私たちは恋をしない ―笹野夏菜子―

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「階段を上る音がした」  森緒(もりお)君は、準備はいいよね、というように私を見た。  頭の中で鼓動が走り出す音が聴こえる。緊張、トキメキ、どっちなんだろう。混ざりあってよく分からない。私は何も顔に出さないようにして、ただ無言で頷き返した。  すぐに森緒君が私の肩に手を掛け、顔を傾ける。――そこでキープ。  階段を上る足音が近づいてくる。彼は今、どんな小さな音も聞き逃さないように集中しているのだろう。  部屋のドアは、猫が一匹通れるだけの隙間があけてある。森緒君の家ではきなこという猫を飼っていて、猫がいるときは家族全員、部屋のドアを閉めない約束になっているらしい。  確かに猫は彼のベッドの上で、気持ちよさそうに丸まって眠っている。けれども、今ドアを開けているのは猫の為ではない。ドアに背を向けている森緒君からは見えないけれど、私からはドアの向こう側がしっかりと見える。当然、向こうからも覗くことは可能で。  人影が見えたと思った瞬間、唇が触れた。キスってこんな感じなんだ。普通に皮膚と皮膚が触れ合うより、ずっと柔らかい。  つい私は、瞼を閉じてしまった。キスをしている森緒君の顔を、じっくり観察するつもりだったのに。彼とのキスをしっかり感じてみたくなってしまったのだ。  森緒君の指が私の髪の中に入り込んで、頭皮をじりじりとゆっくり撫でていく。さらに押し付けられた唇の感覚が、冷静でいたいと思う私の心を乱し、胸を高鳴らせる。 「羽風(はか)、お友だちが来ているのね。お茶とお菓子を置いておくわよ」  森緒君のお母さんの声が、部屋の前でした。震えているような気もしたけれど、それは私の思い過ごしなのかもしれない。  部屋の前にトレーが置かれたんだろう。ゴトンという音がすると、森緒君はなんの余韻もなく私から離れてしまう。  無言のまま、森緒君とドアの向こうにある空間をじっと見つめていると、お母さんが階段を下りて行く音がした。 「ありがとう。テスト前だから、勉強しているんだ!」  下の階に向かって、彼はわざとらしい嘘をつく。勉強なんてまるでしていなかったくせに。 「きなこは部屋にいる?」  森緒君のお母さんも、まるで部屋の中なんて覗いていないと主張するような嘘をついた。
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