。
聞いたことのない名前だ。私の気のせいか。
「どうかしましたか?」
「いえ……なんだか知ってる人に似ているような気がして。でも勘違いだったみたいです」
「……そうですか。藤巻さん、少しお時間いただけますか?話がしたいんですが」
「はい……」
私は松本さんに促されて、工場の敷地内にある、日陰のベンチに並んで座った。
まだ暑い八月の終わりの夕方の風は、少し秋の気配を含んでいて、サーッと首筋の髪を揺らす風は涼しくて心地良かった。
「気持ちいいですね」
同じことを思ったのか、松本さんが言った。その横顔に誰かの面影が重なった。やはり知っている誰かに似ているのだろうか。
「今日、各店舗の様子を見てきました。総務と経理と会議もありました。で、この工場のことをいろいろ尋ねたんですが、藤巻さんの仕事ぶりを誉めている人が何人もいまして……」
「え?私?」
「はい。丁寧で早いと。ですから藤巻さんの仕事に対する心がまえ、もしくは工夫していることなんかあったら教えていただきたいんです。ほかの工場やもちろん本社にも、より良くしていくための一助になると思うので」
「……ありません、特には。すみません」
「でも、藤巻さんを評価している声が多くて……」
「あの……正直、誰でもできる仕事だと思います。体力さえ続けば」
「……」
「契約は切られたくありません。でも流れてくるシュウマイを容器の決められた位置に入れるだけですから、私でなくてもできますよ」
松本さんはしばし沈黙した。
「うーん……。確かにほかの人でもできる仕事ですね。でも藤巻さんはラインを止めてしまうこともないし、食品がずれていたりすることもないんですよ。どの店舗でも商品を確認しました。これを毎日八時間ですから、丁寧さがずっと続くことが求められます。藤巻さんは素晴らしいですよ」
なんだか変なことで誉められているような気がする。複雑だ。誉めるところを無理矢理探して誉めているような。
「お話ってこういう話ですか?でしたらもういいですか?ジュース、ごちそうさまです」
私はベンチから立ち上がった。
「お時間取らせてしまって、すみませんでした。あと……これから先、ずっと藤巻さんが幸運に恵まれますように」
は?なにを唐突に。ずっと幸運に……。
その言葉、私が昔、誰かに言った……。
「だからこの脱け殻は『幸運』て意味を持つんだよ」
「みつき君て本当に何でも知ってる。すごいね。なんで?」
「……」
「じゃあさ、私、この脱け殻にお祈りする。これから先、ずっとみつき君が幸運に恵まれますように!」
「かよちゃん……ありがとう」
思い出した。あのときの会話の続き。
小学五年の夏休み。
近所の公民館の駐車場。蝉時雨にかき消されそうなラジオ体操の曲。なかなか帰らずに蝉の脱け殻を見つめていたみつき君。九月に入ると急に転校してしまい、お別れの挨拶もできなかった。
「み……」
とっさに松本さんが人差し指を立てて、唇にあてた。
「僕は本社から来ました、松本です。松本大樹」
そのはにかんだ笑顔に、みつき君の笑顔が重なった。二枚の絵を右と左からゆっくり近づけていったら、ぴったり合ったように。
僕の母は父に暴力を振るわれていた。DVという知識が当時、世間に認知されていたかどうか、子供だった僕にはわからない。
父は僕には手をあげなかったが、学校で僕が誰かに話すのを恐れたのか、外に出ることを禁じられた。担任の先生はたまに学級だよりをポストに入れてくれたが、会ったことはなかった。
父は日本に暮らしている人間なら誰でも聞いたことがある、有名な会社のエリートだったらしい。経済に影響力もあったようだ。
