空き家の主人

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空き家の主人(あるじ)   はじめに  私は、夏の終わりに私自身に起こったの出来事を書こうと思う。私はこれを中学生になる前に書いておこうと思った、なるべく鮮明な記憶があるうちに。これを書くにあたって、少なからずの人から協力を得たので、感謝の意をここに記す。 一 黒猫のポー (土曜日の出来事) 空に浮かぶ雲が動いている、物凄い速さで、形を変えながら。あんな風に早く動けたら、形を変えられたら、きっと天にも昇る位、良い気分なのだろう。 ふと読んでいる本から目を離し、小学校の図書室の窓から空を見ながら、そんな考えが頭の中を横切った。その時、私は誰かに呼び止められた気がした。 「高遠さん。」  確かに誰かに声をかけられている。振り返ると後ろの机の角の席に座って本を広げている女の子がいた。図書室には本を借りるためのカウンターに数人の生徒達がいたが、近くにいたのはその女の子だけ。私を呼び止めたのはその女の子だろうと、その子の顔を見て一瞬、世界が止まったかに思えた。驚天動地とはこのことだ。だって私が小学校の生徒の誰か、しかも同じクラスの子に声をかけられるなんて、ここ最近では滅多にあることじゃない、いやあり得ない事だったから。 「その本、面白い?」その子が徐に私に尋ねた。 「えっ、あ、あの、私たち同じクラスだよね。」私は恐る恐る小声で言った。そう言ってからまるで質問の答えにはなっていないなと自分で思った。 「うん。えっ、今まで知らなかったの?」その子は怒った様な声で言った。先程のゆったりとした雰囲気とは対照的だ。 「あ、いや、そうじゃなくて。勿論知っているけれど、その、私と喋っていいのかっていう事なんだけど。」私は額に皺を寄せ、目を細めてやはり小声で聞いた。 「えっ、私あなたに話しかけちゃいけないの?何かあるの?」今度はその子が驚いて目を見開いて私の顔を眺めながら尋ねた。 「いや、だって、あの…。」私はまごまごとして、答えを濁した。自分がクラスの子に無視されているということを率直に言うべきかどうか迷ったし、その子がそれを知らないとはとても思えなかったので、どう言っていいか分からなくなったのだ。 「あなたに話しかけると、私が死ぬの?」とその子が言う。半分冗談、半分本気だ。けれどやっぱり私がクラスの子に無視されているのは知っているのだろうと思った。 「まさか、そんな事は。」私は、首を振りながら言った。 「じゃあ、私に話しかけられたくない?」今度は少し真剣だった。 「いや、そういうんじゃなくて。」私は困った。 「じゃあ、一体何なの?」  私は思い切って言うことにした。ただし、出来るだけ小さな声で、 「あなたは私のことを無視しなくていいの?」と言った。 「何で私があなたを無視しなくちゃならないの?あなた私に何かしたの?」その子は怪訝そうな顔つきで私をまじまじと見て言った。ただ、私に釣られて小さな声で。 「何もしてない。」私はまたもや首を振って、即座にきっぱりと否定した。何やら誤解されて余計にこんがらがっては面倒だと思ったからだ。 「じゃあ、何でも無いのね。」まだ少し不機嫌そうな声でその子は言った。  私に話しかけてきたのは同じクラスの山川さんだった。毎日髪の毛を自分で縛って来るらしいのだが、いつもそのツインテールの高さが左右ずれているのを、本人は全く気にしていない。そう言えば、山川さんはあまりクラスの皆と積極的に話す方ではなかった。話しかけられれば丁寧に答えてくれるものの、大抵は静かに何かを‐図書室の本、教科書、楽譜、読めるものは何でも‐読んでいる。 「はあ、あの、私に話しかけると山川さんも虐(いじ)められるんじゃないかと。」私は正直に話すことにした。 「何で?誰に?」 「クラスの子達、まあ、強いて言えば、立花さんとか小室さんとか、あと、ええと…。」 「ああ、大丈夫よ。私あんまりあの子達に好かれていないみたいだから。」 「は?」私は呆気に取られた。それのどこが大丈夫かも謎である。 「私とあの子達が教室で話しているの、見たことある?」  そう言えば無かったかな、どうだろう。  私がこの学校に転入してきたのが四月、夏休み前の数か月と夏休み後の数週間しか経っていないけれど、思い返してみると、確かに山川さんがあの子達と親しげに話しているところは見たことなかった、様な気がする。最も山川さん自身が誰かと特別親しい、ということもない気がする。 「何で好かれてないって分かるの?」私は不思議に思って尋ねた。 「そりゃ、話しかけても返事がなけりゃ、誰だってそう思うんじゃない?」 「それじゃあ。」と私は絶句した。つまり、被害者は私だけではなかったらしい、とその時初めて知ったのだった。「過去にもあったんだぁ。」と私は呟いた。 「ところで、その本、面白かった?」  山川さんは何事もなかったかのように本題に戻った。 「ああ、うん、どうかな。」私は面食らったが、反射的にそう答えていた。 「そう、私もそれ読んでみようか迷っていたんだ。どうしようかな。ま、どうせ今日はこの本借りちゃったからいいけれど。あ、そろそろ帰らなくちゃ。」山川さんは本を閉じると右手にそれを大事そうに抱えて、じゃあ、またね、と言って左手で手提げ鞄を持ってあたふたと図書室を後にした。  私はまた呆気にとられて、またね、と言うのも忘れていた。  しばらく学校で同じ年の子と話したことなんてなかったから、たった今クラスの女の子と話したことが何だか夢の様に思われた。持っていた本を返却しながら『まさか、本当に夢だったなんてことはないよね』と思った。そうして今返したばかりの本の内容が頭に浮かんできて、『まさか山川さんに似た幽霊じゃないよね。』と思ったり、『小学校の私のクラスの全員が幽霊で、これが全て幻だったなんてことないよね。』などと思ったりするのだった。『そんなことある訳ない。』と、次に借りる本を手に取って、図書カードを書くため筆箱から鉛筆を取り出そうとした時に、中にあった消しゴムが筆箱から踊り出た。その消しゴムは私を現実に引き戻すのに十分だった。私は筆箱に大小二つの消しゴムを入れていた。その大きい方の消しゴムに大きく『ばか』とマジックで書かれていたのだ。そして、その『ばか』の文字が書かれた消しゴムを見た時、やはり先刻のことは夢だったのだろうかと疑いたくなった。そればかりか、消しゴムの底の方に平たい穴が開けられていて、その穴に折りたたんだ紙が突っ込まれていた。紙を突っ込むのは簡単だけれど、引き抜くのは少し難しい。苦労してその紙切れを引き出して広げてみると、そこにも『ばーか』と書かれていた。こんな物を苦労して引き抜いたのかと自分に腹が立ったが、どうしようもない。それにしても『ばか』の文字が書かれた消しゴムを見て私が悔しがると思ったのか、何故こんなことするのかが判らない。『ま、この位なら精神的な痛手もあまりないからいいか。』 それにしても『山川さんが私に話しかけてくるなんて意外だったな。』やっぱり現実じゃなくて夢でもみていたのかなと、またしてもそんな気がしてくる。そしてまた本の中の幽霊のことを考え始めて、『うん、これじゃあ堂々巡りだ。もう止め止め。』と他の事に頭を切り替える。そうだ、山川さんの言ったことは本当だろうか、と考えた。山川さんも無視されたことがあるとういう。山川さんはそんなに深刻にとらえていないようであったが、あの子達を良く知っているのだろうか。あの子達-  同じクラスの立花雪菜さんと小室亜里沙さんは仲良しで、何でも幼稚園(保育園だったか)のときからずっと一緒らしい。そして私のクラスだけでなく、小学校全体で最も人気のある子供たちに数えられている(らしい)。その他にも二人が小学校以前からずっと一緒で、その子達はいつもなんとなく一緒にいるのだ。そして私は、どうやらその子達から無視されているらしい。私の消しゴムに大きく『ばか』と書いたのは、その立花さんと小室さんに纏わりつくようにしている男子のうちの一人、腰巾着一号(私はこの男の子のことを心の中でこう呼んでいた)に間違いなかった。昨日の帰りの時間に、その腰巾着一号が私の筆箱をいじっているのを見かけたからだ。腰巾着一号はいつもクラスの女の子達といるか、腰巾着二号といるかどちらかだ。 『あ、早く帰らなくちゃ。』私は消しゴムを半ずぼんのポケットに入れて、筆箱をかたづけ、図書カードに急いで記入して、急いで図書室を出た。  新学期が始まって暑い日々が続いていたが、それも今週に入って少しずつ落ち着いてきていた。とはいえ、まだ暑いことは暑いのだ。今週の半ばからずっと晴天に恵まれて空は青々として校庭の木々の緑とともに光り輝いているように見える。それもこれも今日が土曜日で、学校には来たものの、あの子達(立花グループと私は呼んでいる)には会わずに済んでいるから。通常なら土曜日に学校に来ることはないのだが、今週から来月の音楽祭までの間、土曜の午前か午後のどちらかに登校して二時間ほど練習をすることになっていた。午前中は クラスのおよそ半分の弦楽器及び打楽器組が、午後は電子ピアノ組、というように別れて練習することになっており、私と山川さんは同じ電子ピアノ組で午後の練習が終わった後に図書室で出会ったのだった。練習後 に図書室で山川さんが私に話しかけてきたのは予想外だったけれども、練習中の私に声をかけてくるクラスメートは一人もいなかった。そもそも今日が一回目の練習で、ほとんどの生徒が悠長にお喋りしている余裕などなかったというのも事実だ。けれども休憩中も誰とも一言も話さなかったのは恐らく私だけだろう。(何の自慢にもならないけれど。)それでも、今日は土曜日だし、一番会いたくないあの子達には会わなくて済んだし、明日は学校が休みだから、どんなに嫌なことも、この日差しの暑さでさえも、今はそれ程気にならないのだ。 一昨日、学校からの帰り道、あの子達が大声で私の悪口を言っているのを耳にした。あの子達は私に聞こえるようにわざと大きな声を出したのだろう。今までは校内だけであったからまだ良かった、さすがに路上であの子たちの声を聞くのは勘弁、と思って、昨日から遠回りして家に帰ることにした。あの子達のいうことは気にしない、という手もある。事実、まだそこまで酷いことを言われたわけではなかったのだが、聞いていて気持ちの良いものでもないので、私は敢えて学校以外では会わないという選択をしたのだ。 弦楽器組のあの子たちに会わなくて済むと思うと土曜の登校もそこまで苦痛ではない。そして今日は遠回りしなくても平気なのはわかっていたが、それでも遠回りして家に帰ろうと決めていた。それには理由がある。 校門を出て横断歩道を渡り、真っ直ぐ歩いていくのが通常の通学路で、その道を行くのが家に帰るに は一番の近道でもある。それを、校門を出て左(東方向)に曲がり、少しの間歩いてから横断歩道を渡って真っ直ぐ行って、それから右(西方向)に戻るのだから、当然遠回りになる。この遠回りの道の途中は閑静な高級住宅街になっていて、比較的大きな家が多くあるのだが、中でも私の選んだ道にはとりわけ大きな家『お屋敷』があるのだ。 そのお屋敷は、大きな家の五、六軒分、小さな家なら十二、三軒分ほどもあるような広大な敷地をもち、その敷地の区画の端の方、南寄りの高い塀に割と近いところに八角屋根の別館の様な建物が建っている。本館と思しき大きな建物は、その屋敷をとり囲む高い塀のはるか向こうに見える。車が乗り入れるような大きな門の他に、八角屋根の建物に近い位置に通用門があるが、それとて普通の家より立派な門であるのは間違いない。 この道を通って帰る時、こんなお屋敷に住む人は一体どんな人何だろうと想像するのも楽しいことであったが、それよりもはるかに良いことがこの続きにあるのだ。この屋敷の隣に敷地だけは少し広い(隣のお屋敷ほどではないのだ)、大変誰か人が住んでいるとは到底思われない古い家が建っている。この(恐らく)空き家は、お屋敷の塀と比べると低い塀で外側を囲まれているのだが、不思議なことにお屋敷と隣り合わせの部分だけにはこの低い塀が、お屋敷と反対側の道路に面した方の塀だけは、お屋敷の塀と同じ高さの塀なのである。空き家とお屋敷を隔てているのは空き家の低い塀、お屋敷の高い塀、そしてその間の小さな側溝である。お屋敷の二つの門がある通りに面した空き家の低い塀の中央に、錆びた古くて小さい門があり、その門の片方はやや傾いていて、門の鍵は壊れているように見える。塀の内側には大きな木々が塀に沿って植えられていて、歩道に心地よい日陰を造ってくれている。 昨日、その壊れかけた門の横の塀の上に、黒い猫を見た。その猫は美しい黒い毛並みと綺麗な黄色い目を持っていて、塀の上で休んでいたのだが、私が見ていることに気付くと、その透き通った黄色い目で私を見つめ返したのだった。黒猫はしばらくの間じっと私を見ていた、まるでこの人に以前に出会ったことがあるかどうかを吟味しているかのように。私がゆっくりと手を伸ばし猫の首の下のあたりに触れようとすると、猫は起き上がって、静かに塀の下の私の足元に降り立った。そして少しの間私の足に体を擦り寄せて、それから尻尾をぴんと上げ、ゆったりとした気品に満ちた足取りで歩道を歩いて行き、あのお屋敷と空き家の境目あたりで見えなくなった。どうやら空き家とお屋敷の間の側溝に沿って奥へと入って行ってしまったらしい。私は黒猫の歩く姿に見惚れていて、追いかけるのを忘れていた。 どうしてもあの黒猫をもう一度見たい。これが、私が今日もこの道を通る理由である。 その猫は昨日と同じ場所、門の横の塀の上で目を閉じて休んでいた。私はそっと、出来るだけその猫に近づいてよくその猫を観察しようとした。真っ黒な艶のある毛並み、長いひげ、形の良い耳。私がじっと見ているのに気がついた猫は、だるそうに私をちらりと見た。私がその黒猫に触ろうとして一歩近づいた時、黒猫は塀の上で起き上がって伸びをしてから、またしても私の前にすとんと塀から飛び降りた。だが今日は私の足に擦り寄る素振りは見せずに、そのまま門の前まで行って立ち止まると私の方を見やった。それから門の中へするりと入ると振り返り、まるで私に着いて来いと言わんばかりに、私の方へちらっと目をやった。私は吸い寄せられるように門の中へ入り、黒猫の後を追って行った。 もし今までの(昨年までのいや、半年前までの)私なら、つまり、二年ほど前に父が亡くなったり、その後転校したり、転入先で学校の子に無視されたり、といったことがなかったら、猫と戯れることはあっても、断りもなく空き家に入っていくことなどなかっただろう、絶対にだ。だけどそんな失意の中では、おまけにあんな可愛い黒猫に誘われたら、つい後をついて行き、勝手に他人の古い家に入る様な行動をとってしまうのも無理からぬことだった。黒猫は私をちらちら見ながら先導している。途中で玄関に向かうだろう石畳を外れて、木々が生い茂った細い道の、草の上を歩いた。と、突然前をゆっくり歩いていた黒猫がさっと駆け出し、姿を消してしまった。 「そんな・・・。」 何やら人の声がする。そうか、それで黒猫は逃げたのだ、私も見つからないようにしよう。咄嗟にそばの植木の後ろに身を隠した、いや、隠したつもりでいたと言う方が正しいだろう。だがここにずっといるわけにもいかないので、背を屈めて木の後ろに隠れながら、黒猫が駆け出した方、木々の間の草が生い茂っている細い道を進んだ。  するとすぐに目の前に開けた場所が見えてきて、どうやらその開けた場所は小さな庭のようなものであり、その庭の向こうに古い民家が見えた。 「けど、・・・だろ。」 「・・・てんだろ。」 「・・・な。」  声は庭の向こうから聞こえてくる。 慌てて大きな石の後ろに身を潜(ひそ)めた。どうやらその民家で人が争っているらしい。植木の木々で囲まれたその庭には砂利が敷いてあったが、長いこと手入れをしていないのだろう、砂利の下から草がぼうぼうと生えていた。木々の間に大きな石が三つほど離れて砂利を囲むように置かれており、石の前には必ず低木が植えられていた。私はその一番大きな石の後ろに身を潜めて、ちょこっとだけ頭を出して庭の向こうの民家を見た。手入れがなされていれば、きっと立派な庭であるに違いないその庭の奥の古い民家は平家であったが、(それは隣のお屋敷に比べれば小さいけれども)普通の家に比べたら少し大きい家なんじゃないかと思った。家もやはり手入れがなされていないと見受けられ、きっともう何年もここに誰も住んでいないことを窺わせている。ここから見える部屋は縁側のある二部屋で、一部屋は外側のガラス戸は開けられているが、内側の障子がぴたりと締められている。隣の部屋はガラス戸も障子もすっかり開けられていたので、縁側の奥の畳の部屋や、床の間らしきものがあるのが見て取れた。そして、その部屋の真ん中あたりに二人の男の人が立って話をしていた。『まるであの本の中に出てきた幽霊の屋敷みたい。』と私は心の中で思った。今日の午後、図書室で山川さんにあった時に私が持っていた本『雨月物語』の中の話のうちの一つを思い出していた。 『でも、あのお話の中の幽霊屋敷よりはきっとずっとましなんだよね。』心の中で納得してこの古い家よりも、もっとずっとぼろぼろの幽霊の出そうな古い家を思い浮かべた。『当然あの二人は幽霊なんかじゃない。』二人はまだ話しており、私の見る限り、何だか深刻そうで、だんだん声も大きくなって、ついに一人が相手に掴みかかった。 「そんなことしたって、どうしようもないだろ。」 「このままの方がよっぽど、『どうしようもない』 だろ。」掴みかかられた方がその手を振り解きながら言った。 「とにかく、どうでもいいから、それを見せてみろよ。」またもや掴み掛かろうとしながら言う。 「お前がこれを見たってしょうがないさ。」その手から逃れるようにその男は縁側まで出てきて、さらに縁側から庭に降りてしまった。 「そんなことはない。」もう一人も続いて縁側を降りながら言う。 「お前が知ってることが入っているだけさ。俺たちがやっている事の動画やリストの写真なんかだよ。」言いながら、さらに砂利の中を歩いて、こちらに向かってくる。 「お前が撮った中身が知りたいだけだ。」もう一人も追う。そして追い付いて再び掴みかかった。 「たとえこれをお前に渡したって、こんなものいくらでもコピーできるってわかっているんだろ?」右手を大きく振りかざすような素振りをした。どうやら手に何か持っているようだが、ここからでは何を持っているのか判らない。 「何が映っているのか見たいだけだって、言っているだろ。」とその右手を掴んで、何かを奪い取ろうとした。奪われまいと振り返って抵抗しようとしたその時、何か小さくて黒っぽいものが宙を舞った。それを持っていた本人は「あっ」と叫んで、自分の後方に飛んでいくその黒っぽいものを目で追った。その黒っぽい物は私のいる方に飛んできて、私を隠している石のすぐそばに落ちた。私は息を呑んで、頭を引っ込め、思わず両手を半ずぼんのポケットに突っ込んだ。 『あの二人がこっちの方へ来ませんように。』と祈りながらポケットの中のものを捏(こ)ねくり回した。なんだこりゃ。ポケットに何かある。『何だろ、これ。…ああ、そうだあの消しゴムだ。こんな時だっていうのに嫌なことを思い出してしまった。今はそんな場合ではないのに、嫌な事は思い出すんだな。どうだっていいことなのに。』 一人は石のそばに落ちた黒っぽい物を取りに行こうとしたが、もう一人がそうはさせまいと邪魔に入る。二人は睨みあい、今にも掴み合いになりそうな状況だ。そして、まさに二人が取っ組み合いを始めたその時、私は自分でも考えられないような行動に出た。私は手を伸ばすとその小さな黒っぽい物を手に取って、ポケットにしまったのだ。何故そんなことをしたのか自分でも分からない。 すぐに『どうしよう、馬鹿なことをしてしまった、目の前にご馳走を出された犬じゃないんだから、こんな物拾って私は一体どうする気なのだ?』と思ったけれど、二人の男は取っ組み合ったまま、こちらの方へ進んでいる。『拾うべきじゃなかった、やっぱり元に戻そう。』と考えた時、二人の男の人が「わっ」と叫んで一瞬そこに留まった。何か黒いものが二人の前を横切ったのだ。 「あっ」一人が叫んだ。 「猫だ。あっちへ行った。」 「何だ、脅かしやがって。」 『今だ。』私はポケットの中のものを先程の位置にそっと投げた。 「ねえ、ちょっと、誰もいないの?」今度は民家の奥の方から女の人の声がする。二人は、今度は民家の方を向いて、「来たぜ。」と一人の男がもう一人に小声で言った。 「ここにいるっていうからせっかく来てやったのに。」女の人の声はだんだんと大きくなる。私は二人が向こうを向いた瞬間に、頭を低く保ったまま石の裏から逃げ出した。二人はおそらくこっちを見たのだろう、後ろの方で「またさっきの黒猫だろ。」と言う男の声が小さく聞こえた。男たちが女の人と話し始めた声が微かに聞こえた。そのまま来た道を戻って門の方へ向かって走っている途中で、男の人がすーっとあの庭の方へ行くのを見た気がした。『まさか、幽霊?』私はさらに勢いよく走って、門のところまでやって来た。門は私が入った時よりさらに大きく開いていて、以前にも増して余計に傾いてしまったように見えた。誰かに見られているような気がしてはっと顔をあげると、あの黒猫が塀の上から私を見ていた。私が門の外に出るのを見届けた黒猫は、門の内側に降り去って行った。目の前の道路には白い車が泊まっていて、その少し後ろには黒い車が止まっているのが目に入った。だが 私の心はその時、黒猫のことでいっぱいだった。先程まるで私を助けてくれたようなあの猫。たった今私の無事を確認したかのようなあの猫。ふっと私は、『そうだ、あの猫の名前、ポーにしようっと。黒猫のポーか。いいぞ。』と少しだけ楽しくなって元気が出て来た。他にも『ヤマト』や『タンゴ』を考えたけれど、ポーが一番しっくりくる。そして何気なくポケットに手をやって、私はその場を急いで立ち去ろうと走り出した。私の元気は吹っ飛び、またもや激しく沈んでいく気分だった。ポケットの中身が消しゴムではなく、さっき拾った小さな黒っぽい物だと気付いたからだ。 二  空き家  (日曜日の出来事) 「今日の午後、図書館に行ってきてもいい?」翌日の朝、私は母に尋ねた。今日は日曜なので、学校に行く必要がない。だがあの黒猫のいる空き家にどうしても行きたいので何か言い訳が欲しかったのだ。図書館は学校より少し先にあるので、遠回りせずに真っ直ぐ学校へ行く道を通って図書館へ行き、図書館で本を返して、遠回りして帰って来れば昨日と同じ位の時間に空き家に行けるはずだ。 「いいけど、先週借りた本、もう読んじゃったの?」 「うん? ああ、一冊はね。」 「じゃあ、もう一冊読んでから一緒に返しに行った方がいいんじゃない?」 「ううん、いいの。もう一冊は少し読んだけれどつまらないから、その先はもう読まないで返そうと思っていたんだ。」 「そう、お母さんも一緒に行く?」 「ううん、大丈夫。本返すだけだし。」 「気をつけるのよ。」 「はいはい。」 「携帯持って出てね。」 「はーい。」 「あ、それからね、……。」 あの黒猫にまた会えるといいんだけどな、と思いながらお母さんの話を聞いていた。聞きながら昨日拾った小さな黒っぽい物のことを考えた。メモリーカードの一種だろうけど、中を見るのは気が引けた。図書館のコンピューターで見てみようかなとも考えたけれど、やはり止めておこう、このまま元にあった場所に置いて来るのが一番いい。 昼食の後、お母さんとテレビを見たり話したりしているうちにだんだんと時間が遅くなってしまった。あまり急いで出かけてお母さんに怪しまれるのも嫌だなと思って普段通りにしていたのだが、ゆっくりしすぎた。結局慌てて「行ってきます。」と言って家を唐突に出てきた。予定より遅くなってしまったので、黒猫に会えなくなってしまったら困ると、図書館に行くのは省いて、そのままあの空き家に向かった。 だが途中で、このまま行くと今度は逆にいつもの時間より少しだけ早く空き家に着いてしまう、と気付いた。ゆっくり行けばいいものを気が早り、気が早ると足が早まり、この分だと十分に図書館に行く時間があったのではないか、などと考えているうちに、空き家に着いてしまった。携帯で時間を見ると、昨日や一昨日よりおよそ一時間程早く着いたことがわかる。そういえば、図書館の本を持って出るのを忘れた、とこの時気づいたが、 図書館は口実なので『まあ、いいか。』と自分に言い聞かせた。 残念なことに塀の上に黒猫はいなかった。しかし、とにかく私はあの石の所まで行き、昨日拾ったあれ(・・)、小さな黒っぽい物をそこに置いて、できればあの『ばか』消しゴムを回収したい。閉じている門を少しだけ押して中に入り、昨日と同じ石畳、そこから逸れて木々の間の草の道の上を通ってあの石が見える所まで来た。と、まるで昨日と同じ光景がそこにあったので、一瞬、時間が巻き戻ったのかと思った。昨日と同じ草ぼうぼうの砂利の庭、その奥の民家、縁側に障子の閉じられた部屋と隣の開け放たれた部屋、その障子の開け放された部屋の畳に床の間、そしてその部屋の真ん中に二人の男の人。ああ、これが所謂(いわゆる)『デジャブ』というものかななどと考えたが、そんな場合ではないのだ。急いで石の後ろまで行ってしゃがみ込んだ。 「止めとけよ。そんなことして、逆に…。」 「でも、このままじゃいずれ…どうにもならなくなるだろう。」 「何とかなる、けど今は良くないだろ。」 「いい時なんてないだろ。そんなことわかっているじゃないか。」 「いや、もう少し経てば…。」 「そんなことを言っている間に…。」 二人の男は話し込んでいる最中のようで、今のうちだとばかりに石の下を見回すが、消しゴムが見当たらない。今度は手だけ伸ばして草の生えた地面を触ってみるが、やはり無い。『おかしい、絶対にこの辺りに置いたはずなのに。』さらに地面を探ってみるが、無い物は無い。『まあ、いいか、消しゴムはどうでも。さっさとあれ(・・)を置いて帰ろう。』とポケットに手を突っ込んだ時だった。 「ひっ。」と私は小さな叫び声を上げてしまった。 後ろから誰かに口を塞がれたのだ。耳元でシーッと囁く声が聞こえた。物凄く驚いてじたばたすると、もう一度耳元で、 「しっ、静かに。」と囁かれたので、私はわかったことを示そうと、口を塞がれならも、大きく頷いて見せた。 その時、私の小さな叫び声を聞きつけた二人の男が縁側を降りてこちらに向かって来ようとしていた。『静かに。』と私に言った女の人は、石の後ろで私の手を取ると、ゆっくり後退りして、私を連れてその場から立ち去ろうとした。その時、男の一人の携帯(スマホ)電話の着信音が鳴った。男達は立ち止まり、一人が電話に出た。 「おい、あいつらここに着いたってよ。」男の一人が言った。 「早く行った方がいいな。」 微(かす)かにこんなやりとりが聞こえたかと思ったら、男たちはこちらに来るのを止めてもとの畳の部屋の方へと戻って行った。女の人は私の手を握り直すと、反対の手で行く先を示した。それは私が来た方向とは逆で、木々の間を抜けて突き当たりまで来ると塀に沿って民家の裏の方まで続いている小径(こみち)が見えた。草がぼうぼうと生えてしまっていて、僅(わず)かに道らしきものが残っているにすぎなかったが。その小径を進んで民家の横を通りすぎ、民家の裏に回って間もなく裏木戸に辿り着いた。やっぱり普通の家よりは大きいと思った。ただ残念なことに草木がぼうぼうと生えているのを見ると、あの幽霊屋敷を思い出してしまうのだ。 