幻の県大会

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「薫。茉里ちゃんが来てるわよ」  返事はしなかった。どうせ何と言っても、お母さんは茉里を部屋にあげる。というかもうリビングくらいには入れているのかもしれない。  茉里は十分くらいしてから、控えめなノックと共に入ってきた。 「おつかれ……」 「ん」  手には大きな紙袋を提げている。 「これ、お見舞い。雑誌とか、お菓子とか……あとは……」 「気を遣わなくていいのに」  わたしが言うと、茉里は黙ってしまった。  でも数秒後にまた口を開いた。元々おしゃべりな質なので、黙っていられないのだろう。 「ケガ……どう?」  ベッドに横たわったわたしの、右足のギプスをちら、と横目で見るのが分かった。 「もう平気。いや、平気じゃないけど……そろそろ松葉杖でなら、外に出ても平気だって」 「そうなんだ。よかったね」  わたしは答えない。  茉里も黙ってしまった。  今度は、わたしが茉里に言う番だった。 「大会……」 「えっ」 「この間の。優勝、おめでとう」 「あ、ありがとう」 「次は地方大会だっけ。がんばってね」 「うん……」  高校最後のインハイ。  わたしと茉里は、同じ短距離の選手だった。去年も一昨年も、県大会で優勝したのはわたし。だけど、今年は茉里が優勝した。  大会直前、わたしは自動車どうしの事故に巻き込まれた。目の前の交差点で車同士が正面衝突し、はずみで吹き飛んだ車のヘッドライトが、道を歩いていたわたしの右足首に直撃したのだ。関節を完全に砕かれ、全治三ヶ月。当然、次の週の大会になど、出られるはずもなかった。それどころか、治っても元の通りに走れるかどうかは、わからないらしい。 「薫。ごめんね」 「なんで茉里が謝るの? あの事故、もしかして茉里が仕組んでたりするの?」 「そ、そんなこと……!」 「じゃあ、謝ることないでしょ。勝手に被害者ぶって。わたしのケガと、茉里とは、何も関係ないじゃん」  茉里はぎゅっと唇を結んで、うつむいてしまった。 「今まで……お見舞い、来られなくて……」 「気にしてないよ。忙しいだろうし」 「でも……」 「わたし、ケガしてよかったと思ってるくらいだよ。これで受験にも集中できるし。勉強サボってどこかに遊びに行こうとしても、足がこれじゃあね。アハハ」  茉里は笑わなかった。 「ごめん、ちょっと……」 「ちょっと、トイレに行ってくる」 「え?」 「茉里、そこの松葉杖、取ってくれない?」 「あ、うん! これね」  ほんとうは手を目一杯伸ばせば届くのだけど、茉里はそんなこと気にせずに杖を手に取って、わたしのそばにやった。  だけど、あわててやっていたのか、ガッと床に置いたお土産品の紙袋にぶつかってしまった。縦に長いそれは倒されて、中に入っていたものが、カーペットの上に広がった。  陸上の雑誌、お菓子、部のみんなの寄せ書き。  その中に…… 「あ……」  と、言ったのは、茉里かわたしか。  県大会優勝の、金色のメダル。  ケースに収められた、安っぽいけど、なによりも大切な勲章。  それが、ずるっと滑り出してきた。 「なによ……」  茉里は杖を出したまま固まっている。 「なによ! なんでお見舞いにメダルなんか持ってくる必要があるの? 結局、わたしにそれを見せびらかしたいだけじゃない! よかったね、わたしがケガしたおかげで優勝できてさ! 万年二位のあなたが! わたしがケガさえしなければ、ケガさえ……こんなケガさえ……!」  うまく言葉が出てこなくて、なんどもつっかえながら、その詰まった分の勢いが涙になって零れ出てきた。  こいつは、これを見せびらかしに来たのだ。  わたしが取っているはずだった、このメダルを、わたしに見せびらかしに…… 「そうなんでしょ!?」 「そうだよ」 「え?」  茉里は笑っていた。 「悔しいでしょ? でも、違うよね。優勝できなかったことじゃなくて、わたしが優勝したことが悔しいんでしょ、薫は」 「ち……」 「違わないでしょ。知ってるんだよ、薫がわたしのこと、万年二位だって言って、影では見下してたの。だから、しかえし」  茉里はケースからメダルを取り出して、部屋の照明にキラキラと反射させてみせた。 「どう? 綺麗でしょ。どうせメッキの安物だけど、わたしたちにとってはなにより綺麗なもの」 「うう……」 「これを、あなたに、こうやって見せつけられるの、世界でわたしだけなんだよ」 「やめて!」  茉里は暴れるわたしの身体を無理やり押さえつけた。  右足ひとつ動かせないだけで、人間の運動はこれほど制限されるということを、わたしは知らなかった。  茉里はメダルを外して…… 「はい、どうぞ」  わたしの首に、それをかけた。 「本当はこうなるはずだったもんね? だから、わたしがやってあげるよ。薫、優勝おめでとう」  ああーっと、喉の奥から、言葉にならない嗚咽が漏れ出した。 「よかったね、優勝出来て。でも、このメダルをあなたにかけてあげられるのも、わたしだけだよ。うれしい? ねえ、本当は貰えるはずだったメダル、やっと貰えたね。うれしい?」  茉里は笑っていた。  それからネクタイをぎゅっと持ち上げられるみたいに、メダルを握りしめて引っ張り上げた。わたしの首もぐいと持ち上がる。 「でも、これはわたしのだから。勘違いするんじゃないわよ、あんたが出場してたとしても、わたしは優勝できた! タイムも、自己ベストを大きく更新できた! あんたがいてもいなくてもわたしは優勝してたの! 今まで散々見下してきたわたしの気持ち、今度はあんたにもわからせてやるから」  茉里はメダルから手を離した。  どさっとベッドに倒れこむわたしの胸に、重たいメダルが落ちてくる。 「あげる。よかったね、メダルもらえて。それをあげたくて今日は来たの。それじゃあ、さようなら」  ばたんと静かに扉が閉められた。  わたしの胸の上の金色のメダルは、まるで十字架のように重い。こんなメダルなら、いらない。でも払いのけられない。  ただ、泣くしかなかった。  一位(メダル)をもらって、こんなに悔しいのは、初めてだった。
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