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僕にはある癖がある。料理中、火や熱が通りやすいようにとどんな食材にでもプスプスと楊枝で穴を開けてしまうのだ。いつか見たレシピに書いてあったのか過去に誰かに教えられたのか、記憶は定かではない。たとえもしそれが教授された行為だったとしても、人前にはなかなか提供しづらいほど穴だらけにしてしまう今においては、それは完全に僕の癖として独り立ちしていた。この行為によってどれくらい火や熱が通りやすくなっているのかは正直わからない。もしかしたらその目的に対して適切な行為ではないかもしれない。それでも手料理を振る舞う相手がいるわけでもない僕は、自身の意図や期待を超えたむしろ習慣として、今日も楊枝でたくさんの穴を作る。ちなみにもちろん肉はウェルダン派だ。
「ゴロゴロゴロ——」
「お、降ってくるか?」
バイト先の店長が店の入口で空を見上げた。ランチタイムが終わり、夜用の看板に替えているところだった。
「こりゃ今にも降り出すぞ。まあ、一時的だろうけどな」
僕としては客足が少ない方が仕事がバタつかないので、正直少しホッとする。しかしそんな希望的予想は外れそうだった。店長の言う通り、一時的な天気だろう。
まだ夕飯目当ての客はおらず、ランチタイムの残りの客もわずかで店内は落ち着いていた。店長は中に戻り、遅い休憩を取るために賄いを厨房に頼んでいる。僕も店の入口から外の様子を見てみた。もわっした暖かい空気に、ぬわっとした湿気を感じる。ガンガンにクーラーのきいた店内とは一瞬にして世界が違う。昼に目立っていた積乱雲はまだ遠くに残っており、空の色は爽やかさや心地良さとはひどくかけ離れた不穏な色だ。まるで人の心を不安定にさせる要素だけでできている。
ふと、暖簾から1本長い糸がひょろりと出ているのを見つけた。入口近くのレジの引出しからハサミを持ち出し、再度外へ出る。
「ゴロゴロゴロゴロゴロゴロ」
何かを転がしたような、神様にしか出せない長い音が鳴り出した。無意識のうちにそれをもっと長く聞きたいと思っている自分に気づく。傘を持っていなくて焦る人、落雷に怯え不安がる人。僕も決して雷が好きなわけではないのだが、この空と空気と人の不安定さをもっと感じたい自分がいた。雷鳴はその不安定さにさらに刺激を与える。光ったら鳴るけれど、いつ光るかはわからない。光とは関係なく鳴るかもしれない。不安定さが不安を煽る。不安が不安定さを助長する。心が落ち着かない。
雷は先程より近づいているように感じた。今までのたった20年そこそこの人生、それでも何度も経験しているこの空気。そのうち確実に雨が降るのはよくわかる。空はどんどん暗くなる。
「降ってきた?」
今日同じシフトに入っていたバイトの同僚、横澤まいこも入口付近にやってきた。彼女は最近ストーカーに付き纏われているらしい。
「まだだけど、もう降りそう」
「うわあ、空、暗ぁ」
横澤は驚いた顔をして空を見上げた。いつ雨が降り出してもおかしくない空気が充満していた。見えないがとても重く湿った空気が僕と横澤の顔や腕に絡みついている。不快な肌感覚と不快な視覚的要素が揃い、一向に落ち着かない。
「ピカッ」
「あっ、光った」
まだ明るい時間帯にも関わらず、空が暗くなってきたせいで雷光がよくわかった。少しの後に音が追いかける。蒸し暑い。身体が汗ばみ、ハサミを持った手も湿ってくる。どこかで蝉が鳴いている。
「雷、近いわー、やだやだ」
そう言う横澤を見る。束ねられた髪が店指定の黒いバンダナからちょろっと出ている。暑がりのようで、いつもユニフォームのTシャツの袖は雑に捲られ肩の近くまで二の腕を出している。それによりシャツの生地が引っ張られ、胸が強調される。デブではないが、適度に豊満な二の腕。白い。今の僕と同じように、しつこくもったりとした空気がたっぷり絡んでいるのだろう。腕、それから同じように白いふっくらとした頬、衣服で隠れているが胸や腹もさぞ白くてやわらかい肉がついているのだろう。どのパーツもたくさん水分を含んでいるのだろう。僕は手にギュッと力が入った。今離したらハサミの柄に僕の汗が残るだろう。じんわりとした感覚だけでなく、物理的な存在として、目に見える水玉として、汗は現れるだろう。僕の目はこの重たく纏わりつく空気と同じように、横澤の腕にすっかり張り付いてしまった。ねっとりとしぶとく離れない。白くて柔らかそうな身体。このものすごい熱帯的空気によって、もしくは彼女から発せられる汗によって、とにかく湿ってそうな身体。
ふと、あるイメージが僕の頭の中に現れた。僕の料理中の癖だ。彼女の腕に——腕に、楊枝を刺してみたい。
