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「叩かないんですね」
手首を握ったまま唇を離しながら口にした僕の酔いは、楓さんの表情を目にした途端、一気に醒めていった。楓さんが今にも泣きだしそうな顔をしていたからだ。悲しいというよりも、怒っているような感じだけど。
「……最低」
「すみません。調子に乗りました」
手を離し、頭を下げて、楓さんの様子を窺う。
しまったな。
「違う。最低なのは私だから」
頭を左右に揺らしたあと、楓さんは吐き捨てるように言った。
「葉くんはLazyBirdの大切なお客さんで演奏者なのに、家になんか入れて、惑わせるようなことをするなんて。どうしよう。マスターに合わせる顔がない」
楓さんから伝わってくるのは、なかったことにしたいという強い後悔だ。
「楓さんは僕を心配して連れてきてくれたのに、親切心を裏切るような真似をしてすみませんでした」
こんなに後悔しているという顔をされると、急に罪悪感が出てくる。
「親切心じゃないよ。自分のため。葉くんが弱っているのを見て、一緒にいてくれるかもと期待したのは私だもの。こういうことだってまったく考えなかったわけじゃないし。葉くんのアピールに、心がぐらついちゃった。いい大人が馬鹿だよね。私も飲み過ぎているのかも」
楓さんは自虐的な笑みを浮かべながら言った。
「楓さんは、なかったことにしたいんですね。僕を家に連れ込んだことをマスターに知られるのが怖いんですか」
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