女の人はその半分腐ったような木戸を無理やり引っ張り開けると、外へ出るように私を促した。外はもっと草の生い茂った小径で、人間と小動物が通った僅かな跡が見て取れる。これが獣道というやつだな、などと考えながら、ますますあの幽霊屋敷のことが頭に思い浮かんでくる。と、女の人がそこで指を差して、 「あそこに道路があるのが見える?」と私に聞いてきた。 「はい。」私は小さく頷いた。 「あの道路がこの家の門から出て右に、さらに次の角を右に曲がった所の道路なのよ。解るかな?」 「はい、解ると思います。」私はすぐにどの道のことか解った。 「良かった。じゃあ、そこから家に一人で帰れるね?」 「はい。」 「さっき見た人達とは関わらない方がいいよ、きっと。」 「はあ。」 「ああ、それに、勝手に人の家に入っちゃ駄目だよ。」 そういって女の人は私の頭を軽く撫でると、じゃあね、と手を振って、裏木戸から中に戻って行った。私は、「ここはあなたの家なんですか?」と聞きたかったのだが、女の人がさっさと木戸を閉めて行ってしまったので、とにかく獣道を抜けようと道路まで進んだ。『まさかあの女の人、幽霊じゃないよね。』と思いながら。その道路は私が思った通りの場所で、勿論そのまま家に帰ることも出来たのだが、私はどうしてもあれ(・・)をあの石の下に戻したかったので、またこの空き家の門まで行くことにした。あのまま、また裏木戸から入って行っていたら、あの女の人に今度こそ怒られそうだったので、門から入っていつものようにあの石まで行こう。そうして、さっさと石の下にあれ(・・)を置いて また門から出ていけばいいのだ。そんなことを考えながら小走りで角を左に曲がった瞬間に、誰かにぶつかった。私は反動で尻餅をついたが、相手の人はどうやら何でもなかったようだ。 「おい、気をつけろよ。」 男の人の声がしたけど、ぶつかった相手ではなかった。私がぶつかった相手は怖い顔をして私を見ているけれど、怒鳴ったのは別の人、ぶつかった人の後ろにいたもう一人の男の人だった。ぶつかった男の人もあまり大きな人ではなかったが、後ろにいた男の人はもっと小さい男の人で、目の細い顔の青白い人だった。 何だか私がぶつかった人よりもその人の方がよほど怒っているようだった。 「ごめんなさい。」立ち上がりながらそう言って頭をちょっと下げた。 「危ねーだろ。こんな所で走ったら。」ぶつかった男の人の後ろにいた男はまだ怒り足りないようで、「ちゃんと謝れ、ほら。」と言った。 「もういい、行くぞ。」とぶつかった男の人がそう言い放つと、道路を横断し始めた。渡った先の道路に 白い車が止まっていたので、あそこへ行くのだろう。昨日空き家から帰る時に見た白い車に似ている、でも車はどれも似ているからな、と思った。   「あ、榊さん。待って。」と言って小さい方の男は右腕を男の方へ伸ばしながら、後を追って行った。その手には道具箱のようなものを持っていて、少し重そうにしていた。その男は、私がぶつかった男を追いかけて車に戻る途中でちらりと振り返り私を睨んだような気がした。『何を見ているんだ』と咎められた気がして、私はくるりと空き家の門の方へ 向き直って歩き出した。すると今度は前方に黒い車が停まっているのが目に入った。何だか昨日も同じような体験をしたような気がしたのだが、白い車や黒いが停まっているのはそんなに珍しいことでもないかと思い返した。 気を取り直して門の方へ向かう。 「あ、いた。」ほっとしたのか、私は嬉しさのあまり思わず声に出して言ってしまった。 門の横の塀の上にあの黒猫のポーが休んでいたのだ。だがいつもと反対側から行くので、今はまだポーの後ろ姿しか見えていない。だが私が門の所まで行き、塀の上の猫を見つめると、私に気がついたポーは、昨日と同じようにだるそうに私をちらりと見た。また昨日と同じように私がそのポーに触ろうとして一歩近づいたとたん、ポーは起き上がって伸びをしてから、またしても私の前にすとんと塀から飛び降りた。 そしてするりと門を掻い潜って敷地の中へと入って行って、そして昨日と同じようにまた着いて来いと言わんばかりに私の方へちらっと目をやった。結局私は今日再びこの門を少しだけ開いて中へと入り、ポーの後を着いて行ったのである。ポーは昨日と全く同じ様に同じ道を案内してくれて、昨日と全く同じ様に同じ場所で駆け出すと、また全く同じ所で姿を消した。また人の声がするのだ。私は急いであの石の所まで行き、 石の後ろにしゃがみ込んで隠れた。消しゴムとあれを交換して急いで帰るつもりだった。昨日消しゴムを置いた辺りを念入りに探すが、見つからない。『おかしいな、さっきも無かったんだよな』と、よく探すけれども無いのだ。石の後ろから覗くように家の方を見ると、今まで庭を背にして話していた三人のうちの二人が、 庭の方つまりこちらを向いた。 「はっ」と、私は驚いて息を飲み、『あの女の人だ』と、思った。 あまりに驚いたので思わず覗くのを止めて石に背をもたれ掛けた。すぐに呼吸を整えてもう一度、石の後ろから覗き見ると、やはり先程私を裏木戸から帰したあの女の人が、石の後ろから見た男の人二人と話していたのだ。『あの女の人と二人の男は知り合いだったのだろうか?』と自問しながら続けて見ていると、男の一人とあの女の人が縁側を降りて草のぼうぼう生えた砂利の上に立ってまた話を始めたが、その時二人の後ろにいたもう一人の男の方は、開きっ放しの部屋の奥の床の間の板を持ち上げ、黒い道具箱の様なものをそっとその中へ置いて、板を元に戻した。『何かを隠したんだ』と、私は思った。そういえばあの道具箱みたいなやつ、さっき見た気がする、そう、ぶつかった男の人の後ろにいた人が持っていたあの箱によく似ているのだ。ここからでは良く見えないし、それによくある道具箱なのかも知れないが。それからその男は何も無かったかのように二人の後ろの縁側に佇んでいた。縁側を 降りていた二人がこちらに歩き出したので私は焦った。だが後ろの男の人が二人に何か言って、二人は足を止めた。その時、後ろの男の人に携帯電話がかかって来て、何やら話し出した。今のうち、と私は石の後ろを離れ、急いで来た道を戻り、一気に門の外へ出た。 私は何が何だか分からなくなってしまった。あの女の人があの二人の男の人達と知り合いだったなら、何故、私をわざわざ裏木戸に連れて行ってそこから帰らせるようなことをしたのだろう? 何故あの女の人は私に、関わらない方がいい、などと言ったのだろう? その時ふっと何故自分がもう一度あんな所に行ったのか思い出したのだ。そして半ずぼんのポケットに手を入れると、底の方にあれ(・・)がまだ眠っていた。そうだ、あまりに驚いてしまって、またあれ(・・)を置いてくるのを忘れたのだ、『全く一体何のためにあそこへ戻ったのだ、私は。』一目散に家に向かって駆け出した。 三 八角屋根の館 (月曜日の出来事) 次の日の朝、支度をしている私に向かって、お母さんが私に言った。 「今日はちゃんと本を持って図書館に行くのよ。もし行くならね。」 昨日、私が図書館に行くのに本を持っていくのを忘れたので、こう言っているのだ。我ながら馬鹿だったと思ったが、結局図書館には行かなかったので、借りていた本を持って出なくて正解だったと考え直した。本を持っていたら、途中で落として来るか忘れてくるかのどちらかだったろう。しかしあれ(・・)を置いて来なかったのは本当に間抜けだった。ただあの空き家のあの石の近くに放り投げるだけでも良かったのに。でも、何であんな物を拾ってしまったんだろう?自分の近くに落ちたから? 何も考えずに手が出ていたのだから仕方がない。あれを捨てた人が困ってないといいのだけれど。 ふと、テレビの朝のニュースに目が留まった。 「あああああ。」 既にお母さんと朝食をとりながら、一昨日と昨日のことを考えていた時にそのテレビのニュースが流れたので、私はつい大声を上げてしまった。昨夜遅く、あの空き家でぼや騒ぎがあり、警察が調べたところ一人の遺体が見つかったというのである。ただしそれだけで、詳細は全く触れられなかった。だがテレビに映し出されたのはあの空き家であったので、あそこで何かあったのは事実である。 「どうしたの。大きな声を出して。びっくりするじゃないの。」 と、お母さんに言われて我に返った。 「だって、だって、あの空き家なんだもん。」私は驚きを隠さずに応えた。 「は?空き家?」 「そう、ほら、今のニュース。」 「えっニュース?」お母さんは何気なくニュースを聞いていただけだったのだろう。 「あ、ほら、今テレビで空き家の事件が。」 「ああ、殺人事件のこと。それがどうしたの?」お母さんは眉を顰めた。。 「お母さんこの家知っている?」私は尋ねてみた。 「ええ。知っているわ。」なぜかお母さんの声がくぐもった気がした。 「この家、今は誰も住んでいないんだよね。」 「多分ね。」お母さんは幾分訝し気に私を見た。 「この家の隣の家ってものすごく大きなお家(うち)だよね。」 「よく知っているわね。」心なしかお母さんの顔が怖くなったように見えた。 「この家も前を通ったことがあるんだ。とっても大きくてびっくりしたから良く覚えているんだ。あんな大きなお家があるんだね。」 「そうね。」もう完全にお母さんは見るのも恐ろしい顔になっていた。 「あの、…。」私はどうしようかと考え、口籠った。「あのさ、…。」昨日のあの古い家での出来事を話そうか迷った。「あの、あの、」先が続かない。  だが、「あの、」しか言わない私に気付いたお母さんはもう怖い顔をしていなかった。 「何、何でも言っていいのよ。」お母さんが優しく言った。 お父さんが亡くなってしばらくの間、私達母娘は放心状態だったと言っていい。その後生活に追われ、徐々に昔に戻っては来たが、お父さんがいない寂しさは消えることはない。そして、それと関係があるかないかは判らないが、お母さんは前より過保護になった気がする。お互い気を遣うようになったというべきか。 「あの、今日ちょっと早く学校に行こうと思って。」 「あら、」たったそれだけのこと?と言わんばかりだ。「何かあるの?」 「ないよ。ちょっと図書館で見たい本があって。」学校に行く途中あの空き家に寄ってみたかっただけなのだ。 「そう。で、それだけ?」お母さんはたまに鋭い。 「うん。じゃあ、行ってきます。」また今度話すことにしよう、と、朝食をいつの間にか終えていた私は早々に切り上げた。 「えっ、もう行くの?」 「歯を磨いたら、行く。」 「忘れ物しないようにね。今日は学校の本を持って行くのよ。」お母さんは少し寂し気な表情をして何か言いたげであったが、さらに追及することなく、それだけ言った。 「はい。」   歯磨きをさっさと済ませて、ランドセルを背負うと玄関で「行ってきます。」と言うと、後ろから「行ってらっしゃい。」とお母さんの声が微かに聴こえた。   あの家の近くまで来ると、警察の車両が何台か見えた。野次馬と言っていいのか、近所の人々だろうか、 何人か家の前で様子を伺っている人たちがいた。『家の前の人々を避けて道路の反対側を歩こう』と、あの家を見ながら車道を渡っていると、一人の男の人と目があったような気がした。こちらを睨んでいるようだったので、私の身体は縮上がり思わず声を上げるところだったが、唾を飲み込んで我慢した。『昨日あの家の中 で見た人だ、やっぱり何か関係があるんだ。でもあの男の人は私を見なかったはずだから、私のことがわかるわけがない。』たまたまこちらの方向に目が向いていただけのことだ、と自分に言い聞かせて足早にその場から離れようとして向き直った。誰かにぶつかりそうになって、慌てて身を捩(よじ)ってその人を避けた。その人も避けてくれたので、ぶつからずに済んだ。慌てて避けようと必死だったからかその人の顔は見なかったが、女の人であることはなんとなくわかった。そしてふと思った、あの男はこの女の人を見ていたんじゃないか、 と。その女の人を追いかけて顔を見たかったが、思い止まってそのまま学校に向かった。昨日の裏木戸へ案内してくれた女の人とは違う気がした。あの男の人の知り合いなんだろうか。程なくして幾人かの小学生が 同じように学校に向かっているのを見て、私は少し安堵した。 学校にいる間、昨日のことや今朝見た空き家の男の人のことをずっと考えていた。どのみち話しかけてくる子もいないし、思う存分物思いに耽ることができた。もっとも先生の話も上の空だったため、何度か注意されたけれど。 帰りの時間に男の子の一人が近づいてきて、 「お、こいつ消しゴム変えたぜ。」とにやにやしながら他のクラスメートに向かって言った。この男の子は腰巾着の腰巾着(私が心の中で使っているあだ名)。常に腰巾着一号、二号にとっついているからである。 「何だよ、こっち見るなよ。」 「失くしたからね。」と答えながら、内心 『やっぱりこいつらが書いたのか。』と思った。もっと何か言い返してやろうと思うのだが、何とも言葉が見つからない。それよりも今はあのばか消しゴムを取り戻したいと願っているのだから、不思議なもんだ。 「おおい、あいつ消しゴム変えたぞ。」と女の子たちのもとへ嬉しそうに飛んでいって、何やら楽しそうにぼそぼそと喋り始めた。腰巾着の腰巾着はいつもは腰巾着一号、二号に主役の座を譲っているのだが、今日はここぞとばかりに中心になって熱心に話している。きっと次に私の消しゴムに何を書くかを相談しているんだろう。 帰り道はとりあえず今日も遠回りの道を選んだ。勿論昨日あの家でのことが気になっていたからだ。ここのところずっと天気が良くて、帰り道の距離が倍になったことはあまり気にならなかった。それどころか、 あの(・・)娘(・)達(・)に会わなくて済むと思うと、以前より気分が軽く感じられた。あと半年位の辛抱だ。そうすれば もう残りは学校を全部休んだっていい。中学校へ行けば何人かには会わなくて済むし、他の子だって同じ組になる確率は低いはずだ。そんなことを考えながら歩いているとあの大きな家の前まで来ていた。お婆さんが表に立ってその立派な門を見つめていたが、私に気がつくと、話しかけて来た。 「まあ、お久しぶりね、さよさん、どうしたの、今日は?まあ、上がってお茶でも飲んでいって。」 「あの、私、さよじゃなくて、沙知子ですけど。」面食らって小さい声で言った。 「あら、そうだったかしら。とにかく全然会わないのだから。お元気でした?」 「はい、いや、あの、その、…。」 「まあ、遠慮深い方なのね。昔は違ったでしょうに。」 「あの、昔って…。私のこと知っているのですか?」 「ま、知らないわけないわ、少し小さくなったようだけど。」 「あの、私、どちらかというと、今大きくなっているんですけど。」 「まあ、私も年をとって小さくなったからね。何年振りかしら?いや、もっとだね。まあいいわ、さあ、上がっていらして。」 「は?」 「何か用事があって来たのでしょう?でなきゃ、ここへ来るはずなんてないものね。さあ、どうぞ。こちらへ。」 『孫と間違えているわけではなさそう。』私がランドセルをしょっているのもお構いなしで昔の話をするので少しぼけてきているのかもと思った。私より誰かもっと年上の人と間違えているのであろうけれども、何だが私を通して別の人を見ている様だった。 背中を押されて門の中へ、家の中へと半ば無理やり連れて来られた。無下に断らなかったのはこの大邸宅をちょっと見てみたかったからだった。しかし私はすぐに少しがっかりする羽目になった。私が案内されたのは その母家の大邸宅の方ではなく離れの別宅、と言っていいかわからないが、とにかく門に近い小さな八角屋根の古くて小さい別邸の方だったからだ。古いとはいえ立派で洒落た建物で、母家の大邸宅とはまた違っている様子だった。もっとも本宅の大豪邸の方には入ったこともないのだけれど。 促されて玄関を入り、スリッパに履き替えすぐ横の居間に通された。中はそれほど広くはないが、綺麗で内装や調度品など高級感で溢れていたが、それでいて居心地は悪くなかった。 「ほら、突っ立ってないで、お座りなさい。」お婆さんはテーブルの周りの椅子の一つを指さした。「今、お茶を出しますからね。」 お婆さんはテーブルの上にあった陶器のベルを振った。ベルは良い音で鳴ったが、はたしてこの音はどこまで聞こえるのだろう、と私は思った。しかし私の要らぬ心配だったらしく、何やらばたばたと階段を降りる音が聞こえてくる。そしてすぐに誰かが「瀧さん?」と言いながらこの部屋へ入って来た。今度は、今朝と違って我慢できずに、 「あっ。」と声を出してしまった。昨日のあの女の人だった。 「あっ。」相手もほぼ同時に声を上げた。そしてこれは意外だったとばかりに「あっ 昨日の。」と言って、不思議そうに私を見つめた。が、すぐに我に帰って、「直ぐにお茶を持って来ます。」と部屋を出た。 「お願いね。」とお婆さんは女の人の方に向かって言うと、私の方に向き直って「まだ突っ立っているのね。いい加減、お座りなさい。お茶はすぐに来ますから。」 言われるがままに、私は椅子を引いて腰を下ろした。お婆さんも一番大きくて立派な椅子にゆっくりと座ると、そのまま何も喋らなくなってしまった。 「あの、立派なお家ですね。」私が言った。しばらく待ったが返事がないので、「あの大きな家ですね。」ともう一度言ったが、またしても返事がない。お婆さんは目を瞑っていたので、もしかして寝てしまったのだろうかと不安になった。「お隣で事件があったんですって、知ってます?」私は他に話すことがないのでとりあえず聞いてみた。それでも返事はなかった。これは本当に眠ってしまったのではないかと益々心配になった。今度はもう少し大きな声で、 「あの、お隣で誰かが殺されたって。あとぼやもあったって。」 「まあ、誰が死んだのですって?さよさん、滅多なことをいうものじゃありませんよ。うちの息子が奈緒を殺したなんて。」 「は?」何の話だろうか、わからない。 「うちの子達は誰も殺してなんぞいやしません。」お婆さんは少し興奮気味に声を荒げてこう言った。 丁度そこへ、手にお盆を持ってあの女の人が現れた。 「お茶ですよ。あと瀧さんが作っておいてくれたお菓子も。」女の人は私とお婆さんの分のお茶をテーブルに置いてくれた。 「まあ、あなた、私はお茶なんか飲みませんよ。もう部屋で休みます。」お婆さんが言った。この言葉に私は驚いた。お婆さんは一体どうしてしまったのだろう。 「はいはい、では部屋へ行きましょうね。」あの女の人は手を差し出して、椅子から立ち上がろうとするお婆さんを助けようとした。しかしお婆さんはその手を振り払い、 「一体あなたは誰なのですか。こんな子供をこの家に入れたりして。瀧はどこです?」 お婆さんは言いながら立ち上がってよろけたところへ女の人がまた手を出して、お婆さんを受け止めた。そして『こんなことはいつものことよ』と言わんばかりにお婆さんの手を取って部屋を出て行くのだが、その間際に振り返って「そこにいて。」と私に向かって言った。 私は驚いたこともあって暫く黙って座っていたけれど、少しすると暇になってきて、飾り棚に飾ってある花瓶や陶器の人形などを傍に行って見回し始めた。そこには写真も何枚か飾ってあって、その全てが、母親と息子と娘らしき者が一緒に写っているものだった。母親はおそらく先程のお婆さんだろう。だからあとの二人はきっとお婆さんの息子と娘ということになる。先程お婆さんが言っていたあの息子と娘はこの二人なのだ。お婆さんは何故私にあんなことを言ったのだろう? 私が写真を見入っていると、あの女の人が戻ってきた。 「お待たせ。」女の人は優しい声でそう言った。さらに、「ああ、それは三井さん、私がお婆ちゃんと呼んでいるのだけれど、あのお婆ちゃんとその息子の翔太さんと娘の翔子さんよ。二人はあっちの本館の方に住んでいるの。」         「お婆さんだけここで?」 「そう。あとお手伝いの瀧さんとね。ああ、瀧さんの作ってくれたお菓子は本当に美味しいから食べてみて。この焼き菓子は最高。」 「お手伝いさんがいるんだ。」私はお菓子を一つ手に取りながら小声で言った。 「そう、住み込みの家政婦さん。瀧さんは一番古参の家政婦さんで、もう何十年とこのお屋敷で働いているらしいよ。もっとも最初は本館で働いていたって聞いているけど。」 「へえ。あっ、本当に美味しいです、これ。」私は嬉しくって大きな声をあげてしまった。 「そうなんだよね、美味しいんだよ。」とその女の人も同調した、そしてすぐにかしこまって、「ああ、紅茶もどうぞ。」と丁寧に私に言った。 「はい、頂きます。」私もかしこまって答えた。 「あなた、お婆さんの知り合いじゃないよね?どうしてここへ?」 私はこの家の前でお婆さんに呼び止められ、家に寄っていくよう言われた事とその後お婆さんが奇妙なことを言い出した事をその女の人に説明した。 「ああ、大丈夫よ。お婆ちゃんね、たまにというか、しょっちゅうなんだけど、ちょっとおかしくなるの。認知症が始まっているのかもね。でも、家に人を招いたのはあなたが初めてじゃないかな?」そこで女の人は紅茶を一口飲んだ。 「ところで、昨日は聞かなかったけど、なんであんな所にいたの?あそこにいたのは昨日が初めて?それとも、しょっちゅうあそこにいて、遊んでいたとか。」女の人は何だかとても楽しそうに私に聞いてきた。 私は一昨日初めて黒猫に誘われてあそこへ行ったこと、その時落とし物をして、昨日はそれを探しにもう一度あそこに行ったことを簡単に説明した。 「ああ、私もみたことがある、きっとあの黒猫ね。」 「あそこに住んでいるんだと思うんです。」 「あの猫、欲しいの?」 「あ、そういう訳ではないです。ただ、見ていたかっただけ。」 「ふーん。そうだ、名前は?」 「名前はポー。」 「えっ、変わっているね。歩央?」 「はい、黒猫だから。私がつけたんです。」 「ああ、黒猫ね。私の言い方が悪かった。こう聞くべきだった、あなたの名前は? 私の名前は信濃。石見信濃。」 「しなの? 備前とか肥後とか昔の国の信濃?」 「へえ、良く知っているね。そう。父親がね、そういうの好きで。私の姉の名前なんて、甲斐っていうのよ。あれ、信濃より甲斐の方がかっこいいかな?ま、どっちもどっちか。ただ、私達いつも苗字とまちがわれるんだよね、信濃と甲斐じゃね。ああそうだ、あなたの名前は?」 「沙知子、高遠沙知子です。」 「ふーん、じゃ、さっちゃんって呼ぼうっと。」 「あの、私は何て呼んだらいいんでしょう?」 「お姉さんでもいいし、信濃さんでもいいし、うーん、何でもいいよ。」 「じゃあ、信濃さん。あの、」私が昨日の男の人達は知り合いなのか聞こうとした時だった。部屋の扉が開いて、背の高い男の人が入ってきた。 「あれ、お客さん?」入ってきた男の人が信濃さんに聞いた。 「ああ、西村さん。」と信濃さんはそう言ってから、私の方に顔を向けて、「あ、さっちゃん、この人は西村さん、本館の庭師さん。」と言い、今度は西村さんの方を向いて、「この娘はね、さっちゃん。またお婆ちゃんがね。」と言いながら困った顔をした。そしてまた私の方へ顔を向けてから、「西村さんが昨日のぼやを通報したの。そこで倒れていた人を見つけて救急車を呼んだのも西村さんよ。」 「あの、死体を見たんですか?」私は聞いた。 「男の人が倒れていたから、救急車を呼んだんだ、それと警察もね。」 「その人、この家の人なんですか?」 「違うよ、どうして?」 「その人私が昨日見た人かなって。」 「昨日見た?」西村さんは不審そうな顔をして信濃さんを見た。 「ああ、昨日ね、昼間に私達、あの男二人を見かけたの。」と信濃さん。 「へぇ。昨日の昼ね。あっしまった、ちょっと本館の用事手伝ってくれない?昨日のお昼に本館の家政婦さんに言われていたんだ。今すぐ行った方がいいな、俺、先に行っているわ、道具取りに行くからホールで待っている。」と西村さんはそう言い終わらないうちに立ち上がって部屋を出て行こうとして、思い出した様に振り返った。 「ああ、またね、ええと、みっちゃん。」と私に向かって手を振ってから部屋を出た。 「後でさっちゃんだって訂正しておくわ。」と信濃さんはそう言って、続けて、「さて、ごめん、さっちゃん、私そろそろ仕事に戻らないと。」 「あ、はいぃぃぃ。こほっ。」お菓子を頬張っていたので、むせてしまった。急いで紅茶を飲む。もっと聞きたいことがあったのに、と思いながら。 「大丈夫? 焦らなくていいからね。」と信濃さん。 「あ、はい。」私は小さく頷きながら言った。 「門の所まで一緒に行こう。あのさ、良かったら明日も来なよ。もしかしたら、お婆ちゃんも覚えているかもしれないし、覚えてなくても思い出すかもしれないしね。それに」それから信濃さんは私の目を見て、「私も会いたいしね。」と言って笑った。 建物の外に出ると信濃さんは、忘れ物を取りに戻って行った。私はもう一度挨拶をしてから帰ろうと門の外で待っていると、 「おい、」と後ろから声をかけられた。 「お前の家こっちじゃ ないだろ。」私が振り返るとクラスの男子の一人がいた。 「お前、この辺の家の子じゃないだろう。」とその子はもう一度言った。 「え?ああ。」何でこの子がこんなことを聞くのかわからず私が答えた。その時突然、何時の間にか来た信濃さんの声が後ろから聞こえた。 「君、あの車に乗ってここまで来た?」とその子に向かって、道路の反対側を指差しながら尋ねた。信濃さんが指差した先には白い車が止まっていた。 「は?あんた誰?何言ってんの?車って何?俺は歩いてきたんだ、俺の家はここからそんなに遠くない。」 「あの車、君の知り合いじゃないんだね。」信濃さんは念を推すように聞いた。 「知らないって言ってるだろ。」その子は吐き捨てるように言って、私の方を見た。 「お前、遠回りして学校に来てるだろう。今朝、お前を見たぞ。それで今、帰りもこうやってここ通って遠回りしてやがる。」 「やがる…?それで?」私は何が何だか分からない。 「明日先生に言ってやるからな。」それだけ言うと、とっとと向きを変えて行ってしまった。私達は少しの間呆然としていたが、 「何だ、ありゃ?」と信濃さんが驚いて言った。 「クラスの子。いつもは私のことを無視しているんだけど。」 「ん?無視?」 「あ、いえ、あの。」私は答えられずごまかしたが、信濃さんは何か他のことに気を取られているようで、それ以上は聞かなかった。その代わりに 「あの車、昨日もあそこにいたよね。」とボソッと呟いた。それから私の顔を見て「まあ、何かあったら言い来なよね。何か力になれるかも知れないから。」と言った。 「はあ…。」私はちょっと不思議な感じがした。 「明日もおいでよ。」そう言って信濃さんは門を閉じて本館の方へと向かった。私はそれを目で追ってから歩き出そうとした時、その門の辺りから視線を感じた。 「ポー。」私が声に出して言うと、ポーは信濃さんを追いかけるようにゆっくりと歩き出した。ポーはいつの間にいたんだろう、本当に不思議な所だと思いながら歩き出した。 四 黒い人影 (火曜日の出来事) あの空き家で男の人が何かを隠していたのが、それを見た時からずっと気になっていた。空き家で見たうちの男の一人が誰かに殺されたと知ってからは尚更、気になって仕方がない。私が拾ったあれはその男の人の物だし、もう一人の男の人が隠した物が何であったのかも気になって、おまけに落とした消しゴムは見つからないし、で、昨晩は変な夢を見た。黒猫が出て来たと思ったら、山川さんと信濃さんがあの空き家の男の人達から逃げている変な夢。 『あーもうこうなると自分で確かめるしかあるまい』、と私は決心した。