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商店街から少し離れた場所にある小さな剣術道場。
私の家でもあるそこで非番だからと同僚、九朗と夏萌とで暇つぶしに囲碁でもしようという話となった。
「夏萌、次の手番は?」
「ちょっと待ってよ、今考えてるんだから」
「スパっと決めちゃってもいいんじゃない?」
「うるさい、絶対逆転してやるんだから」
そうは言うが盤面はわずかに夏萌のほうが悪い。
それでも夏萌は碁盤を睨みつつもやがて置く場所が決まったのか碁笥から黒石を取り出すとパチンと高い音を立てて盤上に置いた。
(なるほど、そう切り込んでくるのね)
想定していた本来の手からはちょっとだけズレるけど、それでも鍔迫り合いを望むなら引くわけにはいかない。
自分の碁笥から白石を取り出してその黒石のそばに寄せる。
あとはこっちがどこかで出し抜いて形を崩せばいい、それで軍師夏萌の策は崩壊するはずだ。
「それにしてもずいぶんとだらしない格好してんな」
ふと目を上げれば怪訝な顔で夏萌はこっちを見ていた。
「えーそうかな?」
「嫁入り前の女がそうやって胸元開けてんのはどうなのかって言ってんの」
「だって暑いんだもん、さらしつけてると蒸れるし。夏萌は暑くないの?」
胴着の袖とか足とかをまくっているのも少しでも風が当たるようにするための苦肉の策だ。
それに今は夏萌と九朗しかこの家にいないから特に気を使わなくてもいい。
むしろ非番の日なのに警察服を着ている夏萌のほうが見ていて暑い。
「今も汗が滝のようよ、でもここで脱いだらあんたに負けた気がするから嫌」
さっきの碁盤の攻防といい今といい、本当に負けず嫌いだ。
そんな風に意識してくれていることに少しだけ面映ゆくなる。
だけどそれとこれとは別、勝負は勝負だ。
ここできっちり勝利して人生の先輩としてカッコつけさせて貰おう。
「そういえば九朗さんは?」
「んー、今お茶入れてもらってる」
九朗なら何度も出入りしているし部屋の位置や道具の場所も分かるし。
そう言おうとしたら夏萌が達磨のような顔をしていた。
「道具の位置を知ってるほど出入りしてる?」
「うん、なんだったら何回かご飯作ってもらってる」
剣術道場の娘としてはなんとも情けない話だけど刃物を握ることに未だ抵抗感がある。
仕事用の刀剣は不思議と大丈夫だけどそれ以外の刃物はたとえ包丁でも握れない。
だから何回か九朗には家に来てもらってご飯を作ってもらっていた。
「しょ、食事も用意してもらってる?」
「そうそう、九朗の作るごはん美味しいんだよ」
そう語るたびになぜか夏萌の顔があり得ないものを見るものに変わっていく。
そんなに変な事言ってただろうか?
「小鳥遊、夏萌。茶入れといたぞ」
そんなことを考えていたら九朗がやかんを持ってきてくれた。
中身は色からして麦茶だろうか、夏だと美味しい逸品だ。
「お、ありがと。気が利くじゃん」
「い、いただきます」
そして九朗が注いでくれた湯呑に手を付け、一気に飲もうとしたのがいけなかった。
舌に感じたのは涼しさや冷たさではなく、灼熱の熱さ。
「あっつ!!九朗お前冷ましてなかったな!!」
「はっはっは、何のことだか」
「とぼけんなー!」
思えば少し厚い湯呑を渡されたときに何らかの違和感を感じるべきだった。
それでも少し熱い程度かと思ったら全く冷ましてないんだから舌がひりひりする。
「ところでお前はいいのか?私はもう手番を返したが」
「あー!!ちょっと夏萌!石の位置が変わってるんだけど!!」
先ほどまで別のところに置いていた石がどかされ、そこに夏萌の白石が鎮座していた。
そのせいで先ほどまで得ていた陣地がまるっと夏萌のものになっているのだ。
「さぁ、何のことだか」
「こんのっ!!」
「おっと場外戦術はご法度、あくまで勝負は盤面の上でね」
「こんな卑怯な事する奴に絶対負けないんだから!」
そこからは普通にやっても勝てないから、普通じゃないような手段で強引に陣地を荒らしていった。
少しでも自分の陣地を多く獲り、夏萌の陣地を奪い削っていく。
数手先につながる場所に石を置き、その時に最善手となるように誘導して。
盤上で許されるあらゆる手を使って果敢に、時に冷静に地を奪っていって。
「よし、反目差で私の勝ち!」
気が付けばカラスの鳴き声が聞こえてくる夕方ごろ。
最後の整地の時になってようやく勝ったことを実感できた。
「まさかひっくり返されるとは」
勝利を確信していたのかもしれなかったけど
「お、終わったのか?」
「おうよ、勝ちは勝ち」
「そんじゃ、牛鍋でも食いに行くか。夏萌も行くぞ」
「あ、はい。わかりました」
二人で盤上の石を片付けてから衣服を着替えなおすために部屋へ向かう。
さすがに人前にこの格好で出るのは恥ずかしい。
「互いの家の備品の場所も知ってるような関係で付き合ってない、ねぇ…」
私たちの背後で夏萌が意味深に笑ってるような気がした。
結局その意味を聞こうとしてもはぐらかされたけど今はこれでいいのかもしれない。
今はただもう少しだけ、こんな時間が続いてほしい。
非番の何でもない日々が、もっとずっと。
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