学校に行けない僕のために、父は山ほど本を与えた。毎日というくらい、あらゆるジャンルの本を買ってきた。しかし児童書や漫画は少なく、僕の年齢を全く無視した経済の本や哲学の本や新書、文芸書が多かった。僕は父の機嫌を損ねないために、必死でそれらを読んだ。辞書を使って難しい言葉を理解しながら読み続けた。ある日、父は図鑑をシリーズで十二冊まとめ買いをしてきた。僕はその図鑑にハマった。ずっと家から出してもらえず、本ばかり読んでいた僕は、いつの間にかガリガリに痩せ細り、肌は真っ白で血管が透けて見えていた。毎日殴られ、蹴られ、ボロボロになっていた母は、僕の体を見て泣いた。そして母は恐怖と戦い、勇気を出して知り合いの弁護士さんに助けを求めた。その人のおかげで母と僕は父のDVから逃れ、住民票から居場所を特定されないために名前を変えた。それらの手続きも、隠れて暮らす場所も、弁護士さんがすべて用意してくれた。
新しい名前にはなかなか馴染めず、呼ばれてすぐに返事ができるようになるのに時間がかかった。
誰も僕達を知らないこの田舎町で、母と平和に暮らし、僕も当たり前に学校に通えると思っていた。しかしその幸せは半年しか続かなかった。父に見つかったのだ。
弁護士さんからすぐに逃げるように連絡が来て、母と僕はまるで夜逃げのように、あの田舎町を離れた。
事情を話すと、隣の家の大工さん夫妻が助けてくれた。ご主人がトラックを出してくれて、身のまわりの荷物を積み込み、隣の県へ逃げた。
トラックで国道を走っているとき、歩道を歩いている父の姿が見えた。優越感でハイになっている顔をしていた。もし父につかまってしまっていたら、父は母を何度も蹴り、床に転がって苦しむ母を見下ろして、悦に入っていたことだろう。
逃げた先の土地で、僕はまた名前を変えた。今度は「松本大樹」と名乗った。
こうしてずっと怯えて逃げて暮らすのだろうか。未来が暗かった。
そんな矢先、父が死んだ、と連絡が入った。急性アルコール中毒だった。父は下戸だった。
「自殺しようとしたのかしら」
ポツリと言った母の眼に力はなかった。それは恐怖から解放された瞬間に初めて気づく、疲労感だった。
そして三つ目の名前のまま、僕は大人になった。
『これから先、ずっとみつき君が幸運に恵まれますように』
父の死後、だんだん上向いていった僕の人生をふと思うとき、蝉の脱け殻に手を合わせて祈ってくれた女の子のまっすぐな眼差しを、僕は思い出していた。
私は再度、ベンチに座り直した。
「松本大樹さん、というんですね」
私は念押しするように、ゆっくり尋ねた。彼は深く頷いた。
みつき君の名を呼んでも、すぐに返事をしなかったこと。今は違う名を名乗っていること。それらから想像できる事情を、口にするつもりはなかった。軽々しく口にできるような人生ではなかったはずだ。
「少し、話してもいいですか?」
私は松本さんの顔をじっくり眺めた。
大丈夫。今、この人は幸せだ。
「私、自分のことを『空蝉』みたいだと思っていました。殻はあるけど中身は空っぽだから。心の通わない形だけの家族と、誰にでもできる仕事。でも『空蝉』には『幸運』の意味があるって、子供の頃、半年だけ近所に住んでいた、みつき君という名前の男の子に教えてもらったことがあるんです。やっと思い出しました」
「そうですか」
「これから先、幸運に恵まれるようになるかもしれません」
西の空がうっすら赤くなっていた。明日も晴れる。暑い日はまだまだ続く。
「松本さん、仕事を誉めていただき、ありがとうございます」
私は頭を下げた。そして勢いよくベンチから立ち上がった。
「藤巻さん、これからもこの工場を盛り立ててください」
「そんな力は私にはありませんが……明日もがんばります。お疲れ様でした」
本社の松本さんは、踵を返して歩き出す私に、深々と頭を下げていた。
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