今から、朝の早いうちに起きて出して、あそこへ行ってみよう、そして何だか確かめてみよう、そう思った。ただもう警察の人がそれを持ち去ってしまっているのではないのだろうか、という懸念はあったのだが。とにかく、気になって仕方がないので、行ってみることにした。   というわけで、まだ薄暗かったけれどもお母さんに気づかれずに家を抜け出し、空き家に向かった。一生懸命走って、気がつくと空き家の門の前に着いていた。黄色いテープが貼られていたのでどうしようかと一瞬迷ったけれど、ええい、とテープをくぐり抜け、門の中に滑り込んだ。走ってあの中庭に出る。あの若者が床下に何かを隠した部屋のガラス戸と障子は開け放されていた。開け放された縁側から部屋に入り、奥まで進んで、あの男の人が持ち上げた床の間の板を見つけた。すぐに持ち上げようとしたが、何かがひっかかっているようで持ち上がらない。おかしいな、と思い、もう一度その板を持ち上げようとするが、やはり持ち上がらない。変だな、あの男の人は軽々と持ち上げていたように見えたのに、この板じゃないのかな、と隣の板を持ち上げようとしたが、びくともしない。いや、やっぱり絶対にさっきの板だ、少々遠くから見たからって、位置は間違えないだろう。そこでもう一度最初に触った板を引っ張るが、持ち上がりそうではあるが、何かが引っかかっている。そこでその板を真っ直ぐ押すようにして少しずらして持ち上げると、今度は楽に手前の端が持ち上がった。中を覗いてみたが何も見当たらない。そこで、携帯電話で照らして下の方を見たが、何もなかった。 「まあ、そうだよね。」 中は広くないので何かあればすぐにわかるはずだ。私はその場に座り込んで、ちょっとがっかりしたが、『やっぱり』という気もした。警察が調べて何かあれば当然持っていってしまっているだろう、何も残っていないのは当たり前だ。まだあの道具箱の中身が気にはなるが、無い物は仕方がない。さて、お母さんに気づかれる前に帰らなきゃ。そうだ、その前に消しゴムをもう一度探してみよう。板を元に戻して立ち上がると、縁側から庭の方に降り立った。その時、今いた部屋の隣の部屋から、カタカタと物音がした。私は急に怖くなった。見られてはまずいと思うより、何か異様なものがそこにいそうな気がしたのだ。咄嗟(とっさ)に庭のあの大石の方へ走った。後ろの方で障子が開く音が微かに聞こえたが、構わず走って石の後ろに隠れると、私が今までいた部屋の隣の部屋の庄司が僅かにすっと開いて、顔だけがそこから出てきたのが見えた。一瞬、明け方のまだ薄暗い庭から、障子が開いて、頭だけ宙に浮かんでいるように見えたのだ。 「ひいっ、」 小さな声を上げて『しまった』と思った。その宙に浮いた顔だけがこちらの方を向く。あまりの怖さに石の裏から昨日信濃さんが私を連れて走った庭の端の小径の方へ、さらにその小径を空き家の裏の方へと走った。怖くて後ろを振り返ることができないが、誰か走って追いかけてきていることに間違いはなかった。そのまま裏の小径を進んで行って昨日の裏木戸を勢いよく開けて表に出ると、その戸を閉めてからあの獣道を道路に向かって必死で走った。道路に出ると、脇の塀に身を隠して、今通った獣道を恐る恐る見た。裏木戸の辺りに黒っぽい服を着た人が立ってこちらを見ているのがわかった。私は怖くなって止まらずに走り続け、やっとの思いで家に辿り着いた。 玄関の扉を開くと、今度はそこに仁王立ちの母がいた。これは別の意味で怖い。こっそり入ったつもりだったが、鍵を開ける音が聞こえてしまったのだろう。母はただでも朝それほど機嫌がいい方ではな 「どこに行っていたの?」 「ちょっと、運動、走ってきた。」息を切らしながら応えた。 「こんな早い時間に走りに行くことないでしょ。」 「でも、早く目が覚めて。」 「早く目が覚めたら勉強でもしていなさい。」 「でも、ちょっと走りたくなっちゃって。」 「もう少し明るくなってから走ればいいじゃない。」 「もう明るいってば。」母はふともう外は十分明るいのかと悩んだのだ。 「とにかく、今よりもう少し明るくなってから走りに行きなさい。」 「はいはい。お母さん、もう少し寝れば? まだちょっと早いから。」 と言って、しまったと思った。 「やっぱりまだ早いんじゃない。」 「明るいのと早いのは別だよ。早く、もう少し寝てきなって。」 「そうする。けど、ちょっとだけだからね。」 「そうそう。」   母が部屋に戻るのと私が自分の部屋に戻るのはほとんど同時だったろう。私は部屋のド アを閉めるとへたへたと座り込んだ。『あー、怖かった。でもなんであの人、私を追いかけてきたんだろう?』 それからベッドの上で横になってさらに考えた。 『あの人、何であんな所にいたのだろう?もしかすると、この前あの空き家の中にいた 人のうちの一人かな。』などと悶々と考えているうちにとうとう眠気がやってきた。そしてその頃丁度、起床時間になって仕方なく起き出して台所へ行くと、お母さんはもう朝食を作り終え、テーブルに持って行く所だった。 「あら、もう支度したの。」 「今日も早く学校へ行こうかな、と思って。」 「どうしたの、急に何かやる気になった?沙知が二日連続で早起きするなんて、気持ち悪いわ。何かあるんじゃないでしょうね?」 「別に、今日も朝、図書室に行こうかなって。」 「また?本は家でも読めると思うわよ。」 「でも、早く学校に着けば、遅れることもないしね。」 「それもそうね。でも、本当に何にもないの?」 「うん、何にもないよ。」お母さんは前より過保護になった気がする。「ご飯は食べてから行くよ。」 「当たり前でしょ。ほら、」とお母さんはお皿を私の方へ近づけた。 テレビをつけていつものようにニュースを見ていると、昨日の空き家の事件の続きをやっていた。 『昨夜亡くなった遺体の身元が判明しました。…。警察は殺人も視野に入れて、現在調査中です。』 「行ってきます。」 「もう、食べたの?」 「うん、全部。」 「もっとゆっくり食べなさい。」 「また今度ね。歯を磨いて行くから。」 「気を付けるのよ。」 「はーい。」 暫くして、私は家を出た。 つい何時間か前に誰かに追いかけられたばかりなのにまたあの空き家の前を通っている。あれは怖かったなあ、けれど、気になって仕方がなかったのだ。今朝のことを考えていて、あの消しゴムのことを忘れていたことを思い出した。しかしあの時はもう消しゴムを探すどころではなかった。いったい誰だったんだろう。 考えながら歩いていると、もうあの空き家の近くまで来ていた。空き家の前を通ったからって何があるわけでもないのだけれど。もしかして、私を追いかけてきた謎の 人物もその辺りにいるかも知れない、と思って遠回りしてみたのだった。そして空き家を、お屋敷を通り越して歩いていた時、誰かに後ろから声をかけられた。 「お前、何でこの道通るんだ?」不意に声をかけられたので一瞬驚いたが、同じクラスの腰巾着二号だった。勿論、この子は立花グループの一員である。私は面倒臭いので聞かなかったことにしよう、と黙々と歩いていると、 「おい、お前、この道遠回りだろ。ちゃんと通学路歩けよ。」 「…。」私のことを無視するくせに、話しかけてくるとはなんて都合がいいんだろう。 「おい、聞いてるのかよ。」ついに相手は私の前に出て、通せんぼをした。私は構わず避けて通った。すると相手は怒りだし、 「おい、そんな態度でいいと思っているのか?先生に遠回りのこと言ってやるからな。 そしたら絶対、怒られるぞ。」 そうかなあ、などと心の中で思ったが、相変わらず何も言わずに歩いた。 「何だよ、無視しやがってー。」と言うと、その子は学校の方へ向かって走りだした。 学校に着くとまず真っ直ぐ図書室へ行った。遠回りして学校に来ているので、それほど早い時間に学校に着くわけではない。ただ、先週までは時間ぎりぎり、朝礼に間に合うように学校に来ていたので、それに比べたら少し早い時間と言えると思う。すると丁度、山川さんが図書室から出て来るところだった。 「おはよう。」山川さんは私にそう言うと、手に持っていた本を私に見せて、「借りたんだ。」と笑顔で言った。 私は山川さんが屈託のない顔をみて驚きを隠せなかった。私は山川さんが、私が考えていた様な事なんてまるで気にしていないので、何だか私の方が恥ずかしくなった。 「あ、その本。」 「もともと何時かこの本借りるつもりでいたんだ。今日こそって感じかな。じゃ。」と笑顔で行ってしまった。 図書室に入るとすぐ、「あいつ、山川と仲がいいのか?」と腰巾着一号が誰かに聞いている声が聞こえた。聞かれた方は「知らない。」と答えて二人とも図書室を出て行った が、私は、これで山川さんまで虐められないといいんだけど、とやはり心配になる。とにかく早く本を返して教室に行こうと思い、急いで事を済ませた。教室に行くと、「あいつ遠回りして学校に来てるんだぞ。」と今度は腰巾着二号の声が 耳に入って来る。「帰りも遠回りしてるんだ。」 「どうりで最近帰りに見なかったわけだ。」腰巾着二号の横にいた、腰巾着一号が 言った。そして何やら小声でこそこそと話し始めた。何か悪巧みを考えているんだろうな、と私が考えていると、先生がやって来て朝礼が始まった。 「先生、高遠さん、通学路じゃない道を通ってます。」始まってすぐ腰巾着二号が手を上げて発言する。「それっていけないと思います。」 「ああ、そうだったかな?ただ生徒の都合にもよる。」先生は至極冷静だ。「はい、 じゃ、通学路を通って下さい。他には?」 「はい、学校の帰りに知り合いの人の家に行くのはいいですか?」私は手を上げてから、立ち上がって先生に尋ねた。 「いいと思いますよ。はい、他は?」 「知り合い人なんていないだろう?」腰巾着二号は私に向かって言う。   「います。」私は答えた。 「はいはい、勝手に喋らないで。学校の帰りに塾に行く生徒もいれば、知り合いの人に 会いに行く生徒もいるの、両親が了解していればいいんです。次。」 その後は特に何もなく、朝礼は終わり授業に入った。腰巾着二号はまだ何かいいたそう な顔をしていたが、周囲の皆が授業に集中し始めると、次第にそちらに関心が移っていったらしい。 その後の授業中も休み時間も何ごともなく過ぎて行った。ただ学校の帰り際に、立花グループが何やらひそひそとやり始め、腰巾着一号二号がちらちらとこちらを見ていたのが 気になった。だがすぐに皆、帰ってしまって、私が図書室から出てくる頃にはほとんどの 生徒が帰るか校庭や体育館で遊んでいるかのどちらかであり、教室に残っている子供たちは少なかった。 私は何時もとほぼ同じ時間に学校を出ると空き家の方へ向かった。このところ本当に天気が良く、本当に晴れ晴れとして、日の光が様々なものに反射しているかの様に輝いて見える。木々の緑や家々の色などをもっと楽しめるだろう。この夏の終わりの茹だるような暑ささえなければ、そして何よりも学校さえなければ、こんな普通の道を歩く時でさえ、 木々の緑や家々の色などをもっと楽しめるだろう、もっと素晴らしく見えるかも知れない。だが学校も、もう半年の辛抱だ、約半年、いや土日や冬休み、春休みを入れれば学校へ行く時間はもっとずっと短いはずだ。とにかくこの半年を乗り切るんだ、そうすれば何 とかなるかもしれない。そう自分を鼓舞して歩いていると、いつの間にかもうその角を曲がればお屋敷の門が見える所までやってきていた。するとその角から腰巾着二が現れたのだ。だが私を見るなり踵を返し戻って行くので、すぐにまた私の視界からは一旦消えた。そう、私がその角を曲がると、腰巾着二が、そしてその向こうの空き家の前あたりには立花グループが、こちらにやって来ているのが見えた。私たちはお屋敷の門のあたりで丁度鉢合わせすることになった。 「おい、親戚ってどこにいるんだよ。」腰巾着一号が言う。 「親戚がいるなんて言ってない。」と私。 「何でこの道通っているの?」と小室亜里沙。 「通りたいから。」私が答える。 「知り合いなんて嘘なんだろ。」と腰巾着二号。 「嘘じゃないもん。」 「じゃあ、一体どこにいるんだよ。」 「…。」 「やっぱり、いないんだ。」 「いるもん。」私は小さい声で反論した。 「どこの家?」これは立花雪菜。 「…言わない。」 「絶対、嘘だった。」 私は手をお屋敷の方に伸ばして、この家、と言おうとしていた。その時、 「さっちゃん? 何しているの?」信濃さんが門から駆け出してきたのだ。 「信濃さん?」 「ああ、そっちに黒猫行かなかった?」 「は? 黒猫?」 「そうそう、あなたの黒猫。」 「私の…黒猫?」 「あなたの言っていた黒猫のポーこと。」 「えっ、ポー、何処に?」 「だから、探しているの、そっちに行かなかった?」 「いいえ…。」 「ああ、もう少しで捕まえられるところだったのに。」 「捕まえる?」 「そう、あそこに住んでいるならね。色々面倒見てあげないと。」 「ああ、そういう。」 「おーい、見つけたかい?」今度は西村さんの声がしたと思ったら、信濃さんの後ろから、当の本人が現れた。 「あれ、どうしたの、大勢で? 遊びに来たの? さっちゃんの友達?」 子供たちは皆、顔を見合わせてどう言ったものかと考え始めた。 「違うんです。この辺に幽霊屋敷があるって言うから、見にきただけです。」 立花さんが言った。 「幽霊屋敷? なんだそりゃ?」と西村さんが信濃さんの顔を見た。 「さあ、知らない。さっちゃん、寄ってくでしょ?」とお屋敷を指さして信濃さんが言う。 「あ、はい。」私は西村さんと信濃さんの後について行き、あの八角の館の前の門の中へと入った。その間数人の子供達は呆気に取られた顔をして、私が館へ入って行くのを何も言わずに見ているだけだった。 館に入ると私はほっとして、救われたというのが顔にでたのか、信濃さんに笑われた。 「今すごくリラックスした感じ。さっきは顔が凍りついていたよ。」 「えっ。」私は自分の顔を両手で触ってみた。 「ははは、自分じゃ見えないもんね。」信濃さんは面白そうに言った。 「何?どうしたの?」後から来た西村さんが尋ねた。 「さっちゃんがね、あの子供達に虐められて困っていたって話。」 「何で虐められているってわかったんですか?」 「いや、半分冗談のつもりだった。でも、見ていたらそんな感じだったから。」 「何時から見ていたんですか?」 「最初から。」 「最初?」 「さっちゃんがこの家の前についたあたりから。」 「どこで見ていたんですか?」 「ここの屋根裏で。」信濃さんは人差し指を立てて上の方を指し示した。「ちなみに声も 聞こえた。窓開けていたからね。換気のために。」 「じゃあ、黒猫の話は嘘だったんですか?」 「いいえ、もともと上階に上がった時、塀の上に黒猫が見えたから。そしたらさっちゃん達が来て。それでその塀の上の黒猫が急に動き出したから、急いで階段を駆け降りて、追いかけようとしたんだけど、そしたらさっちゃんの前に私が現れたってわけ。本当に黒猫見なかった?」 「ええ、多分、でも塀の方は誰も見ていなかったから。」 「そうか、黒猫があの空き家に住んでいるならいいんだけど。」 「えっ、いいんですか?」 「だって、ねずみとってくれるかも知れないでしょ。」 「えっ、ねずみって…。」 「そう、あのねずみ。」 「いるんですか?あの空き家に?」 「西村さんが見たって。」 ここで初めて西村さんが声を発した。 「ああ、多分ね。でも、違うかな。ねずみじゃなかったらもぐらかな?」 「は?も、もぐら?」私は西村さんに聞いた。 「ああ、暗かったからね、良く見えなかったんだよ。」と西村さん。「と、こんな所で油売っている暇はなかった。じゃ、乾電池ここに置いていくよ。」 「ああ、ありがとうございます。」 「じゃあ、瀧さんによろしく。」 「はい。」と信濃さんが言うと、西村さんは外に出て行った。 「それで?」信濃さんは私に向き直って聞いた。 「それで。」私は鸚鵡返しに言った。 「それで? あの子供達は誰?」 「あの子達は…普段は私を無視している人です。」 「友達と喧嘩した?」 「友達じゃありません。」 「そうか、そりゃ良かった。」 「何が?」 「友達じゃない子から無視されてもそれほど影響はないんじゃない。」 「そう…なんですか? そうなのかな?」 「だって、そりゃ友達だったら大変だけど、友達じゃなきゃどうだっていいわけだから。 友達じゃないってわかっているなら話は早い、良かったじゃん。」 「それは、そう…何ですかね?でも、無視されているとなると、ちょっと。」 「そうかねえ?まあ、学校だと最低限は喋らないといけないか。でも理由もなく無視する人と喋る価値なんてある?それとも、さっちゃんが何かとても酷いことを誰かにしたとか。」 「そんなこと、」とつい大声になってしまったことに気付いて「ありません。」と小さい声で言った。 「そう。で、何で無視されているの?」 「特に思い当たる事がない…です。四月に転入した頃はそんなことなかったし、それが一学期の終わり頃、何だか急に。」 「その頃何か行事があった?」 「いいえ、学校のテストがあったくらいで、あと、塾のテストと。」 「テストでいい点取ったからって言うんじゃないの?」 「えっ。」 「テストの結果は?ほら、さっちゃんの方があの子達より点数が良かったからじゃないの?」 「私はいつも大体同じ。いつも悪くはないけれど。他の人の成績は知らないからなあ。」 「そうだねえ、でも何となく判るんじゃない?塾だってさ、成績くらい、何となく。塾ねえ、塾って皆同じ塾なの?」 「はい、私は転入する前からその塾に通っていて、たまたま皆同じ塾だったんです。塾に行く曜日は違うので、塾で会うことはないんですが。」 「じゃあ、やっぱりその辺が原因じゃないの?ま、良かったじゃない、その子達が他人を虐めるような人だって早めに判って。そういう人とはこっちから少し距離を置いた方がいい。」 「虐められたことあるんですか?」 「うーん、まあ、どんな人でも一度くらいは軽いパンチを喰らっているものなのかもよ。 それで、だんだんわかってくるんじゃない? 仲良くなる人と、もうさようならって訣別する人と無意識で選別しているのかもね。ほら、『君子危に近寄らず』って言うでしょ。」 「でも、なかなかそんな訳にも…。」 「そう?まあ、そうか。でもさ、今十二、三歳になるんだよね。もう善悪区別はある程度ついていないといけないし、基本的な部分で自分がどういう人間になりたいのか、どういう人間でありたいのか、わかってないと。携帯電話でずーっと他人の悪口書いている人間になりたいのか、そういうことは絶対にしない人間になりたいのか。」 「人を傷つけたり、悪いことをしたり、そういう人間でいたいか、他人を思いやる心を持った人間でいたいか、とか?」 「そう、それでいいのか自分の頭で考えられる人間。思いやりのある人間には段々そういう人間が集まって来るもんだよ。きっと。」 「それまで待つ?」 「それまで努力する。ところで、結局何であの子供達あそこにいたの?」 「私が遠回りして学校に行き来しているって。この辺りに私の知り合いがいるって言ったら、そんなの嘘だって。」 「それだけ?」 「はい。」 「ふーん、じゃあもうその件は大丈夫ね。今日皆、さっちゃんの知り合いに会たわけだから。」 「あの、すみません、知り合いだなんて言っちゃって。」 「知り合いだからいいんじゃない?名前だって知っているし。一緒にお菓子も食べているし。」 「昨日も思ったんですけど、これ本当に美味しいですね。」 「瀧さんが全部作ったんだよ。けど、瀧さんちょっと前にぎっくり腰やっちゃってね。今お休み中。で、西村さんが何かと助けてくれているってわけ。西村さんは、本当は本館の庭師なんだけど。今は便利屋かな。」 「西村さんが見つけたんですよね、あそこで殺された人。」 「そう、瀧さんがぎっくり腰やっちゃってから、西村さんと私が少し遅くまで残っていることにしたんだよね。あの日は私がここに泊まることになって、西村さんが夜遅く帰ることになってね。それでそこの門を出ると、空き家から誰か出てくる人がいたから気になって入っていったら、ぼんやり明るい火が見えて来て、奥まで見にいったらしいんだ。そしたら、火が出ていて、そばに人が倒れていたって。」 「その時誰か他の人を見たなんてことは?」 「警察の人にも聞かれたらしいけれど、空き家の中では誰も見てないって。西村さんの後、私もすぐにあそこに行ったのよ。それで火の始末や警察、消防、救急車呼んで」 「えっ。じゃあ、死んだ人見たんですか?」 「勿論、見たわよ。その前日に話した人だってことを警察も話した。」 「前から知っている人だったんですか?」 「知り合いってほどじゃないよね。ただ、この家の主人、昨日のお婆ちゃんね、時折『隣の空き家はうちのものだからね。』って言うし、瀧さんが私に時々様子見てきてって、黙ってあの家使用している人がいるらしいって誰かがが言うんでねって。それで見に行ったら、さっちゃんに会って、その後さっちゃんの見たあの人達に事情を聞いた。何でも改築する家を探しているから、今度きちんと見学させてくれだって。」 「それって本当だと思います?」 「うん、嘘だと思う。だって口から出まかせって感じだった。」 「それで、」 「それで、話は分かったけど、無許可でここに入らないで下さいって言っておいただけ。実際あの空き家が誰のものか今一良くわからないのよ、瀧さんによると。」 「持ち主が分からない?」 「三井さんは、あ、お婆ちゃんのことね、自分の家だって言っているけれどね。確かに以前は三井さんのものだったらしいんだけど、親戚に譲ったって言っていたこともあるって、瀧さんから聞いたこともあるし。まあ、恐らく三井さんの物だろうとは思うけれど、ほら、お婆ちゃん、たまにどこかに飛んでいっちゃうのよ、思考がね。」 「昨日、私も少しそう思いました。」 「そう、だんだん頻繁におかしなことを言うようになってきているって、瀧さんが言っていたっけ。お婆ちゃん、少しぼけてきたから、息子夫婦と娘に本館追い出されたって、こっちに移って来てまだ一年、二年、三年は経ってないと思う。」 「はあ。あの、それで、あの時あそこにいたあのもう一人の男の人はどこに?」 「さあ、警察にはそのことを話したから、調べていると思うけれど。」 「あの男の人、死んだ人の友達って感じだった。」 「ああ、高校と大学が同じなんだって。一緒に空き家を探しているとかで。随分とあの男にご執心ね、気になることでも?」 「いいえ。ただ、あの人達、喧嘩していたように見えたから。」 「そう言えば、そうだね。まあ、警察が捜査しているから、そのうちに解決するでしょう。 他にも何かあるの?何か見た?」 「ああ、あの、その、あそこで落とし物を探していたって昨日言ったのですが、その、見つからなくて…。一昨日信濃さんに会った時、それを探していたのですけれど、無かったんです、あそこに。」 「そう言えば、昨日聞かなかったものね、そのこと。で、何を落としたの?」 「消しゴムなんです。表と裏に『ばか』って大きく書いてあるやつ。」恥ずかしくて顔が熱く なっているのがわかる。きっと今自分は真っ赤な顔をしているのだろう。 「あー、」信濃さんはわかったという顔をして言う、「あいつらに書かれたんだ。」 「はい。」私は小さく頷いた。 「それが見つからなかったの?」信濃さんは怪訝そうな顔つきを見せた。 「はい、確かにあそこに落としたんです。」 「それが、無くなっていた、か。じゃあ、明日一緒に見に行こうか?」 「いいんですか?」 「いいんじゃないかな?ま、明日もおいで。」 「はい。ありがとうございます。」 信濃さんは『瀧さん』の作ってくれた焼き菓子を少し持たせてくれた。私が外に出ると待っていたかのように黒猫がそこにいた。私は嬉しくなって近寄って触ろうとすると、黒猫はすっと逃げて、お屋敷の主屋の方へと行ってしまった。絶対に触らせてはくれないんだな、と思った。 五 白い車 (水曜日の出来事) 昨日、信濃さんに話したことで少しだけ気が軽くなった私は、今日学校でそんなに沈まなくて済んだ。昨日のことで本当にあそこに知り合いがいると知った腰巾着二号はもう先生に色々言わなくなったし、その仲間たちも今日は何も言ってこなかった。ただ無視されていることには変わりはないと思うけれども、こちらから話しかけることもないので、何が何だかわからない。けれども今日は何も無かったからとても平和な日で、さて、これで信濃さんに会って話せれば、そんなに悪い日ではないって言えるだろう。信濃さんに会うのが少し楽しみになってきている事が、何か不思議であった。まだ信濃さんを信じ切っているわけではないのに、今日も会えると思うと沈んでいる心も浮いてくるのだ。こんなことを考えながら歩いていると丁度、昨日腰巾着二号を見た所までやって来ているのに気付いた。もうすぐお屋敷だと思って歩いていると、いつの間にか後ろから白い車がやって来るのに気がついた。私は道の端の方を歩いてはいたけれど、車道から遠ざかろうとさらに歩道の端の方へ進んだ。すると、その瞬間、白い車は急に速度をあげて私の方へ向かって突進してきたのだ、びっくりした私はそのまま走り出したが、その車は白線の内側、歩道の中を私 めがけて追いかけてくる。しかし私はすぐに右に曲がってお屋敷の門に面した通りにで た。そこはガードレールがあるので、歩道の中まで車は入って来られない。白い車は右に曲がるために手間取っていたが、右に曲がると、すぐにゆっくり私の後を走り始めた。私は また走り始めた。ガードレールは途中途切れていてそこに車が乗り込んで来るが、私はそれをぎりぎり避けて走る。またガードレールがある所まで来たが、私は走るのを止め無かった。車は少しだけ後ろに下がって、また前進し始めていた。空き家を通り過ぎて右に曲がって、私はしまったと思った。この歩道にはガードレールが無いのだ。そのまま走りながら、 『あの白い車がついて来ませんように』 と祈ったが、やはり白い車も右に曲がって私の後を追ってくるのがわかる。歩道の一番内側を走っているが、白い車もそこを走って追ってくる。もう後ろを振り向いている暇がない、 『このままだと轢かれちゃう。もう駄目だ、』 そう思った時に目に入ったのがあの細い、信濃さんが私を空き家から連れ出した時に通った 草ぼうぼうの獣道だった。私はその獣道の草の中に向かって飛び込んだ。白い車がすごい 勢いで走り去るのが塀と塀の間から見えた。 『はあー、間一髪』 少しの間まるで凍った人のように動かずにその場にじっとしていた。車から降りて追いかけてくるようなことはなさそうだった。やがて私はふぅ、と大きく一息ついた。立ち上がろうとして、ふと後ろから視線を感じ、恐る恐る振り返って 『ぎゃっ』と声を上げた。何か黒いものが上から降ってきたのだ。そしてそれは私の前に降り立って、じっと私を見上げた。 「なんだ、ポー、脅かさないでよ。」ポーは先に立ってあの裏木戸に向かって進み始めた。 私はポーについて行った。相変わらず草はぼうぼうだけれど、前と同じ様に誰かが通った 跡はうっすら認められるのだ。ゆっくり歩いて裏木戸に着くと、辺りを見回してから、そうっと裏木戸を押し開けて中に入る。誰もいませんように、と心の中で祈りながら、空き家の裏からあの庭に出た。またあの石の後ろでしゃがんだその時、門の方へ歩いて行く人の後ろ姿が見えた。 『あれ、西村さんだよね。』 後ろから見ているから自信はないが、西村さんのような気がする。私は一瞬、あの白い車を運転して私を轢き殺そうとしていたのが西村さんで、私にとどめをさそうとこの空き家に来たのではないかなどと考えてしまった。