88人が本棚に入れています
本棚に追加
「え……葉くん?」
楓さんの声がして、僕は目を開けるのと同時に慌てて立ち上がった。いつの間にかウトウトしかけていたらしい。
通路の途中で立ち止まりこっちを見ている彼女は、僕を見て驚いているように見えた。
あれ、約束したのは今日だったよな。違ったっけ。
頭がぼんやりしていて働いてくれない。
「葉くん、早いんだね」
腕時計を見てみたら、たしかに楓さんはいつもより随分帰りが早かった。だから僕がもういることに驚いたのか。
「ごめん。ちょっと早めに家を出ちゃって」
「そう……」
そう言って玄関ドアを開けた彼女のあとに続き中に入ると、彼女は靴を脱がずに立ち止まってしまった。パタンと僕の後ろでドアが閉まり、一気に暗闇になる。
「葉くん、ごめん。今日、私やっぱり疲れているみたい」
楓さんは申し訳なさそうな声を出した。
今日会ったのは、別れ話をするつもりじゃなかったんだろうか。それとも、楓さんも迷っている? 先延ばしになって眠れないままになるのなら、早く結論を出してもらう方がいいんじゃないかと思う一方で、それでも楓さんに会えるなら、まだこのままの関係でいたいという気持ちもある。
「だから、今日はそういう気分になれないかもしれなくて」
「帰った方がいい?」
そんなことないと、楓さんは言ってくれなかった。わかっているのにズキンと胸が痛む。
「そういう目的でいつも楓さんに会いに来ているわけじゃないんだけどな。僕は楓さんに会えたら、それでいいし」
口に出したら恨み言みたいに聞こえた。
「帰るから、せめて顔を見せて」
手探りで電気を点けると、楓さんは疲れているというよりも、今にも泣きだしそうな顔をして立っていた。
最初のコメントを投稿しよう!