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サチさんの過去
ここは校舎3階にある音楽室近くの空き教室。
俺が所属している吹奏楽部の『低音パート』は、いつもこの空き教室で練習している。
俺の名前は谷山塁。小学校から中学校にかけて、俺はずっと野球をやってきた。父が元野球選手だったため、両親は俺に塁という名前をつけたそうだ。俺はこの名前が別に嫌いだったわけじゃない。俺自身子どもの頃から、野球はずっと続けていくものだと思っていたから。
でも野球は中学で辞めた。
現在高校1年生の俺は、吹奏楽部でバカでっかいチューバという楽器を吹いている。だが、楽器をさわってからまだ日が浅いため、自信をもって『吹ける』とは言えない状態だ。だから今、俺は猛練習を続けている。
季節は衣替えも終わりみんなの夏用の制服も見慣れてきた7月。
練習時間が終わり、俺たち低音パートメンバーはみんなで楽器を片付けていた。俺たちのパートが使っている楽器は大型のものが多いため、他楽器パートと比べて後片付けに時間がかかることが多い。俺たちが黙々と楽器の片付けをしていたところ——
——ザアアアーーー
突然雨が降ってきた。
「なんだよ。帰る時間になって夕立かよ。ついてねえな」
こうつぶやいたのは、2年生の先輩久保田幸さん。俺と同じくチューバを担当している。
ずいぶんガラの悪い話し方をするこの女の先輩のことを、俺は『サチさん』と呼んでいる。
俺とサチさんは以前同じ野球チームに所属していた。小学生から中学生にかけてずっと同じチームだったので、結構長い付き合いになる。
中学生だった頃、サチさんはガタイのデカイ男子たちと野球で競い合い、なんと中学3年までレギュラーであり続けたすごい人なのだ。
ただ、ちょっと気が強いのがタマにキズなんだけど。この人、中学生になってもチームメイトの男子と殴り合いのケンカしてたからな……
そんなサチさんが眼光鋭く、
「おい、A、オマエ傘持ってるか?」
と、同じ低音パート2年生の男子に尋ねた。
男子の名前を覚えるのは面倒なので、適当に男子A、B、C…… と名付けたらしい。
Aと呼ばれた先輩は、
「え? あの…… 折り畳み傘なら…… 持って来てるけど……」
と、気まずそうに答える。
「おい、なんでオマエ、そんなにモジモジしてんだよ?」
サチさんが尋ねると——
「え? だってほら。僕たちそういう関係じゃないだろう? 二人で同じ傘に入ってるところを見られたら、ほら、なんて言うか……」
「オマエ、バカじゃねえの! なんであたしがオマエと相合い傘なんかで帰らなきゃならねえんだよ! 傘持ってんならあたしに寄越せって言ってんだよ、このボケ!」
「ヒィッ! そんなのひどいよ…… それじゃあ、僕が濡れて帰らなきゃならないじゃないか……」
こういう時、決まってA先輩は俺に助けを求めるような視線を送ってくる。俺がサチさんとは長い付き合いだということをよく知っているのだ。
仕方ない。
「ちょっとサチさん、ヒドイですよ。それじゃあ、あまりにも先輩が気の毒じゃないですか」
俺がそう言うと、サチさんは『ヤレヤレ』といった表情を浮かべ——
「冗談に決まってんだろ。おいおい、あたしとルイは小学校以来の付き合いじゃないか。あたしが本当にソイツの傘をふんだくって帰るとでも思ってるのか?」
「………………いや、まあ、思わないっていうか……」
「なんで発言するまで、そんなに時間を必要とするんだ? それから、なんで語尾がそんなに自信なさげなんだ?」
「だってサチさん、小学生の頃、野球の練習が終わった後、しょっちゅう他人の傘をパクって帰ってたじゃないですか。俺たち、よっぽどサチさんの家が貧乏なのかなって、本気で心配してたんですよ?」
「…………残念だったな。あいにく我が家はごくありふれた中流家庭だ。単に手癖が悪かっただけだよ、まったく……」
またヤレヤレといった表情で、俺の視線から逃れるように、教室の窓から外を眺めるサチさん。昔の話をされて、ちょっと恥ずかしかったようだ。
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