『そんなわけないよね。』と思いながら、西村さん、ここで何していたんだろう?と思った。 今度こそ、誰もいないようだ。どうしよう、信濃さんはいないけれど、また床の間を調べてみようかと石の後ろから出ようとした時、またあの障子が開く音がし た。石の後ろでしゃがんで見ていると、前と同様、頭がぬっと出てきて隣の部屋を見て、誰もいないことを確かめると、頭を引っ込め障子を閉めた。あの人は一体あそこで何をしているんだろう。すると今度はその男が廊下からあの障子が開いたままの部屋に現れた。 『あの人、死んだ男の人と言い争っていた人だ。』と思った。その人があの床の間の板を開けて、中から あの道具箱のような箱を取り出したのだ。私は驚いた。この前はなかったのに、一体どうして…。男は早速その箱を開けようとしたが、開かなかった様だ。今度はその男、そわそわし始めて自分の服を触ったりポケットに手をいれたり、何かを探している様子だ。探し物が無いと分かるとまたあの箱を開けようと試みたが、開かないと分かると、壁に向かってその箱を投げつけた。 離れたここから見ても、その男が怒っているのがわかる。『そうか、鍵を探していたのか。』と私は思った。だがあの人何で鍵を失くしちゃったんだろう。それに、あの道具箱を床の間の板の下に置いたのは誰だろう。鍵を持って行ったのは警察かも知れないけれど、あの箱は?警察があの箱を一旦持って行ってまたあそこに返しておいたのかな…、変なの。 あの箱を開けるのに、何か鍵がいるらしいことはわかった。私があそこに箱があったことを信濃さんに昨日話したから、信濃さんがあそこに箱をおいたのかな? まさか、信濃さんがあの男の人を殺したなんてことは…。もう何が何だかわからないや。だが、その後はもっと驚いたことに、今まで怒っていたあの男があの箱を拾ってまた元の位置に箱を置いたのだ。つまり、床の間の板の下に。あの箱は誰がどこから持って来たのか、ますます分からなくなった。 そんな中、男がずぼんの後ろのポケットに手を突っ込んで携帯電話を取り出して話し出した。私は退散することにして、静かに門の方へと向かおうとした。その前に石の下に目をやったが、やっぱり消しゴムは見当たらなかった。一体消しゴムは何処に行っちゃったんだろう?カラスにでも持っていかれたのかな?とにかくここを出よう、と門まで走った。 「わっ」と声を出してしまった。門の前には黒猫が座ってこっちを見ているのが見えたのだ。『遅いな、やっときたのか。』とでも言いたそうで、私がそこに着く前に今度は門を潜って外に出ていた。『早く来いよ。』と言わんばかりにちらちらとこちらを見てくる。私も急いで門を出てポーの後を着いて行く。ポーはお屋敷の方へ向かい、お屋敷の小さい方の門を潜って中に入って行ってしまった。私は潜るわけにもいかないので、呼び鈴を鳴らした。 信濃さんが 出てきて昨日の部屋へ通してくれた。信濃さんは今日も瀧さんの作ったお菓子と紅茶を出してくれた。瀧さんは随分と良くなって、少しずつ仕事を始めているということだった。私は今さっき白い車に追いかけられたことを信濃さんに話した。 「確実にさっちゃんを轢こうとしていたってことか。」 「そう思います。信濃さんがあの裏口の獣道を教えてくれていなかったら、きっと今頃ここにはいないと思います。」 「何でさっちゃんを狙ったんだろうね、さっちゃん、他にも私に話していないことある?」 私は実は土曜日にも空き家に行って、あの男の人達が争っているのを見たこと、殺された人が放り投げた何かをつい拾ってしまったことを放した。 「それで、これがあれです。その、つまりあの男の人が投げた黒い物。」と私はポケットからその黒い物を出して、信濃さんに渡した。 「それって、メモリーカードですよね。」 「そうね、なかを見た?」 「いいえ、見る気にもなれなくて。」 「まあ、殺されちゃった男の物だしね。」 「それ、さっきもそれを拾った所に置いて来ようと思って、忘れていたんです。そのあたりに落とした消しゴムはなかったし。あのもう一人の男の人がいたから、そこを静かに出て、こっちに来ました。」 「え、誰か空き家にいたの?」 「はい、あの人、あの時死んじゃった人と一緒にいた人だと思います。」 「やだ、さっちゃん、それを早く言ってよ。今から空き家に行くわ。」 「えっ」といいながらも、私は信濃さんの後を追っていた。 「だってその人怪しいでしょ。」そう言いながら信濃さんは靴を履き、今にも駆け出しそうだった。「あ、応援を呼んでおこう。」と歩きながら電話し始めた。どうやら西村さんにすぐ空き家に来てくれるよう頼んでいる様だった。 「あ、そう言えば、さっき空き家で西村さんを見た様な。あの男の人を見る前に。」 電話し終えた信濃さんに向かって私は言った。信濃さんはそれには「ふうん」と言ってから「西村さんすぐに来てくれるって。」と言った。 私達が門を抜けて空き家の庭までやって来ると、信濃さんは 「さっちゃんはここで待っていて、私は中の様子を見てくるから。」と、縁側から畳の部屋へ、おくの廊下へと入っていった。私は少しの間待っていたけれど、すぐに我慢しきれなくなって、信濃さんが入っていった縁側からあの畳の部屋に入った。そして、前にやった通り、床の間の板を少し押すようにして引き上げた。中に先程男見た道具箱のような箱、近くで見ると、小さな金庫のような箱があった。少し重かったけれど、私はそれを引き上げて、畳の上に置いた。そして床の間の板を戻し終えた時に、信濃さんがこの部屋に戻ってきた。 「この前と同じか。」こう呟きながら部屋に入って来た信濃さんは、私が道具箱と共に床の間の前にいたので、「わーっ」と驚いた。だがすぐに、私の後方に信濃さんの目線が行っているのに気付いた。丁度その時、縁側の方から誰かがやって来ていたのに気付いていなかった私は、背後に気配を感じて、怖くなって振り返ると、「ぎゃーっ」と声を上げてしまった。だが私はやって来たのが西村さんだと分かると、「あっ」と言って口に手をあてた。西村さんと信濃さんは笑いながら、 「ごめん、驚かせちゃった。」と西村さん。 「さっちゃんたら。」と信濃さん。二人がこう言ったのはほぼ同時だった。 「それ、見つけたんだね。」西村さんが私に言った。 「はい。」私は素直に返事をした。 「よし、じゃあ、これ持って戻ろうか。」と信濃さんが言った。 「持って行っちゃっていいんですか。」私は驚いて言った。 「さあ、どうだろうか。」信濃さんは少し考えているようだった。 「あの男の人これがここにあるって分かって少し驚いていたみたい。」私は床の間を指差しながら言った。「でも開かないってわかったら、怒って。」  私は試しにその箱を開けようとした。だがやはり開かなかった。箱の側面には鍵穴があった。 「やっぱり鍵がないと開かないんだ。」私が言った。 「その男、この金庫を見たのね?」信濃さんが私に聞いた。その声は普段より少し鋭いものだった。 「はい、それで開かないから怒って壁に投げつけて、それから元に戻したんです。」 「そうか。じゃあやっぱり元に戻しておいた方がいいか。そいつがまた取りに来るかもしれないし。」 気のせいか信濃さんは少し嬉しそうだった。この道具箱の様な箱は金庫なのだろうかと思いながら、私は床の間の板の下の元の位置に戻しておいた。私達は八角屋根のお婆ちゃん宅へ戻った。 信濃さんは飲みかけだった紅茶を淹れ替えた後、食べかけの菓子を口に入れながら私に言った。西村さんは本館の方へ戻ってしまっていた。 「もう他に私に言っていないことはない?」 これを聞いて私は笑ってしまった。まるで私のお母さんみたいだったから。これと全く同じ事を何度言われたことだろう。 「すみません、お母さんと同じこというから。」 「ああ。いいの、いいの。で、話していないことは?」とまた聞いた。 私は空き家で死体が発見された次の日の朝に空き家に行って、床の間の板の下に何もなかった事、その後誰かが私を追いかけて来た事を信濃さんに話した。 「まあ、あんまり危ないことに首を突っ込んじゃ駄目だよ。」 信濃さんは考え込みながらそう言った。 「そう言えば、お婆ちゃん、やっぱりさっちゃんのこと誰かと勘違いしているみたい。でもさっちゃんを見れば刺激になって、認知症の悪化が遅くなるかもって、瀧さんが言っていた。だから、明日もここに寄ってみて。」 私は少し嬉しくなって、「はい、また来ます」と大きな声で言った。 家に帰ってお母さんと食事をしながらニュースを見ていると、またあの家がテレビに 映った。お母さんはあのお屋敷がテレビに映ると何故だか機嫌を損ねる様だった。   「図書館はどうだった?」とお母さんは私に尋ねた。 「ああ、行かなかった。」私は小さい声で答えた。 「じゃあ、学校の後、何処に行ってきたの?」 私はお母さんにどう言おうか、そもそも空き家の件を言おうかどうか迷った。 「お母さん、谷町駅と学校の中間位に大きなお屋敷があるのを知っている? 今テレビに映っていたんだけれど。」 「ええ。」お母さんは少々面食らったようであった。 「その家の隣に空き家があるのを知っている?」 「ええ。」お母さんはまだ合点がいかぬという顔をしている。 「そこに黒猫がいてね。」 「ああ、駄目よ。ここでは猫は飼えないわ。」やっと納得顔でお母さんは私を見た。 「あ、そうじゃなくて…。その…その黒猫に会いにその空き家に行って…。」 「駄目じゃない、勝手に人に家に入ったりしちゃ。」 「だって、空き家だから、誰に入っていいか聞けばいいのか分からないじゃん。」 「そもそも、他人の家に断りなく入っちゃ駄目なの。」 「でも、入らないと猫が…。」 「だって、猫が行く所どこへでも付いて行くわけじゃあないでしょ。」 「そうだけど。」 「もう行っちゃ駄目よ。」 「…はい。でも猫がー。」私は消え入るような声で言った。 「猫は飼えないの。」 私は今日空き家で見たことや、そのことを お母さんに言えなかったこと、明日はまだ学校に行かなくちゃならないことなどを考えると、本当に落ち込んだ。そのためか、また夢にあの空き家が出てくる始末だった。   六 誘拐 (木曜日の出来事) 木曜日、学校が終わるとちょっと嬉しい。なぜなら多分、金曜日が過ぎてしまえば、つまりあと一日我慢すれば学校はお休みで、土曜日と日曜日、たとえ二日間であっても同じクラスの立花グループに会わずにすむ、という心理が働くからだろう。放課後、図書館に寄って、何を借りようかと見て回っていると、 「高遠さん。」と声をかけられた。山川さんだ。「今来たの?」 「うん。」私は答えた。立花グループが全員帰った頃を見計らって学校を出ようと思っていたのだ。 「私はこの本借りて帰るんだ。」と手に持っている本を見せてくれた。『南総里見八犬伝』と書いてある。 「これ、あの本、雨月物語の近くにあったでしょ。」私は言った。 「読んだことある?」山川さんに聞かれた。 「うん、面白いよ。」 「本当?わー楽しみだな。じゃ、また明日ね。」と言って、行ってしまった。 「またね。」と私は答えながら、山川さんの凄い所は自分の空間みたいな物を持っている所かなあ、などと考えていた。手当たり次第、本を手に取って、次は何を借りようかと思いながら少し時間を潰した。 この一週間というものずっと晴れていい天気で、今日も真っ青な空の下で白い雲を探したくなるような学校からの帰り道だった。 もう少しであの大きいお屋敷の門の前あたりに着くなぁ、と思ったその瞬間に、通りの脇道から子供たち四、五人が目の前に現れて、行く手を塞いでいる。『またか』と思い歩く速度を緩めたが、そのまま真っ直ぐあの娘たちの間を通り過ぎようと決めて足を早めた。『あの子達、今度は一体何だろう』と考えながらもうすぐその子達にすれ違う所まできた。その矢先に、あの白い車‐白のミニバンがこちらに向かって来るのが目に入った。子供達は私の方を見ているので、車を目にしてはいないが、音だけは聞こえていただろう。私は足を止めた。なぜならあの車が昨日私を轢こうとしていたあの白い車に見えたからだ。その車はすごい速さで子供達の所までやってきて、車を停めたと思ったら、一番私から遠くにいた女の子の体を掴んだ。 「えっ」とその女の子が声を上げた。 車から降りてきた人はその女の子‐あの『立花雪菜』を車に引き摺り込んだのだ。それはあっという間だった。皆、驚いて声を失っていた。白い車はそのまま走り去り、その後ろから黒い車が通り過ぎようとしていた。 「雪菜-。」走り去る車に向かって、雪菜のお供の小室亜里沙が叫んだ。 「おい、その黒い車-。頼むから前の白い車を追ってくれ-。」腰巾着はそう言いながら車を追って走り出した。腰巾着の腰巾着もそれに続いた。しかし白い車の後ろを走って言った黒い車の人にそんな声が聞こえるわけもなく、また二人が車に追いつけるはずもなく、白い車も黒い車もみるみる遠くへと走り去っていった。他の子供達は茫然自失といった感じで車の去った方を見ながら立ち尽くしていた。私は腰巾着が走り出したのと同じ頃に、腰巾着とは反対向きにお屋敷の方へ向かって走り出した。八角屋根の館の傍の門は空いていて、私はその中へ飛び込んで、人の声がする方へ向かった。と、丁度すぐそこに西村さんの庭仕事を手伝っていた信濃さんがいた。 「良かった。一緒に来て、子供が攫(さら)われたの。」私は言いながら信濃さんを引っ張って門の外まで連れ出した。「は?」と信濃さんは驚いていたが、とにかく一緒に子供たちのいる所まで一緒に来てくれた。その頃には腰巾着達が戻ってきて、子供達はみんなで警察に連絡して、結菜の家にも連絡しよう、などと相談し始めていた。信濃さんは子供達のそばまで来るとすぐに尋ねた。 「で、誰が連れて行かれたって?」 不意に鋭い声でそう聞かれて、子供達は黙った。だがすぐに、 「雪菜が連れていかれたんだ、白い車に無理やり乗せられて。」雪菜といつも一緒にいる亜里沙が答えた。 「白いミニバンだよ。よくテレビで宣伝している様な。」腰巾着一が付け加えた。 「車のナンバー見た子いない?覚えている子は?」信濃さんは携帯(スマホ)から警察に電話をかけながら子供たちに聞いた。 「ええと、あれ、ナンバーあったっけ?」もう一人の女の子が首を傾げながら言った。 「そういえば、なかったよな。」とこれは腰巾着二。 「ああ、隠してあったような? 何かで覆ってあった。」と腰巾着の腰巾着。 「どんな人が運転していたか見た人いる?」信濃さんは耳に電話を当てたまま尋ねた。 「女の人だったような気がする。」亜里沙が答えた。 「そう、髪が長かったよな。」今度は腰巾着一。 「何かその女の子を連れて行く理由を知っている子いない?」そう信濃さんが聞いた時に、どうやら電話がつながったらしい。信濃さんは警察の人と話し始めた。 「あいつの家、金持ちだから誘拐されたんじゃないの?」腰巾着の腰巾着が言った。 「でも、それなら晴翔のうちの方がお金持ちじゃん。」と亜里沙がすぐさま答えた。 「家の人に頼まれたんじゃない?今日早く帰ってきて欲しかったとか。」腰巾着がこう言ったが、「そんなわけないか。」と自分で言い消した。 「誰かと間違われたんじゃない?」亜里沙が考えながら言った。 「誰と?」と腰巾着二。 「晴翔と。」亜里沙が答える。腰巾着二の名前は晴翔だったっけ。 「雪菜は男の子に見えないけど?」ともう一人の女の子。確かこの子は絵里香ちゃんだった。 「晴翔が女の子だと思われていたんじゃない?」と笑いながら亜里沙が言った。 「おい、真面目に考えろよ。」腰巾着二-晴翔が少し怒った口調で言った。 「分かってる。」こう言って、亜里沙は真面目な顔をした。 「やっぱり誘拐だよ。ナンバープレート隠すなんて怪しい。」と腰巾着の腰巾着。 「そうだよな。」賛同する腰巾着一、腰巾着二。   私は、皆がこう話しているのをどこか遠くで聞いているようだった。昨日私を追いかけてきた車を思い出していたから。立花雪菜を連れ去った白い車は、確かに昨日のあの車にそっくりだった。もしかするとあの車は、本当は私を連れ去りたかったのではないだろうか?私と雪菜を間違えたのではないだろうか?でも私の家はお金持ちではないので誘拐される理由は無い。けれど、あの箱に関係していたら?あの死んだ人が隠した箱を探しているのだろうか? こんな風に考えを巡らせていたのだが、信濃さんの声で我に帰った。 「今からお巡りさんが来てくれるから、みんな、私に言ったこと、もう一度お巡りさんに説明してくれる?ああ、それからその子のご家族には連絡取れるかって。」 「あ、私、雪菜の家に電話してみます。」と亜里沙が携帯を手に取った。 「あ、絵里香、雪菜の携帯に電話してみる。」ともう一人の女の子の絵里香。 「ご家族には警察からも連絡が行くって。連れ去られた子の携帯鳴っている?」信濃さんが電話をしながらもう一人の女の子の絵里香に聞いた。 「うん、鳴ってはいるんだけど、出てくれない。」と絵里香。 「電話、鳴らし続けてくれる?」信濃さんが言った。 「うん。」絵里香はもう泣きそうになりながら電話をかけ続けた。 「雪菜の家、誰も電話出ない。」亜里沙の方は電話を諦めた。 信濃さんの方はというと、「あ、はい、お願いします。」そう言って電話を切ると、「今、お巡りさん来るから、ここで待っていて下さいって…それから…。」 信濃さんがそう言い終わらないうちに、遠くの方で携帯(スマホ)電話の呼び鈴が鳴っているのが微かに聞こえてきた。皆、各々の携帯電話を見るが、誰の電話も鳴ってはいなかった。だがその音はだんだんこちらに近づいて来て、そしてその音があの空き家の角から聞こえてきていることが分かった時、皆がそちらの方を向いて、信濃さんを除いた全員がびっくり仰天したのだった。 角を曲がって歩いて来た子は、特に取り乱した風でもなく、ただ普通に歩いて来るように見えた。皆は驚きを隠さずに、何が起こっているかわからないという感じで静かにその子に駆け寄って行った。 「雪菜? 大丈夫?」と亜里沙が声をかけると、 「うん、大丈夫、でも、何だったんだろう。いきなり車に乗せられてさ。それで、今度はいきなり車からあそこに降ろされた。」と雪菜は角の向こうを指差した。 「あれが車に連れ去られた子?」横にいた信濃さんが私に尋ねた。 「そう。」私は茫然としてそれだけ言った。皆、狐につままれたような感じだった。さっき連れ去られたと思ったら、もう帰って来たのだから。 「何かされなかった?」絵里香ちゃんが恐る恐る聞いた。 「名前と住所を言わされた。」雪菜が答える。 「それだけ?」これは腰巾着1。 「そう、パソコンの画面に向かって名前と住所言わされて、それで、終わり。」と雪菜。 「車に乗ってたいの、どんな人だった?」信濃さんが尋ねる。 「なんか、お面みたいなの被っていて、あのハロウィーンの時に被るような。でも、多分男の人だった気がする。声が男の人だった。」思い出しながら雪菜が答えた。 「何か言われた?」信濃さんがまた尋ねた。 「『名前と住所を言え』ってそれだけ。」と雪菜。 「あ、」と私が声を上げた。「お巡りさんだ。」角を曲がってこちらに向かってやってくるのはおそらく最寄りの交番のお巡りさんだろう。 「ここです。」と信濃さんがお巡りさんに手を振ってこちらに来てもらうように促した。 「何かあったの?」雪菜が小声で亜里沙に尋ねた。 「雪菜が誘拐されたの。じゃなくて、されたと思ったの。で、警察に連絡した。」亜里沙が小声で答えた。 「ああ、そうか。」雪菜は納得して、「そうだよね。」と呟いた。自分が車に無理やり乗せられ、連れ去られたことに今気が付いた様だった。 「ああ、すみません、この子が連れ去られた子なんですが…。」信濃さんは、雪菜の後ろまで来て、お巡りさんに連れ去られた子を示した。「今、戻って来たところで…。」 「はぁ?」きょとんとするお巡りさん。 「ええ、今しがた戻って来たんです。」と信濃さんは穏やかに話す。 「誘拐ではなかったのですかね?」とお巡りさん。 「ああ、いえ、あの辺りで、車で連れ去られたのですが、たった今、解放されたらしいんです。」 信濃さんはお巡りさんがやってきたあの空き家の角とは反対側を指差して言った。 「仮面を被った男に無理やり車に乗せられたそうです。そしてあの」反対側に向き直って空き家の角を指差しながら、「あの角の向こうで解放されたらしいです。車のナンバープレートは何かに覆われていたと子供達が。詳しくはこの子と子供達に聞いてください。」 「あなたは見ていないのですかね?」 「ええ、私はこの家で働いている者で、この子が車に連れ去られるところを直接見たわけではありません。車も見ていません。」 「では、この子達だけしかいなかったのですね。」 「ええ、そういうことになります。でも、この子達が嘘を言っているとは思えません。」 「だといいですが。とにかく、話を聞きましょう。」 お巡りさんは雪菜に話を聞き始めた。 「で、あの辺りで、無理やり車に乗せられたんだね?」お巡りさんがこう尋ね始めると、皆、雪菜の詳しい話を聞きたかったのか、近くに集まって耳を傾けていた。 「はい、ここで、白い仮面をつけた男の人に腕を掴まれて、気付いたら車に乗せられていました。」雪菜は思い出すように話始めた。 「その仮面の男はどんな男だった?背が高いとか太っているとか、訛っていたとか?」 「ああ、背が低くて痩せている方かな。訛ってはいなかったと思います。」 「知り合いの可能性は?知っている人のようだった?」 「ううん、知らない人だと思います。」 「それで、何か言われた?」お巡りさんは続けた。 「ええと、車が走り出すと、男が、『パソコンに向かって名前と住所を言え』って言われて。」 「それで?」 「それで、名前と住所を言いました。」 「パソコンの画面は何だった?」 「あ、私、自分が写っていました。」 「それから?」 「それから、車が少しの間止まって、仮面の男の人と運転していた人が外で話しているみたいでした。」 「運転していた人はどんな人?知っている人?男?女?」 「よく見えなかったんですけど、女の人のようでした。でも、二人ともすぐに車の中に戻ってきて、また車を走らせて、その後すぐにあの角で車を降ろされたの。」 「怖く無かった?」亜里沙が聞いた。 「全然怖く無かった。」 「スカウトだったんじゃない?」突然、絵里香が大きな声で口を挟んだ。 「スカウト?」お巡りさんは聞き返した。 「ほら雪菜が可愛いからスカウトの人が色々聞きたかったんだよ。」絵里香は続ける。 「そうだ、きっと来週あたり連絡してくるよ。」腰巾着も賛成した。 「やったー遂に結菜デビューするんじゃない?」と亜里沙。 「えーそんなことないよ。嫌だな。」そう言う雪菜もまんざらじゃない様子だ。 「雪菜にならスカウトきても不思議じゃないって。」と」絵里香。 「そんなことないって。」 「でもきたらどうする?」と亜里沙。 「えー来ないよ、やだ、どうしよう、やっぱり、スカウトだったのかな。」 「決まっているじゃん。」 「さっき、パソコンの画面に上手く映ってたかな、え、やだだってスカウトだなんて思わなかったから。どうしよう。」 「そのままで大丈夫。」 「じゃ、親御さん来たら被害届出すか相談するから、交番まで来るように言って。」呆れた交番のお巡りさんはこう言った。 「被害届なんて出したら、芸能界に入れないぞ。」と知ったふうな口をきく腰巾着一。 「どうしよう。」 「とにかく、お母さんに交番に来るように言って。話はそれからだ。」お巡りさんは帰っていった。 「じゃ、私たちも帰ろっと。」と絵里香。 「うん、帰ろ。」腰巾着の腰巾着。 「ねーねー、スカウトの人来たら教えてよねー。」亜里沙が言う。 「うん。もちろん。」 「じゃあねー。」 「ばいばい。」と、みんな帰って行った。  私と信濃さんだけがその場に残された。 「あの子とさっちゃん、身長同じくらいだね。」子供達がいなくなってしまってから、考え込んでいた信濃さんが私に言った。 「うん、小学校で並ぶ時は私がすぐ後ろ。私のが、ほんの少しだけ大きいから。」 「何だか体重も同じくらいで、髪の長さも同じ位に見えるよね。遠目に見ればどっちがどっちだかわからないんじゃない?」 「間違えられたことはないけど?」 「でも後ろから見ると似ていたなぁ。ま、さっちゃんとあの子を間違えて、それに気が付いて慌ててあの子を返したってとこじゃないかな。」 「あの白い車が昨日の車に似ているので、まさかとは思ったんだけど。」 「多分ね。昨日のさっちゃんの話を聞けばね。そんな所でしょう。」 「でも、私を連れて行っても、何も分からないのに。」 「そうなんだけど、相手はそう思ってないのかも。」 「えっ」 「とにかく、危ないから家まで送って行くわ。ちょっと屋敷に入って待ってて。瀧さんに了解を得てくるから。」と門の中へ誘導され、信濃さんは急いで八角屋根の館の中へ入って行った。 私は館の外で信濃さんを待っていた。誰もいなくなって、時たま風に木々の枝葉が揺れる音がするくらいの静けさだった。木 の葉の緑と館が光に照らされて美しく輝いて見える。そうして館や木々を眺めているうちに、後ろか らゆっくりとした複数の足音が響いてきたので振り返った。足音の主はこの八角の館の主人のお婆さ んと、それに付き添っている西村さんのものだった。私は黙ってお辞儀をした。 「あら、沙夜さん、またいらしたの?まあ、上がってお茶でも召し上がっていってちょうだい。ほら、大樹、案内して差し上げなさい。」お婆さんは杖をついてゆっくり歩いていて、西村さんはそれを 見守っていたのだが、玄関の扉を開けるために先に回った。お婆さんはゆっくり段をふたつ登ってからやっとのことで西村さんが開けている扉までたどり着いた。 「何をしているのです、さっさといらっしゃい。全く、どうなっちゃっているのかしらね。」お婆さんはどうやら私に言っているようだった。私は何も言わずにお婆さんの後へと続いた。玄関まで迎えに出てきていた信濃さんと瀧さんに、 「お客さんだよ、お茶の用意をお願いね。」と言い、それから 「おや、瀧、もう起きて大丈夫なの? 医者は何と言っていた? まだ休んでいた方がいいのじゃないかね。」 「いいえ、奥様、もう大丈夫でございますよ。すぐにお茶を入れますからね。」 「お茶なんて淹れなくていいよ。休んでいなさい。おや、誰だね?あんた達は?人の家に勝手に上がってくるのじゃないよ。早く出ていきな。瀧、知らない人が来ているから、追い返してちょうだ い。いつの間にきたのかしら。」 「じゃあ、瀧さん、ちょっと出てきます。」信濃さんは早々に退散した方がいいと考えたようだ。 「ああ、気をつけてね。こっちは大丈夫だから。」瀧さんが言った。 「ありがとうございます。」信濃さんが軽く頭を下げた。 「じゃ、僕も向こうに戻ります。」と西村さん。 「ああ、どうも悪いわね。またお願い。」瀧さんはお婆さんの後を追った。 三人とも外に出ると、西村さんは「じゃあ。」と本館へ歩いて行ってしまった。私たちは門の方へ歩 き出していた。 「お婆ちゃん、ああやってたまにわかんなくなっちゃうんだけど、まだ瀧さんがわかるだけましなんだって。」 「いつから、ああなっちゃったんですか?」 「さあ、私がきたときはもう、それで私が雇われたくらいだからね。」 「それいつ頃なんですか?」 「七月の末くらいかな。」信濃さんは言いながら門に手をかけた。と、振り向いて、 「さっちゃん、ちょっとここで待っていて行くれる?すぐ戻ってくるから、何処にも行っちゃ駄目だよ。」と言い残すと、門を出て道を渡って反対側に止まっている黒い車の方へ向かって行った。あの車何だか見たことあるような、と考えていたら、また上から黒いものが降ってきた。 