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昼、バンドのリハーサルの為に久しぶりにLazyBirdに顔を出した僕に、帰り際、楓さんが「今日仕事が終わったら家に来てくれる?」と小さな声で言った。
いつもは僕が行ってもいいかと訊かなければ、楓さんから誘ってくれることなんかないんだから、ただ会いたいと言われているとは思えなかった。
とうとうこの時が来たかとどんよりした気持ちで、「楓さんの仕事が終わるころに行くよ」と返事をして、僕はLazyBirdをあとにした。
楓さんが日付が変わった頃にしか帰って来ないのはわかっているのに、僕は随分早く家を出て、彼女のアパートへと向かった。自分の部屋にいても眠れそうになかったし、譜面を見ていても頭に何も入ってこなかったから。
彼女の部屋の前に着いても、死刑執行を待つ死刑囚のような落ち着かない気持ちのままだった。こんなことなら、飲みにでも行っていたら良かったかもしれない。賑やかな場所にいる方が、まだ気を紛らわすことができたかもしれないのに。
楓さんの部屋に通ううちに飲めるようになった、ウイスキーを飲みたいと強く思った。寂しくなりすぎるくらい哀愁漂うサックスの音色に耳を傾けながら、楓さんの体温を感じたかった。あの甘ったるい臭いの煙草すら恋しいように思えて、僕は感傷的な気分になりすぎている自分を笑った。
いつの間にこんなに、楓さんのことを好きになっていたんだろう。花名に対する気持ちが、すべて消えたわけじゃない。今も彼女のことを想えば、胸の奥に痛みはまだしっかり残っているんだから。それなのにこのあとの時間を考えると胸が苦しくなる。
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