彼女はずっと空と通行人の観察に夢中になっている。僕は彼女の身体を下から上まで横目でゆっくり見た。プスッという感触なのか、にゅっと吸い付くような感覚なのか、すんなり入っていくのか硬いのか。彼女の身体に対して、楊枝はあまりにも小さく弱いかもしれない。背中と脇に何かが垂れ流れた感覚があった。少しくすぐったい。ふとバンダナに手をやるために彼女の腕が上がる。豊かだけど豊か過ぎない彼女のふわふわともむちむちとも形容できる腕が、動いたことで生きていることを実感させてくる。突っついたら震えるかもしれない。細かくプルプルプルプル、大きくぼよん。震えたところにプスッ。震えた反動で勢いよく戻ってきた二の腕にそれはしっかり刺さるだろう。ズブっ。ああ、やはりきっと良質な柔らかさに違いない。硬いなんてありえない。プスッとささってすぐにその勢いのままズブズブって入っていくんだ。額の髪の生え際からもまもなく生温い液体が垂れそうな気配がした。空気が暑い。身体が熱い。両手もその片方に握られたものもぬるぬるしている。グッと力を入れるが、手とそれの間の汗をどうしても感じてうまく力が入らない。良い感触ではない。早く、彼女の腕の感触を感じたい。ズブッ、ブブブブ——。
横澤は自分の右下に顔を向け、右太ももの外側に見つけた汚れを指でこすり始めた。僕から顔を背ける形になったが、素晴らしい左の二の腕は僕に差し出されているままだ。僕は左足を前に出し彼女と横並びだった立ち位置から彼女を正面で迎えた。左手で腕を掴んで、同時に右手にあるハサミを刺してみよう。しかし楊枝では小さいけれど、このハサミでは太過ぎる。ハサミを開き、刃が二つに分かれた状態にしてみる。閉じて刃が合わさっているよりも刺す部分は細くなる。持ち方を気をつけないと自分の手を切ってしまう。蝉が一斉に鳴き続けている。うるさく、まくし立てる。催促する。心がはやる。押さえる役目の左手が宙に浮かぶ。
「なかなか降ってこないけど、今ゲリラがきたら雨宿り目的でお客さん結構来るかもねー」
汚れを気にするのをやめ、横澤はそう言うと僕がいつのまにか近距離にいることに「おわっ、なに」と驚いた。
「いや、暖簾、糸出てて」
横澤は頭上の黄ばんだ暖簾に目を走らせた。
「ほんとだ、全然気付かなかった。あーあ、そろそろ夜の準備するかなあ」
彼女は店の中へ引き返すためにするりと僕の横を通り抜け、店内へと戻っていった。通り抜ける際に僕の肩にポンと軽く手を乗せた。僕はそのまま店内に入った彼女の後ろ姿を目で追った。背中も尻も柔らかそうだった。二の腕の後ろ側なんてたまらないじゃないか。僕も店内に戻った。横澤の後を追う。彼女は角を曲がり奥にあるトイレの方へと向かった。客席からも厨房からも離れ、人気の少ない通路だ。店内のクーラーは相当低い温度に設定されていたけれど、僕の顔面は熱を発していた。手汗や背中の汗も引かない。視線は横澤の後ろ姿に張り付いたままだった。もうすぐ。もうすぐ感じられる。プス、ズブッ、ブブブブ——
ドン、と全身に衝撃が走った。右手のハサミがカランと落ちた。僕は前のめりに膝をつき、両手を付いた。顔を上げようとしたがうまくいかず、さっきまで前方にあった横澤の後ろ姿が今もあるのかはわからなかった。何かが後ろからすごい勢いでぶつかってきたようだった。それだけはわかったが、混乱が止まらないほどの、何か今まで感じたことのない感覚が僕の全身に響いていた。背中の一点から全身にかけて、響き続けていた。再びドンッと、さっきより強い衝撃が頭の天辺から足の爪先まで走った。すごい衝撃だ。膝も腕もガクンと折れ前にうつ伏せに倒れた。床の冷たさを一瞬感じたが、何が起きたのかわからないし、考えられないほどの衝撃がずっと身体に続いている。何者かの足で、ゴロンと仰向けにされたのがわかった。背中により一層衝撃が走る。何かが僕の背中に刺さっていると気づいた瞬間、恐怖にのみこまれた。目が合ったのは、厨房の料理長だった。無表情でこちらを見下ろしている。恐い、怖い、恐い、怖い、助けて、ごめんなさい、ごめんなさい、助けて、ごめんなさい、助けて——動けない、声も出ない。
料理長は僕の背中からそれをむりやり引き抜き、僕は人生で初めての感覚と痛みを感じ、人生で初めて出す声を出した。嫌だ、痛い、助けて、嫌だ、嫌だ…… かろうじて細く開けた目に映ったのは、何か水滴を垂らした出刃包丁を持って、横澤が向かった通路を歩いて行く料理長の後ろ姿だった。下から見上げているせいか、いつも以上にデカイと思った。なんだか血の匂いがする。僕の血の匂いだ。ああ、そういえば横澤は料理長のお気に入りだった。彼女が悩んでいたストーカーは料理長だったのかもしれないな。
「ポタッ」
「ポタッ、ポタッ、」
「ポタッポタッポタッタッタッタッタタタタタタタタアアザアアアアポタポタポタポタアアアアザアアアアア!」
「店長、降ってきましたねー」
キッチンのバイトの1人が、休憩している個室に声をかけてきた。
「え?」
音楽を聴いていたのでよく聞こえず、イヤホンを外しながら戸を開ける。
「おー、降ってきた?暴風もあるようなら看板とか暖簾も引っ込めなきゃだけど、まあ大丈夫だろ」
「ですね。あー、ホール涼しー!」
「俺もあと二十分くらいで休憩終わるから、夜の準備よろしくな。ホールメンバーはメニューとか替え終わったのかな?」
「多分終わったんじゃないすかね? そういえば今月、うちの店舗売上良いって昨日マネージャーから聞きましたよ〜! なんか嬉しいっすね! よっしゃ、やるぞー!」
やる気のあるスタッフに、自然と笑みがこぼれる。店長の自分まで鼓舞される——ありがたい。
「よし!」
俺は笑顔で賄いを口に掻き込んだ。
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