「ぎゃっ」 とつい声を出してしまった。このお屋敷の塀はとても高いのに、その黒猫は私の目の前に 降り立った。「ポー。」私はまた声を出した。私はポーに近づこうとした。その時門の外が目に入った。信濃さんが黒い車の中の人と話しているのが見えた。ここからだと良く見えないけれど信濃さんと話しているおじさんをどこかで見たような気がした。でも、こんな遠くから見えるわけないし、気のせいだろうと、ポーの方に目をやった。ポーはもういなかった。あたりを見回したが、やはりポーはもうどこかへ行ってしまった後だった。ポーはお屋敷と空き家を自由に行ったり来たりしているのだろう。信濃さんが戻ってきたので、私たちはお屋敷を出て、私の家へ向かった。私は黒い車の男の人うち のことを聞こうかどうか考えていると、信濃さんが私にこう尋ねた。 「お母さん、家にいるの?」 「ううん、まだ 帰っていないと思う…ます。働いている。」 「何時に帰って来る?」 「六時前に一度帰ってくるんだ。それで私が夕飯食べるのを見てからまた出かける。」 「それで、何時に帰ってくるの?」 「九時過ぎかな。」 「そっか、土日は?」 「昼間に働いている。でも火曜日と金曜日はお休み。どうして?」 「ああ、お母さんにご挨拶しようかな、と思っていたから。でも今日は無理そうね。」 「うん、そうだね。今夜お母さんに信濃さんのこと話しとく。」 「ありがとう。」 「今度うちに遊びに来てね。」 「遊びに行ってもいいの?」 「うん。でも面白くないかも。」 「ははは、どうして?」 「だって何にもないよ。」 「何にもなくていいんだよ。じゃあ、土曜日にお邪魔しようかな。」 「わかった。お母さんに言っておきます。」 「お母さん、怖くないよね。」 「怖いに決まっているじゃん。」 「えっ。うそ。」 「嘘に決まっているじゃん。怖くなんかないよ。」 「良かった。ま、そう思っていたけどね。」 「本当はすごく怖いよ。」 「えっ。」 「うっそー。」 「こら、大人をからかうな。」 「だって面白いんだもん。」 私はこう言って、そう言えばここ四、五日、何だか楽しいな、と思った。それは、ポーや信濃さんや山川さんのおかげかな。何だかお父さんが亡くなって以来、今初めて、ちょっと楽しいのかなと感じた。 七 幽霊屋敷 (金曜日の出来事) 「雪菜、スカウトされたんだって」誰かが大きな声で話しているのが聞えてくる。今日は朝からこの話題でクラス中、いや学校中が盛り上がっていたのだ。皆がどうやってスカウトされたのか聞きたがったし、どういう人がスカウトに来たのだ知りたがった。雪菜と亜里沙は意気揚々と話した。腰巾着一号、二号、腰巾着の腰巾着もだ。私は学校で相変わらず無視されていたけど、周りが何か話しているのは聞こえる。今も教室の前の入り口辺りで、『腰巾着一号』が大きな声で話している。  スカウトの話が一通り落ち着くと、午後の帰りの時間が近くなるに連れて、話題は雪菜がスカウトされた場所から、あの空き家へと移っていった。 「雪菜がスカウトされたの、あの空き家の前なんだろう。」 「あの空き家、人が死んでるのが見つかったって?」 「あそこ幽霊が出るって知ってたか?」 「ああ、知ってる、有名じゃん。」 「そうそう、夜中に門の前がふわっと明るくなったり、外から奥の部屋の明かりがうっすら見えたりって。」 「ああ、聞いたことある。隣の組の誰かが見たって言ってたぞ。」 「前にあそこに住んでいた人もあの家で死んでいたのが見つかったって。」 「そうそう、あの時も誰かが幽霊見たって言ってたよな。」 「前の前に住んでいた女の人も死んだんだって。誰か言ってた。」 「呪われているな。」 「そうだ、呪われた館だ。」 「お前行ったことあるか?」 「あの空き家に? ないよ。古いし誰もいないし。」 「入ってみたくないか?」 「別に。」 「ふん。」 「え、何なに?」クラスの男の子たちの会話に女の子らが加わってきてこの後はよく分からなかった。 学校の帰り道、あのお屋敷の近くまで来た時、空き家の前の辺りにお決まりの子供達がたむろしているのが見えた。またか、と私は思った。『昨日の今日で良くここに来ようと思ったよね、この子供達は。あ、そうかスカウトだと思っているのだっけ。それじゃ、本当にスカウトされるまで、毎日ここに来るのかも。』どうしよう、せっかくこの子達に会わないようにこの道を選んで帰っているのに、これじゃ、全てが水の泡…。などと考えて歩いていると、 「やっと来た。」と腰巾着一が言う。私は構わず真っ直ぐ歩いていく。 「おい、あの家幽霊が出るんだってさ。」丁度あの家が僅かに見えて来たところで腰巾着の腰巾着が言った。 「お前、幽霊見たいだろ。僕たち今夜あの家に忍び込んで幽霊を見るんだ。」 「あなたも来なさいよ。真夜中に。」結衣が言った。「みんなで幽霊を見るの。」 私は何も答えずに歩き続けた。どうせ誰かが幽霊に扮して私を驚かそうって魂胆が見え見えだ。それを携帯で動画を撮って後で笑いながら観るに決まっている。だが、夜にあの家に行くのはまんざら悪い考えでもなかった。あの男の人がいるかも知れないし、あの黒い金庫の鍵だって何処かにあるかも知れない。けど、もうとっくに警察の人が持っているだろうな、などと考えながら歩いていた。急に目の前に一人の女の子が私のいく手を遮った。絵里香だった。私は立ち止まったけれど、その子を避けてまた前へ歩こうとする。すると別の女の子、今度は雪菜が、私が前に出るのを阻む。今度はその子を避けようと 道路側に二、三歩踏み出した。雪菜は私を止めようと私に体当たりしてこようとした。けれど私がひらりと避けたので、雪菜は道路脇に止まっていた白い車に手をついた。  「大丈夫?」と私が近寄ろうとした時、車から男の人が出てきた。 「おい、何やってるんだ? 今車にぶつかったろう?」 突然、男の人が車から出て来たので子供達皆がびっくりした。 「おい、聞いているのか? 俺の車にぶつかっただろう?ほら、謝れ。」 そんなに強くぶつかったわけではないし、車は何ともないが、その男の人があまりにも怒っているので、みんな呆然としていた。 「謝れって言ってんだよ。」と男の人のあまりの勢いにみんなが一斉に「わーっ」とその場から逃げ出した。逃げる途中で腰巾着一が一言、「真夜中だぞ。絶対来いよ。」と私に向かって叫んだのが聞こえた。        子供達が皆空き家から遠ざかっていくのと反対に、私は一人だけ空き家の門の方へ、それからお屋敷の方へと向かって走り出していた。私はあの男の人を前に何処かで見た事があるなあ、何となく嫌な感じのする男の人だなあ、と感じていた。あの声も何処かで聞いたことあるよなあ、などと思いながら走っていると誰かにぶつかった。振り返ると男の姿はなく、車の中に戻ったのだろう。 「そんなに急いでどこに行くの?」と信濃さんは私を、半ば抱き止めながら言った。丁度お屋敷のあの立派な門の前辺りで、そこから出てきた信濃さんとぶつかったのだ。私は信濃さんに抱きついた。 「おっと、いい所に来たわ、寄っていきなよ。」信濃さんはそう言って、私を半ば抱き抱えながら門の中へ入っていった。 「出かけようとしていたんじゃないの?」 「さっちゃんが来ないか見に出たの。そこへ本人が都合よく飛び込んできたってわけ。」 「はあ、本当に丁度よかった。」 「どうかしたの?」 「うんうん、何でもない。」 「まあいいや、とにかく入ろうか。」 「入っていいの?」 「もちろんよ。なんで?」 「だって、ええと、…。」 「とにかく、中に入ろう。瀧さんがまた焼き菓子いっぱい焼いてくれたから。」 「瀧さんて、お婆さんを面倒見ている人だったよね?」 「そう、もうずっとこの家のお手伝いをしている人。一番長いんだって。」 私たちが中に入ると、庭師の西村さんが階段から下に降りて来る所だった。 「三井さん、上階で横になりたいって。」人差し指を上に向けて西村さんは言った。 「さっきまでこの娘を待ってたのに。」 「ああ、困ったね。」 「まあ、いいや、一緒にお茶でも。」 「あ、いただこうかな。」 信濃さんが丁寧に入れてくれた紅茶を飲みながら、瀧さんの焼き菓をいただいた。本当に美味しい。 「あ、西村さんの事、さっちゃんに庭師だって紹介したけど、でも最近はこっちと本館の雑用係って感じになっちゃったって言ったよね。あちこちでこきつかわれて。あまり庭師をやっていない。」 「まあ、仕方がないね。雑用で給料もらっているだけましかも。庭師の方じゃ給料出てないからな。」 「まだ見習いだからね。ああ、美味しいね、これ。」 「瀧さん最高。」 「あの、今夜、忙しいですよね。」 「今夜、何かあるの・」 「あの、同じクラスの子たちが今夜あの空き家に幽霊見にいくって。」 「は?」 「え?」 二人は驚いて同時に声を上げた。 「あの家幽霊が出るって有名なんだって、それで真夜中にそれを見に行こうって言われたんだけど…。」 「あー、残念だけど幽霊は出ないと思うよ。」と西村さん。 「あの、それはわかっているんです、あの子たちの誰かが幽霊のふりをして私を驚かそうって魂胆だと思うんですけど。」 「何でそんなことするの?」 「それはちょっと…あの…どうしてかな。とにかく、今夜一緒に空き家に行ってもらえませんか?」ちらっと信濃さんを見た。 「は?私?」 「はい、夜ならあの男の人いるかも知れないし。」 「それもそうだね。」 「それで、一緒に行って貰いたくて。」 「子供達に混じって?」 「できれば子供達に気付かれずに。」 「ふむ、それは子供達より先に行くってこと?」 「うーん、どうしよう、ちょっとだけ先に行って中で待っていてもらうっていうのは?」 「それなら子供達にはばれないかな。というわけで、西村さん、いい?」 「ああ、仕方ないな、俺がここに残るよ。何かあったらすぐに行けるし。」 「じゃ、西村さん、私なるべく早めに帰って来るから。」 「わかった、じゃあこの娘、俺が帰りに送っていくわ。」 「お願いします。さてと、じゃあ、ちゃんとお母さんに挨拶しとかなきゃ。お母さん今 どこ?」 信濃さんは立ち上がって言った。 「え?お母さんに言うの?でもお母さんに内緒で行かなくちゃ いけないんじゃないかな?」私はびっくりしてそう答えた。 「あら、お母さんに言わなきゃ夜中に外に出してもらえないでしょ。」 「あの、こっそり抜け出せばいいんじゃないかと。」 「うーん、お母さんに玄関で捕まって終わりだと思うよ。」 「でも友達と約束だって言えば。」 「友達じゃないんでしょ。」 「そうだけど。あの、言わなきゃ駄目?」 「駄目。お母さん今日何時に帰るの?」 「今なら一旦家に帰ってきているかも。」 「よし、じゃあ、今行くか。ごめん、西村さん、今ちょっと行って来る。」 「はいはい、早く帰ってきてくれよ。山城さんが寝ているうちにね。」 「よっしゃ、行くぞ。」 お母さんはまだ家にいなかった。私は信濃さんと私の家で少しの間待つことになった。信濃さんに冷蔵庫の麦茶を出すと、 「お構いなく。」と信濃さんは言ったけれど、その麦茶を全部飲んだ。私も少し飲んだ、外はまだ暑いから喉が渇くのだ・ 「信濃さん、兄弟いる?」 「え、ああ、姉貴が一人、いた。」 「え、死んじゃったの?」 「いや、両親が離婚してね、姉は母方に、私は父方に。今でもいいお姉ちゃんだけどね、もうずっと一緒に住んでないけれど。」 「あ、前に言っていたっけ、お姉さん、甲斐の国の甲斐。」 「そう。お母さんと外国に住んでいる。」 「友達もいるよね?」 「どうして?」 「ほら、だって私、最近クラス皆に無視されているから。転校する前は友達と普通に話していたのにな。」 「何時転校したの?」 「今年の四月。もう六年生だったから転校しなくてもいいって、お母さんは言ってくれたけど。」 「へえ、珍しいね。お父さんの仕事の都合とか?」 「お父さんは一年くらい前に亡くなりました。事故で。」 「それは…。大変だったね。それで…。転校?」 「うん、なんかお父さんが死んだ時は何も考えられなくて。いつもお父さんのこと思い出しちゃって。それで、学費も安くなるかなぁって考えたりして、気分転換になるかもとも思ったんだけど。」 「失敗だったってわけだ。」 「はい。思いっきり。」 「今も誰とも話さないの?」 「あ、そう言えば、一人…。」 と言いかけた時に、お母さんが帰ってきた。私はお母さんに事情を何も話していなかったことに気が付いた。それで、結局お友達の家に泊まることになったと言ってしまった。 「そのお友達のうちの…お手伝いさんの信濃さんです。」 「お手伝いさん?」 「あの、お金持ちの家なんです。で、お泊まりっていうか、ちょっと夜遅くなるっていうか。あ、ちゃんと送ってきますから。ああ、そうか、何で気がつかなかったんだろう。お婆ちゃん宅にお泊まりした方が安全か。夜中に行ったり来たりするより。」 「夜中に行ったり来たり?」 「ああ、この子が夜中にお母さんに会いたくなって帰るって言い出したら送ってきますのでっていう話なんですが。」 「ああ、そうね、そういうこともあるかもね。」 「ええ、まあどっちにしろ、ちゃんと見張っていますから。」 「あら、ありがとうございます。」 「あ、ここに連絡先書いておきましたから。緊急の時はそこに。」 「それは、ご親切に。」 「では、私はこれで。あとで迎えにきますから。」と、信濃さんはお婆ちゃん宅に戻っていった。 「それで、一体全体どういうことなの? ちゃんと説明して。」お母さんは何が何だかわからないといった感じで、私を問い詰めた。 「ええと、学校の子が幽霊見に行こうって。」 「は?」 「真夜中に幽霊見に行こうって。けど保護者が必要だから、信濃さんに一緒に来てくれるように頼んだ。」 「そんなの、断ればいいでしょ。」 「断ったら何か言われそうだもん。」 「言われたっていいでしょ。幽霊見にいくなんて馬鹿げている。天体観測ならわかるけど。」 「あ、天体観察って言えばよかったか。」 「何を言っているのよ。今から断りなさい。」 「嫌だよ。せっかく信濃さんが承諾してくれたのに。」 「幽霊なんていないのに一体何を見るっていうの?」 「幽霊が出るかもしれない家。」 「肝試ししようってわけね。」 「そうだね。」 「断りなさい。」 「断れない。」 「仕方ないわね。私も行くわ。」 「だから信濃さんが行ってくれるって言っているじゃん。」 「保護者は多い方がいいでしょ。」 「いいけど、一緒にいないでね。信濃さんと家の外で待っていて。」 「何それ?誰も来なかったらどうするの?」 「帰ればいいでしょ。」 「何時に行くの?」 「信濃さんが迎えにきたら。」 「何時に迎えに来るの?」 「十時か、十一時くらいかな。」 「まあ、いい加減ね。」 「真夜中にクラスの子とその家の前で待ち合わせたから、その前に信濃さんとお母さがそこに行ってくれればいいよ。」 「何よそれ。もう、今度から事前に了解を得るのよ。行っていいか悪いかを聞くの。直前じゃなくてね。」 「ごめんなさい。でも私も今日言われたから。」 「今度からそんな直前のお誘いはお断りするの。大体あなた毎晩九時にはもう寝てるじゃない。」 「うん。でも今日は起きていられるよ。」 「本当かなぁ。」 「うん、大丈夫。」 「わかった。起きていたら行ってよし。」 夜十時半過ぎに信濃さんは迎えに来てくれた。お母さんも一緒にあの家に向かった。お父さんが亡くなって以来初めてお母さんと夜にお出かけするのだ。もっともお父さんとお母さんと夜に出かけたことなんて数えるくらいしかないかもしれないけれど。お母さんは私に懐中電灯を余分に持たせた。さらにスニーカーの靴紐は蛍光塗料がなされているものを用意してくれたし、極めつけに小さなライトを首から下げてくれた。 「懐中電灯を失くしたら、首から下げている小さい携帯ライトをつけるのよ。携帯電話は持っているわね。すぐ近くにいるんだから、何かあったらすぐに呼んで。転んだだけでも呼ぶのよ。」 「携帯で電話する。」 「呼んだらお母さんがいるのみんなにバレちゃうじゃん。」 「他の子の保護者はいないの?」 「わからない、来ているかもしれない。」 「何それ、何にも知らないじゃない。」 「だって、話している余裕なかったんだもん。」 「もう、お母さん、お姉さんもいることだし、あんまり言わないでよ。」 「そうね。忘れていたわ。ごめんなさいね。」 「いいえ、とても仲が良いのですね。」 「まあ、あなただってそうでしょ。お母様と仲が良いでしょ。」 「ああ、母は六年ほど前に亡くなって。」 「まあ、それは…。ごめんなさい、余計なことを言ったわ。」 「いいえ。でも、そうです。母と私は仲が良かったです。」 「そろそろ着くよ。まだ誰も来ていないといいな。」 「そもそも誰も来ないってことも…。」 「あ、それ考えてなかった。どうしよう。」 「まあ、様子をみよう。」 あの家の近くまで来た。あたりに車は停まっていないし、ひっそりとしていて誰かがいるような気配はなかった。車はたまに通るはずだが、今は通っていない。やがて門が見えてくると、「あ、誰か来ている。」と信濃さんが言った。門が少し開いていたのだ。 「私がさっきここを通った時はちゃんと閉まっていたのに。」 「本当だわ、半開きになっているわね。」とお母さん。 「中に誰かいると思う?」 「多分ね。どうする、やめる?」 「行く。」 「じゃ、行こうか。」私たちは門を通って中に入ると、きちんと門を閉めてから玄関の方ではなく庭に向かった。すると、あの家の縁側のあるあたりから何やら聞こえてくる。 「幽霊じゃあないな。」信濃さんが言った。 「当たり前じゃん。誰だろう?」 「知っている人?」お母さんが私に尋ねた。 「よく見えない。もうちょっと近くまで行かないと。」 三人であの石のところまで行った。信濃さんは携帯で動画を撮り始めた。後で見てみれば何かわかることがあるかもしれない、と言って。私は暗いからあんまり期待はできないと思った。 「もしかして腰巾着かなぁ。」と私が呟いた。縁側はいつ ものように開け放されていて、そこに何か大きいものが置いてある。どうやらそのそばで二人の人間が動いているみたいだった。 「腰巾着一と腰巾着二だな。きっと。」と私が小声で言った時だった。その縁側の隣の部屋の障子の向こうがふっと明るくなったのだ。それに作業していた二人の男の子たちも気がついた。 「ぎゃー、幽霊だぁ。」と一人が叫んだ。その直後にその明かりがふっと消えた。 「ぎゃー、本当に幽霊だ。」と今度は別の一人が叫んで、二人で顔を見合わせたと思ったら、縁側を飛び出して門の方へ向かって駆け出した。 お母さんは門の方へ向かった子供達の跡をつけて行った。別にそうし ようと思ったわけじゃなくて、ただ子供たちが走ったので釣られて後を追いかけただけだったのだ。子供たちは門の外へ出て、一目散にお屋敷とは反対側に真っ直ぐ走り出した。道路を二回渡った所で右に曲がってすぐに車が何台か停まっていて、その前に何人かの子供たちがいた。すごい勢いで走ってくる二人の子供に他の子供達もびっくりしたようだ。 「本当にお化けが出たぞ。」と興奮気味に一人が叫んだ。 「本当に本当だぞ。」もう一人が付け加えた。 「何言っているの。あの子を驚かすはずだったんでしょ。お化けはあんたたちじゃない。」一人の女の子の声がした。 「僕は帰る。」最初の声の子供が自動車に乗り込んだ。すると もう一人も 「僕も。」と車のドアを開けて、「帰る。」と一言。二人の女の子がすかさず車に乗り込んだ、と同時に車は発車して、一台の車が過ぎ去った。取り残された子供たちも次々と車に乗り込み、あっという間にさらに二台の車が走り去った。 信濃さんはあの明かりのついた部屋に走った。明かりが消えた後しばらくしてまた明かりがついた。信濃さんがあの部屋についた時には誰もいなかった。ただ寝袋や明かり取りのランタンが置かれていて、スナックが食べ散らかしてあった。誰かがここで寝ていたことは確かだ。そして物音で目が覚めて、明かりを灯したが、叫び声がした ので明かりを消した。けれど逃げる前にもう一度明かりを灯したのだろう、それで逃げたのだ。 私はあの大きな荷物の方向に走った。縁側から部屋に入って床の間まで行くと、首にぶら下げていた小型のライトをつけた。手に持っていた懐中電灯は部屋の奥を照らすように横に置いて、床の間 の板を押しながら持ち上げた。懐中電灯をとって中を照らすとこの前の箱がまだそのまま置いてあった。信濃さんが来て、「誰もいない、逃げられたみたい。ま、仕方ないか。」と言った。信濃さんは私があの床の間の板を引き上げたのを見て、「あ、その金庫、今日は持って帰ろうか。」と言ったので、私はちょっと驚いたけれど、信濃さんに従うことにして、その箱を引き上げて、「お母さんとの待ち合わせ場所に行くんだよね。」と言った。 お母さんはまだ待ち合わせの場所にいなかった。私たちははぐれたら裏木戸の外で待ち合わせることになっていた。あそこなら子供たちは知らないだろうと踏んでいた。ただ私はお母さんがその場 所をわからないのではと不安になった。行ったことがないと見つけ にくい場所だから。でもあの道の方から誰か来るのを見て、お母さんだと思った。お母さんにこの道が、あの道路に通じていると説明はしておいたが、私たちはお母さんが裏木戸の中から外へ出てくると思っていたので、少し驚いたのだ。 「何で外から来たの?」 「外に出ていたから。何それ?」 信濃さんが大きなものを背負っているので、お母さんはそれに 驚いたようだ。あの部屋を出る前に子供達の残していった大きなぬいぐるみを背負っていた。これで私を脅かそうとしたみたいだけれど、ここに置いておくわけにも行かないって持ってきたのだ。信濃さんがなぜここで待ち合わせたのかがわかった。この獣道はあのお屋敷の裏庭に通じていたのだ。もう誰も使っていないので、草がぼうぼうと生えているので、この獣道を知っている人でなければ何処にに通じているのか分からないだろう。草をかき分けながら進んで、お屋敷の裏庭に入る。ここはあのお屋敷の敷地内なのだ。お屋敷の敷地の奥から回るようにしてあの八角屋根のお婆さん宅の前まで来た。西村さんが待っていてくれて、 「何それ、新しい友達?」と信濃さんが持っていたぬいぐるみを見て言った。 西村さんは車で私達母娘を送って、自分も自宅に帰った。信濃さんは私の携帯にさっき撮った動画を送ってくれた。何かわかったら教えてってコメント付きで。動画は子供たちが逃げ出すところで切れていた。あの声の主はやっぱり腰巾着だった。 八 監禁 (次の土曜日の出来事) 次の日、音楽祭の練習のために小学校へ来ていた生徒達の間では、昨晩の幽霊騒ぎで持ちきりだった。きっと午前中の弦楽器組の立花グループが調子にのって話したのに違いない。さぞかし腰巾着は人気者であったであろう。 「お前、昨日の夜来なかっただろう、来れば幽霊に会えたのに。」腰巾着の腰巾着が私に向かってそう言うと、他の子に向かって「あいつ、幽霊が怖くて昨日の夜来なかったんだぜ、せっかく立花が誘ってやったのに。」 「お父さんの幽霊になら会いたいけどな。」とつい呟いたが、誰も聞いていないことはわかっている。 「幽霊に会いたい?」と聞かれて私は振り返ると山川さんが変な顔をしていた。「おはよう、隣、空いている? 今まで図書室にいたんだ。帰りは図書室に寄っている暇がなくて。」続けてこう言った山川さんは笑顔だった。私の横の席は大抵最後まで空いている。山川さんの笑顔に救われて、私は頷いた。 「誰か幽霊を見たんだって?」山川さんが私に聞いた。 「うーん、幽霊ではないな。」と私。 「何か知っているの?」山川さんはまた変な顔をして私に尋ねた。私は手短に昨日起こった事を小声で説明した。もうじき先生が来て、練習が始まる時間が近づいていたが、腰巾着の腰巾着は向こうで相変わらず友人達に幽霊を見たという自慢話をしているのが見えた。幽霊がどんなに不気味であったかを力説しているらしい。 「後で、携帯電話にその動画を送ってあげる。」と私が言うと、 「私、携帯電話もってないんだ、お母さんが中学生になるまで禁止だって。あ、でもパソコンの方にメールで送って、今アドレス書くね。」山川さんがノートの端に書いている間に先生が教室に入ってきて練習が始まった。山川さんはノートを破いて私に渡してくれた。幽霊騒ぎで沸き立つ生徒達に、今日の先生は幾分厳しかった。 練習が終わり、山川さんが、「今日は急いで帰らないといけないんだ。」と何だか嬉しそうにそそくさと教室を出て行ってしまった。腰巾着の腰巾着とその友人達はまだ幽霊の話をして盛り上がっている様であった。もう私の方を見ようともしないので、私は何だか幽霊に助けられているような気がした。 早く黒猫に会いたいせいか、それとも信濃さんに会いたいせいか、急いで教室を出て図書室にも寄らず一気に校門を抜けてさらに急いで歩き始めた。その瞬間、 「えっ。」私は声を上げた。誰かに腕を掴まれて引っ張られたからだ。何をする間もなく、無理やり車に引きずり込まれたかと思ったら、「出せ。」と男の人の声がして、車は急発進した。 私は驚きすぎてもう声も出せなかった。何が何だか分からのないので状況を把握しようとするだけで精一杯だったのだ。 「大人しくしてろよ、さもないとー。」男の人はその先を言わなかった。私を睨みつけている。私は怖かったので何も言う気になれなかった。恐る恐るその男の人を見ると、どこかで見た顔だな、どこで見たのだっけ?と考え始めた。 「何を見てるんだ?」と怒られた。 引きずり込まれる時に、少しだけ見えたその車は私を轢こうとした、そして立花さんを連れ去ってすぐに開放した、あの白い車によく似ていた。そして、そうだ、今私の横に車の中で座っているのは、立花さんが白い車にぶつかった時に物凄い剣幕で怒って車から出て来て、『謝れ。』と言った、あの男の人だ。それを思い出した私は、 「あっ。」と声を上げた。男の人がじろっと私を睨んだ。その顔を見て、『この人何処かもっと別の所で見たなあ。』と思い出そうし始めた。その時運転席の人が、 「あなたが鈴木の持ち物をあの空き家から持ち出したんだって?」と言った。顔は見えないけれど、女の人の声だった。 「鈴木って誰ですか?」私が聞いた。 「あの空き家で死んじゃった男のことよ。」と運転席の女の人。 「私は何も…。」 「あれはもともと私達の金庫なのよ。鈴木が勝手に盗ったの、私達から。金庫は何処にあるの?」 「金庫?」私は問い返した。 「この位の大きさの。」男の人が指で大きさを示しながら言った。 「知りません、そんな物。」と私。 「いいえ、知っているはずよ。あなた、あの空き家によく出入りしていた子でしょ。」 「二、三回です。ん、四回かな。」 「その時、私達の金庫を勝手に持ち出した。」 「金庫なんて知りません。」 「あなたが金庫を持ち出すのを見たって人がいるのよ。昨日の夜、金庫を探しに行ったんでしょ。」 「ええ?だって、昨日の夜、あそこにいた人って…。」と私はつい大声で言ってしまった。 「ほら、やっぱり知っているじゃない。」 「でも、金庫だなんて…。」 「そんなはずはないでしょ、あの中には私達の通帳やカードそれに時計や宝石が入っていたはず。宮田がそこに入れてたんだから。」と女の人も怒って大声で返した。 「私は何も取っていません。」きっぱりと言った。 「そんなこと言って、あなたが猫糞したんじゃないの?」女の人はさらに厳しい調子で聞いた。 「え?だって、何が入っているか分からないのに?」と私。 「何か入っていたから横取りしたんだろ。」と男の人が言った。 「してません。」 「でも、金庫は持っているわよね。あれはね、何度も言うけど、鈴木が私たちの所から黙って持ち出しちゃった物なの。あれがないと困るのよ、私達。早くどこにあるか言えば直ぐにお家に帰れるわよ。」と女の人。 「だから金庫なんてなかったです、どこにも。」 「そう、じゃあ、一体何処に行っちゃったわけ?いい、さっきも言ったけどね、あれはもともと私の物、私達の物なの。あなたが持っていないなら、持っている人に持って来てもらうわ。」女の人は運転席から後部座席の私の方に身を乗り出して凄んだ。どうやらとっくに目的地に着いていたのか、車は停まっていた。駐車場に着いたらしいのだが、いったい何処だろう。そんなに遠くないことはたしかだけれども。 「騒ぐんじゃないぞ。」男の人はそう言うと、先に車から降りた。そして私を車から引き降ろすと、私の口を手で覆って、「静かにしてろ。」と言い、私を引きずるようにして女の人と共に建物の方へ歩き出した。私は男の人の腕を掴んで口の所から引き剥そうとした。私の爪が男の人の手に食い込んだのか、男の人は「痛、」と思わず私の口から手を放した。 「助けて。」 出来るだけ大きな声で叫んだ。だが、すぐに「このやろ、」と再び私の口を前より強く塞ぐと、急いで女の人が鍵を開けている家の玄関へと向かった。  家に入るとすぐに私に向かって、 「あなたが持っていないなら、誰が金庫を持っているの?」と女の人が尋ねた。 「そんなの、知るわけありません。」 「昨日、一緒にいた人は誰?」 「えっ信濃さんのことですか?あ、信濃さんはあの空き家の隣のお屋敷のお手伝いさん。それとも私のお母さん?」 「じゃあ、きっとその人が持っているのよ。」 「は?いえ、そんな無茶な。知らないと思いますよ。」 「あなたが持っていなけりゃ、そいつが持っている。そいつに持って来させて。」 「いえ、無い物は持って来られないと思いますが…。」 「そんな事、あなたに分からないでしょ。」 「はあ…。」 「携帯持っているよね。それでメールして。私が言うように書くのよ。ええと、“昨夜見つけた金庫‐じゃなくて、あなたが言う箱ね、その箱の持ち主が家に来て、箱を返して欲しいって言っています、“って。で、次は、”今すぐ私の所までその箱を持って来て下さい。”って、ほら書いて。」 「今すぐって、今すぐは来られないって言われたら?」 「どうしても今すぐ持って来てほしいって書きなさいよ。」 「ここへ?」 「ここは駄目だ。別の所にしろ。」男の人が言った。 「あなたの家に持って来させて。」 「家にお母さんいますけど。」 「『お母さんに渡して。』って書けばいいでしょ。こっちから誰かが取りに行くから。いい、今すぐによ。今すぐ。」 「でも、信濃さん、仕事で抜けられなかったら、どうするんですか?」 「『相手の人が今すぐほしいって言っています。』って言えば来るわよ。駄目なら誰か頼むでしょ。とにかく、今いるの。」 私は言われた通りに文字を走らせ、 「はい…。書きました。」と女の人に見せた。 「送信して。」 言われた通りに送信した。直後に女の人が、 「返事返ってきた?」と聞いて来る。 「いいえ、あの、メールに気がつくの、明日かもしれませんよ。」 「今すぐ電話して。ああ、スピーカーにして。相手が出たら切るのよ。そうすればメールに気付くでしょ。」 「はい。」すぐに電話をかける。信濃さんはなかなか携帯電話に出てくれなかった。女の人は真っ赤になって怒っている。 「もしもし。」やっと信濃さんの声が聞こえた。私は電話を切る。私は信濃さんがメールに気がついてくれることを願った。信濃さんは箱のことは知っていると思うけれど、信濃さんが箱を持っているのかどうかは分からない。確かに信濃さんは私にしばらくして携帯電話が震えた。 「“わかった。今すぐ持って行きます。お母さんによろしくね。”」 メールの返事が返って来たのだった。良かった。信濃さんはメールに気付いてくれたようだ。 「あ、お母さんに言わなくちゃ。」私は急いで家に電話をした。 「一体何処で何をしているの。早く返って来なさい。」お母さんは、すぐに電話に出た。きっと私が帰って来ないから、しびれを切らして電話を待っていたに違いない。 「ああ、お母さん、うん、もうすぐ帰るけど、その前に…信濃さんがそっちに箱を持って行くから、お母さんそれを受け取って。それでその…それで…、その箱を取りに女の人が来るから…、違った、男の人、その箱の持ち主が取りに来るから、お母さん その人にその箱を渡してあげて。」 「信濃さんが箱を持って来たら、その箱を取りに来る持ち主に渡せばいいのね。それはいいけど。今、何処なの?何時帰って来るの?どうしてもっと早く電話しないの?もしもし、聞いているの?」 お母さんは電話の向こうで怒りを爆発させる寸前だ。 「ああ、今ね…、あの、もうすぐ帰るから。じゃあね。」私は早々に電話を切り上げた。 二人は顔を見合わせて、満足そうな、それでいて不安そうな表情を浮かべていた。二人は箱‐じゃなくて金庫‐を取り戻すまで私が邪魔だと考えたようで、私を二階の用具入れのような所に放り込んだ。そして外の壁の突起と扉の取っ手を鎖でぐるぐる巻きにして、出られないようにした。小さな倉庫‐というかゴミ置き場というか‐何やら色々な物がいっぱいごちゃごちゃ上から下まで積み重ねられていた。私はどうにかここを抜け出せないかと端から物色し始めた。 さて、私が用具入れに閉じ込められている間の話はお母さんと信濃さんに聞いた話である。 信濃さんはあの箱を持って私のお母さんの待つ家に着いた。お母さんはその箱を受け取ると、 「すみませんね、あの子ったら、自分で取りに行けばいいものを。」  「いいえ。それよりこの箱、誰が取りに来るのか知っています?」 「ええ、持ち主が取りに来るそうよ。」 「そうなんですか。あの、私も持ち主を見てみたいのですけれど。」 「ああ、それならここで待っていれば。すぐに来るそうだから。」 「じゃ、お邪魔します。」 家の中に入ると信濃さんはお母さんにこう尋ねた。 「あの、お母さんの所にはさっちゃんからメールが来ました?」 「いいえ、電話が来たの。すぐ帰るからって。すぐ帰るなら、自分で箱を取ってきて渡せばいいのにねぇ。困った子だわ。どうしちゃったのか。前はこんなことなかったのに。夜中に友達と会うとか…。あなたには昨日の夜もお世話になっちゃって…。」 「いえ、大したことは…。他に何か言っていました? その、箱のこととか。」 「いいえ、特には。ただ持ち主に返すって。持ち主って誰かしら。」 「誰なんでしょうね。」 そこへ玄関の呼び鈴が鳴った。居間にあるモニターで玄関の外に誰が来たか見ることができる。二人で確認してみる。マスクをつけて帽子を被った男のようだが、顔はよく見えない。 「どちら様?」 「預かり物を取りに伺いました。」 「今開けます。」 お母さんは箱を持って玄関に、お姉さんも後をついていって、玄関の横のバスルームへ行く廊下に行き、相手から見えないようにちょっと頭だけ少し覗かせるようにして、男の顔を見ようとした。 「はい、どうぞ。」とドアを開けると、野球帽にマスクの男が、 「あ、どうも。それじゃ。」 「あの、それあなたの箱なのですって?」 「いいえ、自分は持ち主にとって来るよう頼まれただけなんで。」 男は軽く会釈すると、そのまま出て行った。 「変ね、持ち主が取りに来るんじゃなかったのかしら。ねえ、」 お母さんは振り返って信濃さんに話しかけようとしたが、信濃さんは、 「すみません、あの男を追いかけます。」と素早く靴を履いて出ていってしまった。お母さんはあっけに取られたけれど、間もなく我に返って、『まあ、信濃さんは後で何か言ってくるでしょう。』と思い、居間に戻って私に電話をかけた。勿論、繋がらなかったので、メールですぐに帰るよう書いた。 男の後を追いかけた信濃さんは、男が近くに停まっていた車に乗り込むのを見た。車には女が運転席に、助手席に男が座っていた。するとすぐに帽子の男は後部座席から出てきて、また 歩き出した。もはや手にあの箱は持っていない。女が運転する白のミニバンが走り去った後、その後ろを黒い車が続いて走り出すのを見届けた後、信濃さんは男の後をつけた。信濃さんが思った通り、男はあの空き家の方へに向かって行った。男は門の方には行かず、あの裏木戸に続く細い獣道に入って、そこから空き家の敷地内に入って行った。 二人はあの箱‐じゃなくて金庫‐を持って、私が監禁されている家へ来戻って来た。私はてっきり帰れるとばかり思って、あの用具入れから出された私は 「じゃあ、 さようなら」と言って出て行こうとした。が、男の人に肩を掴まれ引き戻された。 「まだ帰れないよ。」女の人が言った。 「でも、箱は持っているじゃん。」と私が言うと、 「この金庫開かないのよ。鍵はどこ?」 「え、鍵?」 「そう、鍵。鍵はあなたが持っているの?それともさっきの女?」 「え、鍵は誰ももっていないと思いますが…。」 女は怒りを必死に抑えて、「もう一度電話しな。」と私に言った。 「鍵を持ってくるように頼めばいいの?」 「そう。」 「またお母さんの所に持って行ってって言うの?」私が聞くと、男と女は顔を見合わせた。 「どうする?」男が女に聞いた。 「もう、あまり時間がないよ。」女が男に言った。 「仕方ない、ここに持って来させよう。金が手に入ればここは用無しだ。」 「この子と引き換えね。そうすればこの子を家に帰す手間も省けるわ。はい、電話して。」女は私に携帯電話を渡して電話をかけろと促した。私は信濃さんに電話をするが、今度はなかなか繋がらない。二人のイライラが募って今にも爆発しそうだった。何度かかけ直して、しばらくすると、 「もしもし。」と信濃さんの声がした。 「もしもし、信濃さん、助けて、あの箱の鍵がないと家に返してもらえない。」 「ばか、お前、何を言うんだ。」男が私の手から携帯電話を取り上げ、女にそれを渡した。 「ああ、ごめんなさいね、うちの娘が変なこと言って。あの箱の持ち主の方が箱の鍵も返して欲しいって、今から言う住所まで持って行ってもらえる?」 「ああ、鍵ですか…。あの、さっちゃんに代わって貰えますか?」 「あの娘、おトイレに行っちゃって。」女が言う。私はその横で男に口を塞がれたまま大人しくしていた。 「わかりました。今行きます。末広町三丁目………、ですね。今すぐ行きますから。」 「じゃ、お願いね。」女は電話を切ると、「これでいいわ。」女が言った。 「ああ、鈴木がお金を取ったとみんな思うだろうし。」 と男が言った直後に玄関のチャイムが鳴った。男と女は顔を見合わせた。 「早すぎない?」女はそう言うと、階段を下り玄関へ向かう。誰が来たのだろう? 仲間の男だろうか? 私はまたあの用具入れに閉じ込められた。まあ、信濃さんが来ればここから出してもらえるけれど、下手をすると信濃さんと二人でここに閉じ込められることになりかねない。何とかここから逃げる方法を考えなくちゃ。 そのちょっと前、お母さんは一通のメールを受け取ってとても驚いた。信濃さんが去ってから私に『早く帰りなさい』メールをした直後、信濃さんからメールが届いた。『さっちゃんはさっきの男らに連れ去られた可能性があります。二丁目の交番に行って。私も行きます。』と書かれていた。本当だろうか? と考えたが、なぜか信濃さんの言うとおりにした方がいいという気がして、それに従ったのだ。だが自身もよく事情がわからないので、お巡りさんへの説明はしどろもどろになってしまう。とうとう 「娘は誘拐されたんです。」と言ってまった。 「どういうことです?」 「娘はいつもこの時間には家にいるんです。でも、今日はいなくて。で、さっき電話があったんですよ。ほら、見てください、ここに着信履歴が残っているでしょう? それで娘が出て、犯人が娘を誘拐したから鍵のかかった黒い箱を男に渡せって。」 「はあ、箱をねえ。」 「あのそれでお金も要求して来ました。返して欲しければ今家にあるお金を全部集めて持って来いって。」 「それでお金は?」 「家にはあまりお金がない物ですから、ここに来たんです。」 「はあ、で娘さんの特徴は?」などとやりとりしている所に信濃さんが来た。信濃さんはすぐに説明し始めた。 「ああ、その子、家出じゃないんです。あのおそらく連れ去られたんだと思います。」 「思いますってねえ。あ、昨日の、またあなたですか。」 「あの、絶対誘拐されたんです。」お母さんが言い張る。「だって絶対おかしいです。いつも何処かへ行く時は必ず事前に行き先を私に知らせるんです。」 「そうです、何かあったに違いありませんよ。」信濃さんも。 「ちょっと調べて頂ければいいんです。」とお母さん。 「ちょっと調べるって言ったって。」とお巡りさん。 「あ、怪しいところがあるんですよ。これから行ってみませんか? そこに女の子がいたら」と信濃さんも頑張る。 「そうなんです、誘拐なんですよ。お願いします。一緒に行って下さい。」と しーさんも言い張るが、なかなか重い腰が上がらないようだ。そこへ 「あ、さっちゃんから電話です。スピーカーにしますから、静かに、絶対に口を開かないで下さい。」そう言ってお姉さんは電話に出た。 「もしもし。」 住所を言うと、女はすぐに電話を切った。 「やっぱり誘拐だわ。だって、私が母親なのよ、あの子の、あの電話の中の女は出鱈目を言っているの。」お母さんが心配そうに言った。 「あなたが出鱈目を言っている可能性もありますが。」 「私は本物だって証明できるわよ。ほら、これが免許証、保険証に…。」 「あの、本当に誘拐だったら困るでしょ。」と信濃さん。 「大体、鍵って何のことですかね?金銭目的の誘拐ではないってことですかね。」 「とにかく、この住所に行けばわかります、急ぎましょう。」 「行くだけは行きますけれど。」 「鍵は持っているの?」お母さんが信濃さんに尋ねた。 「鍵はあるにはあるのですが。でも持っていても持って言いなくても関係ないんです。」 「え?」お母さんは驚いた。 「行けばわかります。」信濃さんは冷静に言った。  ここでちょっと話を戻して、私が車で連れ去られて、あの家に着いた所まで遡る。  その時、私が車から降ろされて家に連れられて行くのを、道路の反対側から見ていた子供がいた。その子は、今日の午後、家族で出かけるはずが、父親の仕事の都合で駄目になって落ち込んで玄関の外に座って道路の向こう側の家々を眺めていた。その時一台の車が斜め向かいの家に入って行くのを何気なく見ていると、車から知り合いによく似た女の子が出て来た。そして「助けて」とその子が叫んだのが聞えた気がした。あの家に私と同じ歳くらいの女の子なんて住んでいない。それに何だか無理にあの家に連れ込まれたように見えた。  『あれ、絶対に石見さんだよね。あの家、何か怪しい人達が住んでいるから近づくなってお母さんが言っていたっけ。あれ、お父さんだったかな。ま、どっちでもいいけど、そのこと、知らせてあげなくちゃ。あ、入って行っちゃった。うーん、どうしよう。』 「お母さーん、」家に入ってその子はお母さんを呼んだ。 「千代子、まだ拗ねているの?もう諦めて、来週連れて行ってあげるから。」 「違うよ。お母さん、クラスの子があの例のお家に入って行っちゃった。あそこに入らない方がいいよって言ってくる。」 「何言っているの?クラスの子って誰?」 「高遠さん、春に転入してきた子。あの家に連れて行かれた、斜め向かいの奥の、あの家。あそこに近づいちゃ駄目だって前に私に言ったじゃん。」 「そんなこと言ったっけ?」 「とにかく、行ってくるから、すぐ戻ってくる。」 「仕方ないわね、そこにお母さんの鞄があるでしょ。中に携帯電話あるから、持って行きなさい。失くさないでね。何かあったら連絡して。三十分たっても帰って来なかったら迎えに行くからね。」 「はーい。」 「すぐに戻って来るのよ。」 「はーい。」  その女の子が自分の家から外に出た時、今から行こうとしていた家から車が出て来たのだ。 「あ、行っちゃった。」少しの間どうしよか考えたが、とりあえず行ってみることにした。駐車場を抜けて玄関のチャイムを鳴らしたが、何の返事もなく、誰も出て来なかった。もう一度押してみたが、やはり応答はない。『仕方がない』と一旦家に戻った。 「お母さーん。」 「まだ行っていなかったの?」 「うんうん、もう行ってきた。誰もいなかった。でも、車が戻って来たら、また行ってみる。」 「車はいつ戻って来るの?」 「そんなの、知らない。」 「そう、じゃあ、石見さんて子に電話してみたら?」 「あ、そうだね。そうする。」 そう言って電話番号を調べようとした時、『今日学校で石見さんが動画を送ってくれるって言っていた。』それを思い出すと、『そうだ、先にパソコン。』とコンピューターの前へ。  送られてきていた動画を見てみると、暗くて何だかよく見えないが、障子が開いて、ぬうっと人の頭が出て来た所はちょっと怖かった。『こりゃ、幽霊が出たって言うわけだ。』 「千代子、電話したの?」と隣の部屋からお母さんが怒鳴った。 「今からする。」と大きな声で返した。 そうだ、『電話番号は、ええと、あ、その前に自動車、帰って来たか見て来よう。』と家の外に向かって走った。『あ、やっぱり戻って来ている。いいや、このまま行っちゃえ。』と玄関に置いておいた鞄を持って急いで意を出た。  再びあの家の玄関のチャイムを鳴らすと、今度はそれ程待たずにドアが開いた。 「誰よ、こんな大事な時に。」と言いながら、女が出てきた。 「は?」女は目の前に女の子がいたので面食らったのだ。 「何よ、この子、あ、家を間違えたのね。さっさと帰って。」女がそう言っていると今度は男の声が聞こえた。 「おい、誰だったんだ?」男が二階から降りて来た。 「ええと、」女が返答につまった。 「何だ? 誰だ、お前?」と聞いた。男は背の低い、色白で細い目が吊り上がっている、髪の毛がつんつんした人だった。 「あのーちょっと前にここに友達が入って行くのを見たんですけど。」千代子が言った。 「は?」女の人は訳が分からないといった様子だった。 「友達の女の子がこの家に入って行ったんですけど、あなた石見さんのお母さんじゃないですよね。」 「お前何言ってるんだよ。帰れ。」男が言う。 「そうよ。帰りなさい。」と女。そして「何なの、この子?」と男に尋ねた。 「知らねえよ。」男は不機嫌そうな声で応えた。 「あの、石見さんの知り合いですか?」 「石見さんて誰?」女が言った。 「あの、ちょっと前に友達の女の子がここに入るのを見たんです。」 「そんな子知らないわ。じゃあね。」女の人はこう言いながら、千代子を追い出して扉を閉めようとする。千代子は追い出されまいと、ドアに足を踏み入れて必死で抵抗する。 「でも、ここに入って行くのを見たんです。」千代子は大きな声で叫んだ。 「何言っているの?そんな子いないって言っているでしょ。」女も追い出そうと必死だった。 「いいえ、見ました。」 「見間違いだろ。」今度は男の人がつっけんどんに言う。 「いいえ、そんなはずありません。」千代子は言い張った。 「その子ならね、もう帰ったのよ。」女の人が面倒くさそうに言った。 「ええ、本当に?でも、靴がそこにあるのに。」千代子が指差した先には女の子の物らしい靴があった。二人は顔を見合わせてどう言おうか考えているようだった。 「あの子はね、悪い子だから今おしおきしているのよ。あなたもされたい?」女の人がこんなことを言い出した。千代子を怖がらせようとしているらしい。 「あの、会わせて貰えませんか。私、石見さんにどうしても言わなくちゃいけないことがあって。」私は懇願するように言った。 「今あの子には会えないわ、代わりに言っておいてあげる。」と女。 「あの、でも、なるべく本人に言いたいんだけど。」まさか、この家の住人は怪しげだから近寄らない方がいいとは面と向かって言えない。 「とにかく、今こっちは忙しいのよ。帰って。」女の人は強引に私を追い出そうとした。 「あ、じゃあ、家に戻ってお母さん連れてきますから、そしたら会わせて貰えますか?」千代子も引き下がらない。     「は?」これには少し慌てたらしい。 「わかった。会わせてあげるわ。上がって。」女が観念した。 千代子は靴を脱いで女の後についていった。千代子の後ろから男がついて来る。廊下の右にある階段を上って行くと、二階の廊下の奥に、取っ手が外から紐でぐるぐる巻きにされた扉が目に入った。女の人はその扉の前に立って紐を解き始めた。千代子は後ずさりして逃げようかと思ったけれど、後ろから来ていた男の人に「早く行け。」と脅された。 「お友達が来たわよ。」女の人が部屋の中に向かって言った。男の人が私の腕をとってその部屋の中へ押し入れた。「山川さん?」中には高遠さんがいたのだった。女の人が千代子の手から鞄をもぎ取って「預かっておくから。」と言った。二人は外に出ると、男の人が、「仲良くしていろよ。」と言って扉を閉めた。外で紐を巻いているような音か微かに聞こえる。その後階段を降りる音がしたのが最後だった。そこは部屋ではなくて物置の様だった。 「あの人達、ご両親でも親戚でもないよね。」と千代子は聞いた。さらに「何でこんな所にいるの?」と聞いた。 「山川さんこそ、何でここにいるの?あの人達の知り合い?」 「いいえ、河内さんがこの家に入って行くのが見えたから、『ここは胡乱な人達の溜まり場だから関わらない方がいいよ。』って言いに来たの。私の家すぐそこだから。」 「それで……ええと……何で……。」 「玄関に靴があったから『絶対にいるはず。』って言い張った。会わせてって。」 「そしたら、こうなったのね。」 「高遠さんは何でここに?」  高遠さんは空き家のことをかいつまんで話してくれた。 「えーじゃあ、やっぱり、ここの人達怪しかったのね。そんなこと言うの私の両親だけかと思ってたけど。ご近所の評判は大事ね。」 「でも、どうしよ。信濃さんが気付いてくれるといいんだけど。」と私。 「私、お母さんに『三十分して帰って来なかったら迎えに来て』って言っておいた。でも私のお母さん大体いつも三十分が一時間になるからなぁ。」と山川さん。 「迎えに来るって、ここに?」 「そう。」 「来ると思う?」 「うん。一時間もすればね。この家に行くって言って出て来たし、おまけに、gpsだってそう言うだろうし。」「gps?」 「鞄とられたけど、このベルトに付けた物、この部分にgps機能がついていて私がいる所が判るんだって。私、自分の携帯もってないから。お母さんが、中学生になるまでは携帯禁止だって。だけど、これはいつも体のどこかに着けていろって。」 「へえ、山川さんのお母さん凄いね。」 「いや、これ‐gpsはお婆ちゃんが。あ、そうだ、鞄取られたんだー。あの中にお母さんの携帯が入っているのに。」 「大丈夫だよ。山川さんのお母さんが来てくれれば。」 「でもその前に逃げられないかな。だってあの鎖、ドアノブと横の壁に打った釘みたいな突起にくるくる巻き付けてあるだけだよ。」 「うーん、どうするの?」私にはまだ話しが良く見えない。 「少し力を加えれば緩むんじゃないかな。」 「でも、あんまりばたばたやると、下に聞こえるよ。」 「そうだね。でも、ちょっとやってみない?なるべく静かにさ。」 「そうだね。」とふたりで取っ手を回したり、扉を押したりしてみた。 「ここってさ、前にも誰かを閉じ込めていたんだろうね。」と山川さん。 「えっ」私はぎょっとした。「何で?」 「だってさ、そんな都合良く人を閉じ込めるなんてできると思う?」 「そうか、それで私をここに連れて来たのか。」 「でも、前に誰か閉じ込められたなら、多少紐も緩んでいるかもしれないから。」 「よし、じゃ、やってみよう。」 私達は扉を押したり引いたり、取っ手を回したりし始めた。 「ところで、あの本、私も読んだんだ。面白い話もあったよ。」 「ああ、さっき話した空き家、初めてあそこに行った時、私もあの本を思い出した。」 「へえ、見てみたいな、今度連れて行ってよ。」 「うん、ここを出たらすぐに一緒に行けるよ。ここが何処だかわからないけど。」 「ああ、学校出て、図書館へ行くでしょ。あの大通りをずっと行くの。」 「あ、その図書館へたまに行くよ。そうか、あの大通りをね。」 「その黒猫も見てみたいな。家も昔、猫飼っていたんだ。死んじゃったけどね。」 「それは残念。あ、ちょっと緩んだみたい。」 「もう少し。」 「うん、ちょっと強く推してみよう。」 二人で力を込めて扉を押すと、少し隙間が出来て、何度もばたばたと押したり引いたりしているうちに、それがだんだん大きくなってきた。だがもう少しという所で紐が引っ掛かってしまったのか、どんなに押してもそれ以上開かなかった。 「出られるかな?」私はその僅かな隙間から頭を通してみた。額と後頭部の所に少し痛みが走った。だが、少しだけ無理をして頭を滑らすと、するりと頭が外へ出た。体や手足はすんなりその隙間から出られた。 「やった。」と小さい声で私は言うと、「早く、おいでよ。」山川さんに言った。 「うん。」と返事をして、頭を隙間にはめ込んだが、そこで詰まってしまった。 「ごめん、無理みたい。動けなくなっちゃった。うう、痛たたた。」頭がつっかかっている。 「大丈夫?この紐、解けないかな。」私は何とか紐を解こうとした。 「う、痛い。あっ。何とか抜けた。」ふうと山川さんは安堵した様子だ。「でも、もとに戻っちゃた、そっちには行けないや。紐、解けないかな?」山川さんは私に尋ねた。 「駄目、こんがらがって結ばっちゃったみたい。切るものがないと。でられそうもない?」 「うん、頭がどうしても引っ掛かって。でもショックだな。私の顔そんなに大きいかな?」 「頭が大きいんじゃない?どうしても駄目?」 「うん、無理だと思う。」 「待ってて、切るもの探してくる。」 「それより、ここから逃げて、誰か連れてきて。」 「でも…。」 「切るものが見つかるか分からないし。多分それが一番早いと思う。」 「わかった、でもちょっとだけ。」 私は静かに二階の突き当りの部屋に入った。ハサミやカッターみたいな物がないか探してみたが、見事に布団しかなかった。それもこの部屋いっぱいに敷き詰められていて、数人の人がここで寝泊まりしているようだった。ベランダがあって、そこから外に出られそうか見てみた。ベランダの端、家の壁づたいにちょうど脚立が置かれている。どうも、ここに寝泊まりしている人達は、ここから出入りできるようにしていたらしい。私は急いで戻って、 「ベランダから降りられそう。直ぐに誰か呼んでくるから、それまで辛抱して。」 「わかった。待っているから。気を付けてね。」 「うん、そっちもね。」と私が言ったとき、玄関の呼び鈴が鳴った。 「今、玄関のチャイム鳴った?」と山川さんが尋ねた。 「うん、誰か来たんだ。」私が応えた。 「あの人達の仲間かも。早く、行って。」 「うん。」 私は急いでベランダまで来た時、もう一度玄関の呼び鈴が鳴るのを聞いた。扉を開く音がした時、私は脚立を降り始めていた。 「うっ。」 脚立を降り切った時、後ろから誰かに口を塞がれた。首に手を回されているので息苦しい私は手足をばたつかせながら、後ろに引きずられていった。誰かに捕まったらしい。暫くじたばた抵抗して手を振りほどこうともがいたが無駄だった。半ば引きずられる様に裏の道路まで来ると、私を車の後部座席へと押し込んだ。先程連れ去られた時の車とは違う、黒い、小さな車だった。 「さて。で、どこにあるの?」男の人は運転席から後ろを向いて尋ねた。 「誰?今度は何?」私は聞いた。 「とぼけたって無駄だよ。君があそこに出入りしていたのはわかっているんだ。横取りしようっていったってそうはいかない。」 「あの、何をいっているのかさっぱりわかりません。」 「そうか、じゃあ、とりあえず一緒に行こうか?」 「行くって、何処へ?」 「決まっているだろ、あの空き家さ。」 「へっ。」 「あそこにあるんだろ。」 「は?何が?」 「とにかく、一緒に行こうか。」 何が何だか分からないが、この声は聴いたことがある、あの空き家で。 「あの、今の家に友達が待っているのだけど。」私が言い終わらないうちに発車していた。男の人はその後あの空き家に着くまで一言も喋らなかった。  あのお屋敷の前辺りに車を停めた男の人は、私を抱える様に車から降ろし、そのままあの空き家の門の中へと入っていった。庭の方から開け放されたあの畳の部屋へ入って行こうと縁側に足を掛けた時、後ろから声が聞えた。 「もう、諦めたら、宮田。その子を放しなさい。」信濃さんの声だった。男の人は私を抱えたまま振り返った。 「何だ、お前。ふうん、そうか、やっぱりお前か。」男は縁側の上に立っていた。 「俺の?それとも鈴木の?」信濃さんはあの石の前あたりにまで来ていた。 「どうだっていいさ。」 「あんたが鈴木を殺したの?」 「さあ、飯倉か小林か。それより、金庫二つ持って来いよ、大きい方の金庫の鍵もつけて。」 「金庫ねえ。」 「この子と交換。」 「あのさ、さっきからパトカーの音聞こえているよね?もう逃げられないよ。」 「早く金庫持って来い。」しびれをきらした宮田が叫んだ。  するとそこへ信濃さんの後ろの方から声がした。 「その子を放せ。」西村さんの声だ。「もう警察が来る。」 段々大きくなってきていたパトカーのサイレンが止んだ。と同時に何か黒い物が欄間から宮田の方へ飛び出てきた。一瞬驚いた宮田はさっちゃんを投げるように手放して、空き家の玄関口の方へ逃げた。そこから裏口へ出る気だろう。あっと言う間にこの場から消え去った。 「大丈夫?」私はさっちゃんを抱き留めながら言った。 「大丈夫です。」擦れた声でさっちゃんが応えた。警察官の人がこちらに向かって来ているのが見えた。 「沙知。」警官に続いてやって来たお母さんの声だった。私はお母さんにしがみついた。信濃さんが警察の人と話しているのが見えた時、私は急に思い出した。 「お母さん、山川さんが、早くあの家に戻らなくちゃ。」 お母さんは私を優しく放すと、顔を見ながら、 「大丈夫。山川さんは何ともないわ。山川さん、心配していたわよ。結局あそこに残った自分が先に助かったって。こんなことなら逃げてなんて言わなきゃ良かったって。」 「ああ、良かった。でも、何で、どうして分かるの?」 「お母さんたちがあの家に入っていったら、あの子が物置にいたのよ。お巡りさんがびっくりしていたわよ。本当に監禁事件だったって。」 「お巡りさんと行ったの?」 「そうよ、お巡りさんを説得して一緒にあの家に行ってもらったの。後で山川さんのお母さんも来たのよ。」 「どうやってあそこがわかったの?」 「信濃さんが教えてくれたのよ。」 「信濃さんが?」 「そう、でも驚いたわ、監禁されていたのは沙知じゃなかったから。でも、その後、信濃さんが、あなたはあの空き家に連れて行かれたって。だから私も来たの。」 「はあ、良かった。」私は急に体中の力が抜けていく感じがして、もう一度お母さんにしがみついた。そして「ポーがね、助けてくれたの。」とお母さんの耳元で囁いた。 お母さんはきっと何のことか分からなかっただろう。けれども、「そう、良かったね。」と優しく私に言った。 十 物置小屋(次の日曜日の出来事)  次の日、まだ昨日の出来事の興奮も冷めぬうちに、信濃さんから空き家に来ないかと誘われた。信濃さんから私のお母さんにも一緒に来てほしいと言われたけれど、『ごめん、明日は抜けられない用事があるから無理だわ。日を改めてお伺いしますって言って』とお母さんが言うので、その通り伝えた。私は代わりに山川さんも一緒に行っていいかと信濃さんに尋ねると、快く承諾してくれた。 「お母さんが、後日改めて信濃さんにお礼に行きますって。」と私は電話口で信濃さんに伝えた。 「そう、じゃあ、また今度ね。あ、空き家に直接行かないで、山城さんの家、おばあちゃん家に寄ってね。」 「お屋敷に?」 「そう、いつもの別館のほうだけれどね。」  私はあの八角屋根のお家にまた行けると思うと嬉しかった。急いで山川さんに連絡すると、山川さんはとても喜んで「すぐに行く。」と慌てて電話を切ったので、私はもう一度かけ直さないといけなかった。 「じゃあ、そのお屋敷の前で待ち合わせしよう。」と山川さんが言うと、 「一時半ごろでいい?」 「うん、それなら余裕で行ける。」 「場所分かる?」 「うん。何となく。地図見るし、分らなかったらお母さんに詳しく聞く。」 「じゃあ、一時半に門の前で。」 「うん、じゃあね。」  私が電話を切ると、お母さんが、 「山城さんの家まで一緒に行くわ。昨日の今日だから、まだ心配で。」 「大丈夫だよ。いつも学校へ行っているんだし、その途中だと思えば。」 「それはそうだけど。」 「そんなに心配しなくて平気だよ。」 「そう、でも途中まで一緒に行く、そしてそのまま出掛けるから。」 「わかった。」 「帰りは遅くなるの?」 「そんなに遅くならないと思う。」 「そう、じゃあお母さんの方が家に早く帰っているかも。」 「うん、帰る前に連絡する。」 「何かある前に電話してね。」とお母さんは言うが、それは無理だろう。  二人で家を出た直後、「やっぱり、一緒に行くわ。信濃さんにご挨拶もしないと。」などとお母さんは言っていたが、途中で結局、 「遅れそうだわ。信濃さんに会うのはまた今度にする。よろしく言っておいて。」と言い出して、「遅くなりそうなら、信濃さんに送ってもらうか、私に連絡するのよ。迎えにいくから。気を付けてね。」 「お母さんこそ、事故にあわないでね。」と私が言うと、お母さんは私を軽く抱きしめた後、仕方なさそうに微笑んだ。それからお母さんは私の頭をポンポンと軽く叩いて、「気を付けるのよ。」と念を押して、通りの向こうへと急いで行った。 お母さんと別れると、お屋敷はもうすぐそこで、門の前に誰かが立っているのが見えた。きっと山川さんだろうと思って走りだして空き家の前を通り過ぎようとした時、私は足を止めた。空き家の塀の上にポーがいたのだ。「ポー。」と私が手を差し出したのと、「高遠さん。」と向こうから声が聞こえたのがほぼ同時だった。 ポーはすっと塀を降りて、空き家の中へと行ってしまった。 「途中で止まるから、どうしたのかと思った。」山川さんが近づいて来ながらこう言ったのが聞こえた。 「ああ、今、猫がね、そこにね、いたんだけれど。まあ、いいや、行こう。」 「なあんだ、良かった、また変なもの見たのかと思ったよ。」 「違う、違う。大丈夫。早く、行こう。」私たちは歩き出していた。 「本当に大きなお家だねぇ。」左側の塀の奥を見ながら、山川さんが感心したように言った。 「本当。大きいよね。」私は内心、山川さんがそう思ってくれてほっとした。この家が大きいと感じるのは自分だけではないと知って安心したのだ。 それから話をする暇もなく、すぐに門の所までやって来ると、 「おー、来た、来た。」と信濃さんが玄関から外へ出て来た所で、門を開けて私達を通してくれた。 「また、上から見ていたのですか?」と私は八角の屋根を指さして尋ねた。 「ははは、違うよ。丁度お婆ちゃんが、外を見て来いって私に言ったのよ。」 「お婆ちゃん?」山川さんが不思議そうに聞いた。 「ああ、ここのご主人。私がお婆ちゃんて呼んでいるの。あなたたち二人が空き家に来るって言ったら、嬉しそうに、一緒にお茶を飲みましょうって。」 「山城さん、大丈夫ですか?」私は心配を隠さずに信濃さんに聞いた。 「うーん、どうだろう。ま、とにかく入って。」  私達は信濃さんに促されてお館に入っていった。いつものように応接室に通されて、私達が入って行くと、そこには意外と多くの人がいた。正面の一人掛けの大きな椅子にお婆さんが、その横の肘掛椅子に瀧さんが、その反対側の客用の一人掛けの椅子には見知らぬおじさんが、そして、入口に背を向けている長い客用ソファの端には西村さんが(顔をこちらに向け手を振ってくれた)各々、飲み物やお菓子などを手にくつろいでいたのだ。 「まあ、何だい、この汚い子供達は、一体どうしてここへやって来たのかね?」  私達が「こんにちは」を言う前に正面から大きな声が飛んできたので、山川さんは本当にびっくりしてしまったらしい。思わず私の手をぎゅっと握った。 「まあ、さっき説明したでしょ。隣の空き家に連れて来られた子だって。」と瀧さんが言うと、 「まあ、隣にはもう何年も誰も住んでいないのよ。」とお婆さんが大声で言う。 「ほら、子供達が来るって言ったら、「お茶を一緒に」って、山城さん、言ったでしょう?」と信濃さん。 「まあ、何を言っているの。この子達は私の子じゃないわ、さっさと追い出して。」  山川さんは緊張していたのか、一旦は離していたその手で、今度は私の肘の辺りを掴んだ。 「まあ、まあ、そんなこと言わずにこの子達にお茶を出してはどうですかね。」と見知らぬおじさんが言った。どうやらこのおじさんはお婆ちゃんの知り合いのようだ。 「何を言うのです、あなたまで。あなた警察なんだから、この子達をさっさと追い出して頂戴。」  山川さんはいよいよ緊張して私の肘を両手で握り締めた。 「つい先程まで、この子達が来るのを、あんなに楽しみにしていたじゃありませんか。」と西村さん。 「まあ、何を言っているの? この子達が出て行かないなら、私がここから出て行くわ、瀧。」 「はいはい、ではお部屋に参りましょうか。」瀧さんは「ここはまかせて」と言わんばかりに、私達の方へ手を振り下ろす身振りをして、立ち上がったお婆さんに付き添った。二人が部屋から出て行こうとしているのを目で追っていたとき、山川さんの顔が私の目の中に入った。相当驚いていた山川さんの目はまん丸に大きく見開いていて、今にも飛び出しそうだった。 「あのね、お婆ちゃん、ちょっとぼけちゃっていて、たまにわからなくなっちゃうんだ。」私は山川さんの耳元で囁いた。山川さんは「え?」と小さい声を出して、また驚いたようだった。 「本当につい今しがたまでは、子供達が来るって、喜んで嬉しそうにしていたのよ。」と二人が出て行ってしまった後に閉じられた扉を見つめながら、信濃さんが言った。 「ここの所、だんだんひどくなるようだね。」と西村さんは言った。 「いつからなんだい?」とおじさんが信濃さんに聞くと、 「私が来たときはもう、でも、今よりはましだったかな。」と信濃さんは問いかけるように西村さんの方を見て言うと、 「ああ、そうだね、僕が来た頃はそれ程でもなかったのだけれど。ここ半年、いや三か月くらいかな、あの認知症が進行してきたのは。」西村さんが考えながら返答した。 「でも、斎藤のおじさんのことは覚えているんだ、お婆ちゃん。」と信濃さんが今度はおじさんに問いかけた。 「ああ、だからボケてきているなんて気付かなかったよ。ただ、…少し可笑しな事も言ったが。」おじさんはそう言って少し考え込んだ。どうやら私と山川さん以外、皆このおじさんと知り合いらしい。 「あの、」と私が言いかけると、 「ああ、こちらは『斎藤のおじさん』。なんでか分からないけれど、美樹がそう呼ぶもんだから、ああ、私の知り合いがね、いつもそう呼んでいるの。」と信濃さんが教えてくれた。 「はあ。」と私。 「斎藤のおじさんは警察の方…だったけれど、今は探偵さんよ。」  信濃さんが言うには、斉藤のおじさんはもともと優秀な警察官で、部下の不手際により責任をとる形で辞職したのだそうだ。警察を辞めた後は探偵業を始めたが、さすがに優秀な元警察官だけあって、探偵の腕は良く、資産家の人々に雇われて仕事をすることも少なくないらしい。 「この家の人に頼まれて仕事をしたこともあるんだよ。いつか話してあげよう。」と斎藤さんは私達に向かって言った。 「さっちゃんを車で連れ去った女…ああ、山川さんも知っているあの女の人は…あれ、山川さんて下の名前何だっけ?」 「千代子です。」 「じゃあ、千代子ちゃんね。千代子ちゃんを閉じ込めた女は、小林亜里沙っていうんだけれど、斉藤のおじさんはその小林亜里沙を調べるように美樹に頼まれていたんだよ。美樹は、さっきも言った、山城美樹と言って、私の知り合いなんだけどね。だから、斎藤のおじさんはずっと小林亜里沙に張り付いていたってわけ。」信濃さんは私達に紅茶を淹れてからそう話し出した。 「さっちゃんを連れ去った男の方は飯倉、空き家で亡くなったのは鈴木。詐欺グループのまとめ役の榊はさっちゃんがぶつかった男。で、何度もあの空き家に現れた、さっちゃんをあの空き家に連れて行ったのが、宮田って名前。」と教えてくれた。「そして、」と言って信濃さんは斎藤のおじさんの方を見た。それから斎藤のおじさんがこう話してくれた。 鈴木と小林は同じ中学校、高校を卒業、宮田は二人より一つ年上で、同じ高校に転入して来た。宮田、鈴木、小林は現在同じ短大生。宮田が夏休みの間『金になるバイトがある』と言って、小林をその『バイト』に誘った。鈴木は小林に誘われて仕方なくその『バイト』、つまりあの詐欺グループに加わった、小林と鈴木はそのころ付き合っていたのかも知れない。ただ鈴木は仲間に入って一週間も経つと、もう詐欺にうんざりして、すぐにでもグループを抜けたくなっていた。けれど休みの間だけと小林のために我慢していたらしい。夏休み中ずっとその詐欺グループのもとで働いていた三人だが、思った程のお金が手に入らなかったんだろう。大学の後期の授業が始まる前にもっとお金が欲しかった小林は、榊の金庫番の飯倉に目を付けた。飯倉は榊のことを快く思っていなかった、まあ、榊さえいなけりゃ自分がグループのボスになれるから、何とかし榊を蹴落とそうと考えていた。そんな小林と飯倉が、宮田と鈴木を巻き込んで、集金している榊からお金を盗ろうと目論んだ。ただ鈴木はもうこれ以上詐欺なんてしたくないと本気でグループを抜けようとしていた。そのために詐欺に関わる人物や証拠を集め始めて、それを電子媒体で保存し始めた。それに気付いた宮田と小林が『詐欺じゃなくて大金が手に入る方法があるから、それに、夏休みが終わるまでの約束だろう』と鈴木を丸め込んで計画を進めた。榊はある程度集金したお金を溜めてから上納するので、それまでの間に飯倉と宮田が入れ物ごとすり替えていく。最終的にお金の紛失を榊のせいにして、飯倉が榊の後釜に、小林と宮田、鈴木はある程度の大金を手に入れられるはずだった。でもその前に鈴木は我慢の限界にきて、まず榊の所‐つまり詐欺軍団が一緒に住んでいた家、そう、さっちゃんと山川さんが監禁されたあの家だ、その家を飛び出すと、あの空き家に一人で住み始めた。そうなんだ、幽霊の正体は鈴木だったってわけだ。そしてそれを知った宮田がちょくちょくあの空き家に入り浸るようになった。飯倉は面白くなかったが、計画を成し遂げたかったので何も言わなかった。そして小林が二人を訪ねて空き家に行った日、それがさっちゃんが初めてあの空き家に行った時だった。斉藤のおじさんは小林をつけていたから、あの時空き家でさっちゃんを見かけていたのだ。 「じゃあ、あの時、あの空き家にやって来たのがその小林愛っていう人だったんだ。」私は思わず声を上げていた。「そして私が見た幽霊は斎藤のおじさんだったんだ。」と叫んだのだが、すぐに、「あ、すみません、斎藤のおじさんなんて言っちゃって。つい…。」と小さな声でつけ加えた。 「いいんだよ。みんなそう呼ぶんだ。」 「俺は斎藤さんって呼ぶけどね。」 「ははは、そうだな。」斎藤のおじさんは笑った。 私が最初にあの空き家に入っていったあの日、あの土曜日。私があの石の裏にいた時、女の人がやって来て、その間に私はそこを立ち去ることができたのだった。あの時やって来たのが、小林愛で、そして斉藤さんはその小林をつけていた。私が空き家を離れようとしていた時に見た男の人の幽霊はこの斎藤のおじさんだったとは。 そして、その次の日は、初めて信濃さんに会った日だ。そうか、信濃さんに会って、まだ一週間程しかたっていないのだ。それは不思議なことだった、だってもうずっと昔からの知り合いみたいな感じがしていたから。そう言えば、山川さんと初めて話したのもその頃だった。たった一週間で随分知り合いが増えたものだ。  「次の日さっちゃんと空き家の裏口で別れた後、すぐにあの裏木戸から直接空き家の中へ入って、様子を伺った。誰か来たのは分かっていたから、何か話が聞こえるかと思ってね。」と信濃さんが話し始めた。 やって来た二人の男は榊と飯倉で、詐欺で奪ったお金を集めるために、直接出向いてあの空き家に来たらしい。あの日榊は元締めに上納しようと結構な金額を所持していたらしいから、飯倉が持たされていたあの金庫‐さっちゃんの言う道具箱は、重かったんだろうね、飯倉が文句を言っているのが聞こえた。そして宮田と鈴木が榊にお金を渡したが、それが少しばかり予定より少なかったらしいんだ。榊がそのことを大声で怒りだしたから、話は良く聞こえたけれど部屋の中の様子は見えない。だから榊が怒っている間に外へ移動して部屋が見える所に行った。あの開け放しの畳の部屋で榊がもう一度中の金額を確認した後に金庫にいれられ、その金庫は宮田によってすり替えられたんだ。つまり、詐欺で得た金が入った金庫と全く同じ金庫を用意していてね、そして鈴木があの床の間の板の下に入れておいた。それを榊に渡して、代わりに本物を宮田がその床の間の下に隠した。榊はその偽の金庫を飯倉に持たせて二人して連れ立って帰る途中で、榊がさっちゃんと通りの角でぶつかった。榊と飯倉を車で待っていたのが小林だったから、斎藤さんはそれを見ていた。 「やっぱり同じ箱を見ていたんだ、男の人にぶつかった時と、空き家のあの石の後ろからと。」と私は呟いた。  信濃さんは話を続けた。 榊と飯倉が空き家を出て行った後、つまりあの角でさっちゃんがその二人に会った‐ぶつかったんだっけ‐その頃、私は玄関の方へ回って今来たような振りをして言った。 「またここにいるの?勝手にここに入らないで下さいって、家主が言っているって先日言ったでしょ。」 「あ、俺達も今来た所で、これから家主に挨拶に行こうかって言っていた所です。」と宮田が愛想良く言った。「ここを貸家にしないかってね。」 「そういう話なら三井さん本人に言ってくれる?隣の家よ。」 「取り次いで貰えませんか?」 「ああ、今度聞いておくわ。」と私が言っている間に宮田の携帯電話が鳴った。 「あっ、そこを私が見たんだ。」また私はつい大きな声を上げてしまった。 そうだった、それであの時、私は信濃さんがあの男二人の知り合いだと思い込んだのだった。で、すぐに空き家を出て行ったのだ。 「へえ、さっちゃんがそれを見ていたとはねぇ。」信濃さんは驚いていたが、その続きを話し始めた。 宮田が誰かに呼び出されて‐それは榊で、宮田は車に乗る所を斎藤のおじさんに見られている‐空き家を出て車へ向かった後、鈴木が口を開いた。 「あんた…、この空き家の持ち主の所で働いているんだよね? この空き家の金庫の中に小さな金庫が置いてあったのを知ってる? この空き家の持ち主の物だと思うんだけど…。重いから何か入っているのは確かだけど、鍵がかかっていて中はわからない。持ち主に返したいんだけど…。でないと宮田のやつ何でも人の物を盗ってっちまうからな。」最後の方は小声で呟いた感じだったけれど、そう聞こえた。 「ああ、そう、では家主に聞いてみるわ。何処にあるの?」 「こっち。」と家の玄関の辺りに向かう。玄関の奥には小さな納戸のような部屋があり、そこに小さなとても古い金庫が置かれていた。 「この古い金庫の鍵は開いていた。それで、中にこれが。」と中から金庫を取り出した。「こっちの方の鍵はかかっている。あ、似たような金庫を持っているから分かるんだ、大きさが違うけど。こっちの方が倍くらい大きいかな。それにこれ、すごく重たいから。あんたじゃ持ち上がらないかも。」 それ程大きな金庫ではないが、確かに凄く重たかった。持ち上げることはできるけれど、これを持ってお屋敷まで行く気にはならなかった。 「僕が持って隣まで行く。」 「え、いいの?」 「うん。」軽く頷きながら鈴木が応えた。 「じゃあ、お願いしようかな。」 でもその前に、私はできる限り空き家の状況を見ておこうと思い、鈴木にそう伝えた。 「でも、この前も結構見たし、何も変わってないよ。」 「そう、じゃ、あの庭に面した部屋だけもう一度見て帰る。」と私は部屋のある方へ歩き出した。 「あ、それならちょっとお願いがある。」鈴木は私について来ながら言った。 「何?」と私は尋ねた。私たちは丁度その部屋の前の庭に来ていた。 「ああ、ちょっと待って。」と言ってあの床の間の板の下から先程と似た様な金庫を出してきて、 「これを、少しの間預かっていて貰えばいかな? さっきの金庫と似ているけど、あそこまで重くないから、持てると思う。」 「わかった、じゃあ、これは私が預かるわ、今持って行くけれど、いい?」 「明日か明後日には必ず僕が取りに行く。それまでの間だけ。」 「それなら、本館の方じゃなくて別館に取りに来て。あの大きいお屋敷の方じゃなくて、八角の屋根の建物の方。」 「分かった。」 「あ、じゃあ、さっきの金庫は持って貰える?」 「よし、行こう。」 鈴木は金庫を持って玄関から外へ出るが、門の方には行かない。 「こっちの方が近い。」 「へえ、良く知っているね。でもあの扉開いたっけ?」 「ああ、この前力ずくで開けてみた。でもあの家の敷地には入ってないよ。」 実は玄関を出て真っ直ぐ門に通じる(右に曲がる)石畳をはずれ、草の茂った所を真っ直ぐ進んで行くと、低い塀にぶち当たる。この塀は角度を変え裏木戸のある塀へと繋がっているのだが、あの塀と同様ぼろぼろで、こちら側は蔦がびっしり這えている。その蔦のせいで分かりづらいのだが、そこに扉がある。裏木戸も古くなって開けにくかったが、この扉はそれよりも頑丈そうで、さらにこびりついていて開きそうになかった。鈴木は力を込めてその扉を押した。空き家からお屋敷に行くのには、ここを通るのが一番近道だった。正面を回るより遥かに早いし、裏木戸を使うよりも早いだろう。だが、空き家になってから、この扉を使うことはなくなっていたのだろう、錆びついて開かないものと思った。 「へえ、私が前に押したときにはびくともしなかったのに。」 「そりゃ、あんだじゃ無理だ。」そう言って鈴木は置いておいた金庫を持つと扉の向こうへ移動した。私もそれに続いた。お屋敷の側に塀はなく、ただ高い木々が植えてあって、敷地の境界になっている。お屋敷の敷地にはいって館の方へ向かおうとした時、私達は声を掛けられた。 「あれ、どうしたの?」西村さんだった。お屋敷の西側の木を切っていたのだという。西村さんは鈴木の代わりに金庫をお婆ちゃんの所へ持って行ってくれることになった。私は鈴木からの預かり物を持って、「じゃあ、明日か明後日にこっちの方に取りに来て。」と私は八角屋根の館の方を指さして鈴木に言った。私達はここで別れ、鈴木は来た道を戻って行った。さっき鈴木が開けた空き家の塀の扉は、今度は西村さんがお屋敷側から押して閉めてくれた。 「その時まさか鈴木が私にあの詐欺で得たお金の入った金庫を私に預けたとは思ってもみなかったから、後で本当に驚いた。鈴木はあれを榊に返すつもりだったのか、小林にあげるつもりだったのか。自分でもどうすればいいのか分からなかったのかも。」信濃さんは考えながらそう言った。 色々なことが次々起きて、私は信濃さんの話を聞きつつ、頭の中で整理しなくてはならなかった。私と山川さんは瀧さんが座っていた長い肘掛椅子に二人で腰かけていたのだが、その時ふと山川さんの顔が目に入った。山川さんは目をきらきらさせて話を食い入るように聞き入っているらしい。どうやらこの事件に興味があるようだ。 信濃さんが知っているのはこの時点でここまでだったので、斎藤さんが後を引き受けた。 榊と飯倉を乗せた車はすぐに発車せず、しばらくすると、宮田がやって来て、車の中へ入った。運転席の小林と合わせ四人は何やら話していたようだが、宮田が車を降りると車はその場を去った。勿論、斎藤のおじさんはその車を追った。三人は詐欺グループが生活しているあの家に戻って、それから夜までは何も動きはなかった。 暫くすると宮田が車を降りてまた空き家に戻って行った。榊、飯倉、小林は君たち二人が監禁されたあの家に帰った。そこには詐欺の仲間が共同生活を営んでいて、多いときで十数人がこの家に泊まっていた。ただ、榊はその家には住んでおらず、近くのマンションに一人で住んでいた。だがこの日から詐欺の仲間達は別の場所に移っていて、飯倉と小林の二人だけだった。本当なら鈴木と宮田も一緒のはずだったが。次の週には別の連中がやって来るのだろう。そうやって詐欺が繰り返されているのだった。 さて、その晩遅く、飯倉と小林の二人は車でまたあの空き家まで行った。私はその車の後をついて空き家まで行き、二人の車の近くに車を停め、空き家の中に入って行くのを追った。私が二人の姿を捉えた時にはもう飯倉が鈴木に掴みかかっていた。暗がりの中、声が聞こえる所まで近づいて行った。 「お前、なに自分が何やっているか分かっているのか?」飯倉の声だ。 「自分こそ、何をしようとしているのか分かっているのか。」鈴木も言い返す。 「俺達を裏切る気なのか?」 「お前こそ、俺たちを危険に曝しているじゃないか。金を盗られた榊は黙っていないぞ。」 「お前が言わなきゃ誰が盗ったかなんて分からないさ。」飯倉がこう言った次の瞬間、鈴木は突き飛ばされていた。鈴木は倒れたまま動かなくなった。 「ちょっと、何するのよ。」と小林が飯倉に言い、鈴木の方へ駆け寄った。私の方からは小林が倒れた鈴木を介抱しているように見えた。飯倉は「宮田にそいつを始末させろ。」と小林に言うと、足早に門の方へ向かい、その場を去った。 「ちょっと、大丈夫?」と小林は鈴木の顔をバチバチと叩いていた。良く見えなかったが、鈴木はまだ生きているように見えた。まあ、わからんがね。ただ何か小さな呻き声が聞えたような気がした。 「一体、お金を何処にやったのよ。私だけには教えなさいよ。」とまたしても小林は横たわっている鈴木の顔をバチバチと叩き始めた。「何処なの?」と言いながら、少しの間叩き続けたが、その後小林は鈴木の上に覆いかぶさった。私の所からでは何をしているのか見えない。小林はその時鈴木から何か聞いたのかもしれない。だが実はその時、小林は鈴木の口を塞いでいたのかもしれない。それとも小林が何か聞いたから、口を塞いだのか。後で警察の知り合いから聞いた話だが、小林の着ていた洋服の袖口辺りに鈴木の唾液が残っていたらしい。それで小林が鈴木を窒息死させた犯人だとふんだ。それに警察は鈴木の爪から皮膚片を見つけて、それが小林のものとわかった。鈴木がもがいて小林の腕に傷をつけたんだろう。小林は丁度あの床の間のある畳の隣の部屋から出て来た宮田に向かって、 「飯倉が始末しとけって。」と鈴木の所を指さして言って、飯倉の待つ車に戻った。宮田は最初訳が分からず茫然としていたが、ゆっくり庭に降りてきた。その間に私は信濃君にすぐに救急車を呼んで、空き家に来るように指示した。まだ、鈴木が生きていると思っていたからね。そして私の目には今度は宮田が鈴木を介抱しているように見えたのだ。それから私も車に戻ると、二人の車が発進するのを待った。二人は宮田を待っていたのか、まだ発車せずにいたが、間もなく車は走り出した。二人は何食わぬ顔で家に戻ったのだ。あの夜の事で私が知っているのはここまでだ。 斎藤さんの後は西村さんが話してくれた。 「信濃に言われて空き家の様子を見に行くと、ぼんやり明るく光っているのが見えたので、近づいてみると、誰かが倒れている横にがらくたが少し積まれていて、そこに火がついていた。すぐに警察と消防に連絡した。俺が行った時、宮田の姿は見なかったから逃げた後だったのだろう。恐らく宮田は、いくら何でも鈴木に直接火をつけることはできなかった。そこで火が燃え移るようにしたのだろう。だが俺がすぐに火を消しにかかり、直ぐに収まった。その後、信濃もやって来て、消防と警察には、『夜中にこの空き家から人が出てくるのを見たと知り合いが連絡してきてくれたので、様子を見に来たら、何かが燃えていて横には人が倒れていた』と説明した。信濃は警察に『死体は鈴木という青年で、以前に宮田という男や小林という女といる所を見たことがある』と証言した。だから警察は次の日にはもう飯倉、小林、宮田の三人のうちの誰かが鈴木を殺したと目星をつけていた。あとは三人のうち誰が鈴木を殺ったかと、詐欺グループの問題だった。警察はこれを機にあの詐欺グループも一斉に逮捕できたらと考えていたようだ。」 「え、じゃあ、皆、犯人があの三人のうちの誰かだって初めから判っていたっていうことですか?」さっちゃんが驚いて叫んだ。山川さんを除いた皆が笑った。 「何だかあんなに怖い思いをして損した気分。」さっちゃんが呟いた。 「そう。皆、知っていた。君にはできるだけ関わってほしくなかったんでね。」西村さんは笑顔でそう言った。そう言えば、信濃さんもそんな様なことを言ったような…。 「出来る限り警察に協力しようと、僕と信濃君はすぐに鈴木から預かった金庫の事を警察に話した。警察がそれを押収して調べたら、重い方の金庫には金塊が詰まっていて、それがどうやら宮田が盗んだ物と一致した。もう一方の金庫からはかなりの額のお金やお金の代わりに被害者が差し出した宝石やら時計やらが入っていた。それで詐欺の証拠が出たってわけだ。」 「そうか、最初から犯人が絞れていたから、私が次の日の朝早く空き家に行った時も警察の人はいなかったんだ。」 「大方調べ終えた後だったし、残りは次の日の昼間に調べていたけれどね。だから、宮田もあの空き家に戻って来ていたんだ。宮田は自分の隠した金庫や、その鍵が失くなって驚いただろうね。おまけにすり替えた金庫もないし。鈴木は隠してあるからって言ったのかも知れないけれど、隠し場所を聞く前に死んじゃうし、まさか鈴木が信濃君に預けたとは思わないから、空き家をあちこち探したんだろう。で、何度か空き家でさっちゃんを見て、もしかすると、その小学生の女の子が何か知っているのかもと思い始めた。」 「じゃあ、私を追いかけてきたのはやっぱり宮田って人だったんだ。」とさっちゃん。 「そうだね。」信濃さんが言った。 「じゃあ、私を追いかけてきた車は?」 「あれは小林が単独でやったみたい。あの時は斎藤さんも『焦った』って後で言ってた。さっちゃんが何ともなくて良かったってね。」そう信濃さんが言うと、また斎藤さんの出番だ。 「あの日、小林愛が一人で車で出て行くのを追っていると、あの空き家の近くで暫く車を停めていたと思ったら、今度は急発進して、段々スピードを上げていった。私は付いていくのが精一杯だった。そのうち蛇行はするわで、小学生を轢こうとしていると分かったんだ。けれど、突然その子の姿が見えなくなって、小林もそのまま運転して家へ戻った。次の日、飯倉と小林は空き家の近くで車を停めていたかと思ったら今度は小学生を連れ去ってしまった。後を追ったけれど、辺りを一周して、空き家に戻って来ると、女の子を開放して、また家に戻った。あれは一体なんだったのかと思ったけれど、恐らく、宮田に女の子を確認させたんじゃないかな。それで人違いと分かったからその子を開放した。さらに次の日、今度こそ学校帰りのさっちゃんを連れ去って金庫と鍵を取り戻そうとしたってわけだ。」 「やっぱり、立花さんは私と間違われていただけか。」とさっちゃん。 「スカウトが来なくてがっかりしてるんじゃない?」と信濃さん。 「飯倉と小林がさっちゃんを連れて榊の家に戻った頃、私は信濃君に連絡した。だが、なかなか捕まらなくてね、メールで伝えてはおいたが。そうこうしているうちに小学生が一人あの家に入って行ったが出て来ない。信濃君に再び連絡して、河内君とさっちゃんのお母さんが榊の家に来るのを待った。そして、二人がやって来るのを見た直後に、宮田らしき男が女の子を抱えて庭から出てくるのが見えたので、その男をつけることにした。暫くすると車であの空き家に向かった。私はまたしても河内君に連絡してすぐに空き家に沙知子君のお母さんと一緒に来るよう伝えた。さらに警察にも連絡した。」 ここで斎藤さんは一旦黙った。それから静かに言った。 「それから私は急いで山城さんにすぐに警察署まで来るように伝えたんだ。」 「さっきも言ったけど、三井さんは美樹のお母さん。ここのお婆ちゃんと同じくらいお金持ちよ。」と信濃さん。 「もともと三井さんに雇われて小林を見張っていたのでね、小林が警察に捕まる所を見て貰いたかった。三井さんはすぐに駆けつけてくれたよ。」 八角の屋根の家の応接間で、私は話を聞いていた。でも、まだ納得のいかない部分が幾つかあるような気がした。 「じゃあ、少し話を戻そうか。さっきも話した通り、榊と飯倉の二人はお金を回収して帰った。以前から榊に不満を持っていて、榊を潰したいと考えていた飯倉は、宮田と小林を仲間に引き入れて、金庫をすり替えて、お金を横取りしようと企んだ。すり替えた金庫とその鍵は宮田が持っているはずだった。」斎藤さんがおさらいしてくれた上にさらに私の知らないことを話してくれた。 「飯倉に榊からお金を奪おうと提案したのは小林愛だったのじゃないかな?小林は大金が欲しかったから、榊を良く思っていない飯倉を利用した。そうして小林は飯倉と付き合い始めたんだろう。その前は鈴木と付き合っていたんだがね。そしてその前は宮田と。小林は全員を利用していた。 ここで少し宮田の話をしよう。宮田は詐欺の他に強盗もやっていたんだ。詐欺で知り得た情報をもとに留守の時間に強盗に入ったり、さらにお年寄りをだまくらかしては、詐欺グループとは別に多くの金品を奪い取っていた。宮田は飯倉と小林の仲間の振りをして、榊から横取りしたお金を独り占めしようと企んだ。で、そのお金に自分で強盗して集めた金品とを合わせてとんずらするつもりだった。ところが、宮田が強盗して得た金品-あの金庫んは金塊が盗んだ金塊が入っていたんだが、それをあの空き家の金庫に隠していたことを鈴木は知らなかったからね。鈴木は空き家の大きな金庫の中の物は、この家の家主の物だと思って信濃君に渡した。その鍵は宮田が持っていたんだけれど、鈴木は宮田がその鍵をこそこそ大事に持っているのを見て不審に思ったんじゃないかな。これは憶測だけど、榊の金庫の鍵を宮田が盗ったと思った鈴木は、榊に返そうと思って、金庫は信濃君に預け、鍵はあの拾ったあの消しゴムに忍ばせておいた。宮田を助けようと思ってしたんだろう。というか、小林を助けようとしたのかな。榊からお金を奪ったら大変なことになるって分かっているからね。」 「鍵を拾った消しゴムの中に?」私は聞いた。 「そう、警察が鈴木の遺体から消しゴムを見つけてね。その底の方から鍵が押し込んであったんだ。それで鈴木が信濃君に渡した金庫のうちの一つが開いたんだよ。」 「まさか、その消しゴムって、両面に『ばか』って大きく書いてあったんじゃ。」 「よく知っているね。警察の人が「何でこの消しゴム『ばか』って書いてあるんだろうって言っていたよ。」 「そうか、どうりで何度も探したけど、見つからなかったわけだ。」と私。 「さっちゃんの落とし物は鈴木が拾って後生大事に持っていたってわけね。」信濃さんも納得した様子だった。「けど、私に金庫を預けた時、鈴木は鍵のことを知らなかったから、鍵はその後見つけたってことね。」と加えて言った。 「さっちゃんの消しゴムだったとはね。」斎藤のおじさんは自分にも知らないことがあったと少しだけ驚いた様子だった。斉藤のおじさんは続ける。 「宮田は当然焦っただろう。自分が盗んだ金塊の入った金庫は失くなるし、その鍵もどこにあるか分からない。それに加えて詐欺グループのすり替えた方の金庫も消えてしまった。おまけに鈴木は死んでしまうし。まあ、最終的に鍵はなくとも金庫を壊すか、新たに鍵を作るか、方法はある。すり替えた金庫の鍵だけは持っているものの、肝心の金庫自体がないんじゃあ、どうにもならないからね。必死で空き家を探すが見つからない。考えられる選択肢としては、鈴木が何処かに隠した以外には、警察が持って行った、飯倉と小林が持っている、の他に第三者が持って行った、の三つだった。飯倉と小林も必死だったから、恐らく持っていないだろうと考え、警察が持っていたなら諦めるしかない。だが第三者だったら?取り返せるかも知れない。」 ここで斎藤のおじさんは私も見て言った。 「鈴木が死んだ次の日の朝、君を、いや、小学生を見たと思った宮田は、その小学生が何か知っているのではないかと思い、君を狙い始めた。」 「じゃあ、何であの女の人、私を轢こうとしたんだろう?」と私は不思議に思った。 「小林愛という人物は、あまり深く物事を考えて行動するタイプではないんだろうね。君のことを宮田から聞いたのだろうが、その小学生を脅そうとしたのか、捕まえようとしたのか。それとも衝動的に車で轢こうとしたのかな。まあ、本人に聞かないと分からないこともある。実際にお金が何処にあるのかわからなくなったと知って、焦っていたことは確かだろう。」 「もし、私があの朝あの空き家に行かなければ、狙われることもなかったのかな?」 「それはどうだろう、まあ、そんなに気にすることもない。鈴木を殺した犯人も詐欺グループも逮捕出来たし。」斎藤のおじさんは優しく言った。 「榊も他の仲間たちも一網打尽だった。さっちゃんがあそこで拾ってくれたあれ、黒い物のおかげでね。白い車に轢かれそうになった後、私にあれを渡してくれたでしょ。すぐに警察に届けたら、これで早く詐欺グループを捕まえられそうだって。鈴木は証拠になりそうなものを色々集めて保存しておいてくれたらしい。」と信濃さんも言ってくれた。でも、せっかく信濃さんが私とあの男の人達を関わらないようにするために、あの時私を連れて空き家の裏木戸まで案内してくれたのに、次の日の朝、自分でそれを台無しにしたのかと思うと、ちょっと申し訳なかった。 「でも、何であの時空き家に行った時はあの畳の部屋にあの箱‐金庫だっけ、金庫があったんだろう?その前の日の朝見にいった時には何もなかったのに。」 「ああ、それは、私が置いておいたから。」信濃さんは言った。 「は?」私は驚いた。 「私が置いたの、だって、鈴木から預かった金庫は早々に警察にわたしたからね、二つとも。誰かが取りに来るんじゃないかと思ってね。まあ、だいたい宮田だとは思っていたけれどね。」 「え?じゃあ、あの夜持って帰ったのは…。」 「ああ、宮田だって分かったから。でも、そのせいで昨日さっちゃんが連れて行かれちゃたのかも。ごめん。あーそれにしても、さっちゃんが無事で良かった。まあ、あの監禁されている家に行って、さっちゃんがいなかった時は私も焦った。」 「そういえば、どうして私があそこから空き家に行ったってわかったの?」私は聞いた。 「それは、さっちゃんのお母さんとお巡りさんを説得して、あの家に行ったの。まあ、さっちゃんが絶妙なタイミングで電話をくれたから、それで、お巡りさんも行く気になってくれたんだけれど。私はさっちゃんが電話をくれる前から、斎藤のおじさんから聞いて、さっちゃんが何処へ連れ去られたか知っていたけどね。飯倉と小林は私がお巡りさんやさっちゃんのお母さんを連れて来るとは思わなかったらしい。それで二人は『そんな子知らない』だの、『私達の子供です』だのと胡麻化していたんだけれど、そこへ、山川さん‐千代子ちゃんのお母さんがやって来て。」 「ああ、それお母さんから聞きました。」山川さんが真っ赤になっていた。 「『家の子を迎えに来ました。』って突然やって来て、勝手に家に入っていって、『千代子-帰るわよ-』って大きな声で家の中を歩き回って。『返事しなさい、千代子-。』って。そしたら、千代子ちゃんが、 『はーい』って返事するもんだから、お母さん、二階に駆け上がってさ。私達も-私とさっちゃんのお母さん、それに飯倉と小林も、後ろからついていったら、二階の鎖がかかっている物置の戸が半開きになっていて、そこから千代子ちゃんの顔だけ出ているから、皆びっくりしちゃって。千代子ちゃんたら『あ、お母さん、今帰ろうと思っていたんだよね。』って言うもんだから、もう少しで笑っちゃう所だった。」 「だって、何だかお母さんが怒っている時の声が聞えたから。私を監禁した人達より、お母さんの方がよっぽど怖いよ。」 「お巡りさんはすぐに飯倉を捉えた。その時私は斎藤のおじさんから『さっちゃんが宮田に連れて行かれた』って、連絡が来た。すぐに外に出て斎藤のおじさんの車に乗って空き家に向かった。車の中で、さっちゃんのお母さんにすぐに空き家に来るように頼んだ。あと西村さんにも。斉藤のおじさんは警察に連絡した。それから美樹のお母さんにも。斉藤のおじさんの前で私を降ろすと、『後は任せた』って車を走らせて、何処かへ行っちゃった。」 「ああ、信濃君に西村君がいれば大丈夫だと思ったのさ、それに警官がすぐに来るって分かっていたからね。」と斎藤のおじさん。 「何処へ行ったの?」 「三井さんを迎えにね。」 「美樹を?」 「いいや、美久さん、お母さんの方だよ。」 「美久さん、何て?」 「『小林が逮捕されても、気分は晴れない』と。」 「それはそうと、空き家の大きい金庫のことだけれど、」と信濃さんが話し始めた。「瀧さんが、『空き家の主人が死んだ時に見たけれど、何も入っていなかった』って、それで金庫はそれから空けっ放しになっていたって。私が鈴木と見たときも開いていた。でも、鈴木が死んで警察が調べた時、金庫に鍵がかかっていて、すぐには開かなかったようだった。鍵のことを聞かれたけれど、分からないし。それでいて、警察が金庫を開けたら、結局空だったんだよね。」 「鈴木が金庫から宮田の小さい金庫を出して信濃君に渡した後で、鍵を閉めたんだ。」西村さんがそれに応えた。 「宮田は驚いただろうね、開けっ放しだったのに、いつの間にか鍵がかかっちゃっているんだから。」 「でも、宮田は鍵がかかっただけで、自分で盗んだ金塊はそこにあると思っていたんだね。でも、警察が金庫を開けると中身がなくなっていたから、最初は警察に持って行かれたと思っただろうね。」 「でも、警察が開けた時金庫が空だったって、どうにかして宮田は知ったんだ。だからさっちゃんを狙った。何か知っているんじゃないかとね。」 「宮田だけは今も逃げているんだよね。」 「まあ、捕まるのも時間の問題だろう。」 私と山川さん、信濃さんは八角の屋根の家を出て、ゆっくり空き家へと向かっていた。その途中で信濃さんは意外な話を私達にしてくれた。 「私があのお屋敷でお手伝いを始めたのは、実は偶然じゃないんだよね。私は小林や鈴木のことを知っていたんだ。斉藤のおじさんは美樹に頼まれて小林を調べていたのだけれど、私は美樹のお母さんに小林を調べてほしいと頼まれてね、それで一カ月間ほど観察していたんだけれど、突然山城さんが、もう止めていいわって言ってきた。私は理由を知りたかったけれど、山城さんはその時何も言わなかった。それで小林を調べる必要もなくなったからそこで止めたのだけど、ある日偶然、そう、これは偶然なのだけど、あのお屋敷の前で小林にすれ違った。あれ、何でこんな所でって、それで次の日もお屋敷の辺りに行ったら、お屋敷の側に停めてある車の中に小林が見えた。それで気になっていたら、丁度お屋敷のお手伝いさんを募集しているって聞いたからね、早速雇ってもらったってわけ。で、都合の良いことにあの八角屋根の別邸の手伝いで、あの屋根裏から下の通りが良く見えるんだよね。で、斎藤のおじさんもいるし、これは何かありそうって美樹に聞いたの。」 三井美樹は、東雲東高校時代に小林愛が妹、三井美智を虐めたことを確信していた。そして美樹の母親も同様に小林が美智子を虐めたと知ると、私に小林の事を調べてほしいと頼んできた。私が仕事を辞めたことを偶然知り、私に小林と同じ大学に入って詳しい調査を依頼してきたの。けれど結局美樹が、自分の母親が私を使って小林を調べていることに気がつき、母親と私に調査を辞めさせたの。自分が探偵を雇って調べているからって言って。 三井美樹は私の同級生で、資産家の娘なの。三井美智…美樹の妹は本当に可愛かった、正統派の美人っていうのかな。本当に皆があんな綺麗な子は見たことがないって言うくらいね。歳が離れていた分、美樹は美智をすごく可愛がっていたんだ、子供の頃からね。私も中学に入学する頃のみっちゃんを見たことがあるけれど、本当に美人だった、これ以上ないってくらいね。目鼻立ちが整っていて、通りを歩いているとみんな振り返るくらい綺麗な子だった。ただ、美智は中学卒業直前に大病を患った。その後、美智の病気が完治して、美樹はそのことをとても喜んでいたんだ。美智は成績も優秀だったんだけどね、病気のせいで一年高校入学が遅れて、しかも高校のランクを下げて入学せざるを得なかった、無理しないように家から近い高校を選んだんだね。お金持ちなんだから、私立のお嬢様高校へ行かせておけば良かったのだろうけれど、美智がその高校でいいっていうもんだから、両親もそこへ行かせたの。そこで、小林は美智のことが気に入らなかったんだろうね、陰湿ないじめを繰り返した。そして美智が我慢強い子だったのが災いした。『せっかく病気が治ったのだから、 少しくらい虐められても我慢しよう、長くても三年我慢すれば卒業できるのだから』と、一人で抱え込んで誰にも何も言わずに解決しようとした。姉や母に早いうちに相談していれば、すぐにその高校を辞めさせていただろう。でも美智は何も言わずに我慢しようとして、結局、体の方が先に悲鳴をあげたのだ。体調を崩して、その後精神病院に入院した。母親も姉も最初それは悲しんで、自分たちを責めていたけれど、そのうちそれがだんだん怒りに変わってきた。美智が一日も早く立ち直れるように美樹はつきっきりで面倒をみていたんだけど、良くならなくて、高校を退学して入院することになっちゃったんだ。それからしばらく入院生活が続いていたけれど、最近自宅療養に切り替えたらしい。その頃、小林が大学に入学したって美樹の耳に入ってきて…。本当だったら美智だって元気に大学生になっているはずだった、せっかく病気も治ってこれからって時に…。美樹も美樹の母親も、美智を虐めた小林が許せないほど怒りが込み上げていたのだろう。美樹は興信所を使って誰がいじめに加担したかやその子たちのその後の様子などを調べ始めた。その時に雇ったのが斉藤のおじさんなんだ。 美樹の家はここのお婆ちゃんの家と同じくらいの資産家で、斉藤のおじさんの前にも興信所の人を雇って仕事を依頼したことがあるらしい。 母親の方はというと、その少し前に偶然、姉の美樹に会いに来た私を久しぶりに見て、考えが浮かんだ。それは私に小林の行く予定の短大に入ってもらって、小林に復讐することだった。どうやって復讐するかはまだ考えていない様だったけど。私の父親は、三井さんの会社のグループ会社に勤めていて、美樹や美智の両親と懇意であったために、私が会社を辞めたことを知っていたそうだ。短大に入る費用などは全て美樹の母親が負担し、さらに、信濃さんが登録していた海外の通信大学の休学費用も負担してくれた。私は小林が入ったのと同じ寮に入って、小林について観察した。けれど一か月も立たないうちに止めるように言われたから、その通りにはしたけれど、理由が知りたくて、美樹に会いに行ったんだ。  信濃さんと山城美樹さんの会話は次のようなものであったらしい。 「母に会ったんですって?」美樹が言った。 「美樹のお母さんが私に連絡して来るなんて驚いた。」と信濃さん。 「それで、母の言うことを聞いたの?」 「山城さんの希望に沿うようにした。」 「で、調べてみて、どう思った?」 「調べるなんて、大したことはしていない。ただ観察しただけかな。でもあの子がいじめの黒幕で間違いないでしょうね。」 「そんなこと、分かり切っているのにね。」 「そう、でも美樹のお母さんが『もういい』って言うから。」 「もうプロに頼んであるから、あなたは必要ないわ。」 「美樹のお母さんが私に止めていいって…、もしかして美樹が?」 「私が信濃に手を引いてもらうように言うよう、母に頼んだの。」 「いいの?」 「私の方で手は打ってあるって言っているでしょ。」 「本当にいいのね?ま、何かあったら何時でも呼んでよね。手伝うから。」 「あんまり首突っ込まない方がいいんじゃない。」 「まあ、何か動きがあったら教えてよね。」 「そうね、どうしようかな。まあ、考えておくわ。」  美樹や美樹のお母さんがどう復習しようとしていたのかは分からないけれど、斎藤のおじさんが調べるうちに、事態は変わって行った。何やら良からぬ事に手を出して、放っておけば警察に捕まる可能性が出て来たから。斉藤のおじさん曰く、『“悪い奴は必ず自分で墓穴を掘る”、放っておけばそのうちぼろがでるさ。』と様子を見ることにした。勿論、詐欺グループの逮捕に協力するつもりでね。斎藤のおじさんの協力で詐欺グループも捕まえることができたんだから、流石にもと警察官だ。美樹が斎藤のおじさんに頼むのも納得だったという訳だ。 もうとっくに空き家には着いていて、私達はあの畳の部屋の前の庭に立っていた。信濃さんはお婆ちゃんから空き家に入る許可を得ていた。 「と言っても、お婆ちゃんは分かっているのかいないのか。まあ、瀧さんもいいって言ってくれたから、大丈夫でしょ。」と信濃さんは言う。 「あのう、しなのさんってあの信濃の国の信濃なんですか?」山川さんが尋ねた。 「そうよ、山川千代子さん、私は石見信濃、よろしくね。」 「えっ、信濃って苗字じゃなかったんですか?」山川さんがびっくりした様子で言った。 「そうよ。でも、あのお屋敷にいた人は皆、未だに全員、信濃が苗字だと思っているけどね。」 「へ?」私は驚いて、変な声をだしてしまった。「訂正しないんですか?」 「うーん、そのうち気が付くんじゃないかと思ってね。」これが信濃さんの答えだった。 話が途切れると、私達は少しの間空き家を眺めた。 「へえ、本当に何か出てきそうね。」と山川さん。「まあ、あの本の中の幽霊の屋敷ほどじゃあなさそうだけど。」 「何の本?」と信濃さん。 「『雨月物語』。高遠さんが読んだ後、私も読んだの。」 「ああ、それで幽霊の屋敷ね。でも、本当にいるのかもよ、ここ。」 「え、幽霊が?」私が言った。 「そう、昔ここに住んでいた人がね。」 「信濃さん、面白がっているでしょ。」と私。 「中に入って見てみてもいいですか?」と興味深々の山川さん。 「私も玄関とか、大きな金庫とか、見てみたい。」と私。 「よし、じゃ、、ちょっと行ってみるか。」と、信濃さんが縁側から入って行くのに続いて、私達も縁側を上って畳のあの畳の部屋へと入った。 「この下に金庫があったんだ。」と山川さんは床の間の板を引っ張り上げながら言った。「こんな所良く見つけたよね。その人達。」 「そうだよね。私もあの男の人が引っ張り上げる所を見なかったら、絶対に気付かなかった。」 さらに玄関の方へ歩いて行くと、ここだよ、と信濃さんが声を掛けてくれた。 「あ、本当に古い金庫だね。」 「本当、それに大きいね。中に入れそう。」 それから信濃さんは私達にあのお屋敷へ向かう近道の扉も見せてくれた。扉は蔦だらけで、とても開きそうになかった。 「これを鈴木が開けて向こうへ行ったんだけど。今日は開けない、というか、私の力じゃ開けられないんだけどね。それより、今日ここへ呼んだのはこれを見せるためだったんだ。」と信濃さんは扉のある塀つたいにお屋敷の正門のある方へと獣道を進んで行くと、小さな小屋の横に出た。 「これはこの空き家の物置。丁度ここ、八角の屋根の裏あたりかな。」と言いながら、入口に回った。信濃さんは物置の戸を静かに開こうとしたが、古いものだから、やはり、がたがた音をたててしまう。 「しー、静かにね。」と信濃さんは戸に向かって言ってから私達にも「しー。」と行って、中に入った。狭い物置で、竹ぼうきやら、熊手やらが立てかけてあった。そして、ぼろぼろの小さな机の下に、そこにも何やら我楽多がおいてあるのだが、そこに、 「猫だ。」と山川さんが言った。 「本当だ、仔猫だ。」私も叫んだ。信濃さんが『しー』と言ってこう囁いた。 「この猫、あの黒猫の子だよ。」 「え、本当?」 「そこにいるのはお母さん猫、仔猫が一匹。どうやらもう一匹は死んでしまったらしい。」 「じゃあ、この子猫、ポーの子?」 「そう、鈴木があの母猫や黒猫のポーに餌をやっていたんじゃないかな。」 「かわいー。」 「ポーはお母さん猫と仔猫を守っていたんだ。」 「そうだね。」 私達は空き家の門の前にやって来た。信濃さんは、『私はこれから少し、あの宮田のいた畳の部屋を片付けなくちゃ。』と言うので、私と山川さんは信濃さんにお礼を言った。信濃さんは『気を付けて帰ってね。またね。』と言って空き家の庭の方へ戻って行った。私達は門の外に出た。 「今日は楽しかった。昨日家族で出かける予定が潰れて良かった。こんなに面白い話が聞けるなんて。」山川さんの目はまだ輝いている様に見えた。「それに昨日は、本当に高遠さんが無事でよかった。」晴れ晴れとした顔で山川さんが言った。「物置で高遠さんに別れた直後に、高遠さんのお母さんと私のお母さん、それにお巡りさんが来るって知っていたら、逃げてなんて言わなかったのにな。」 「私も外へ出た瞬間に捕まっちゃって、どうしようもう終わりだ、山川さんごめん、と思った。良かった、山川さんが無事で。」私がこう言ったあと、二人で笑った。 「物置の中でふと思ったんだけど、『死ねば千里を行ける』って本当かな。」山川さんが私に聞いた。 「あの本の中にあった話の一つだ。私、あのお話好きだよ。」 「私も。」 「でも、それが本当なら、何でお父さん死んだときに私に会いに来てくれなかったのかな?来てくれてもいいと思わない?」 「きっと、お父さん、来てくれたんだよ。でも…。高遠さんが気付かなかっただけ。だって、ほら、見えたら怖いでしょ。」 「ええ、怖くないよ、お父さんだったら。でも、お父さん来てくれていたのかな。」 「きっと来てくれていたよ。」 「ありがとう。」私は小さい声で山川さんに言った。 「ねー、高遠さんが言っていた黒猫って、もしかして、あれ?」山川さんが指をそっとあげながら言った。私は山川さんの指の差している方を見た。門の横の塀の上にちょこんと黒い猫がお行儀よく座っている。 「ポー。」私は小さな声で控えめに言った。ポーが逃げると困るから。 「お手柄猫ちゃんだね、ポーは。真っ黒で奇麗だね。」山川さんが私に囁いた。その途端に、ポーが塀から門の中に降りて、ふいっと消えてしまった。 「あーあ」と私達は声を揃えて言った。 「ポーにまた会えるといいね。」別れ際に山川さんが私に言った。             終
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