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「また、ここにいるのですね?」
声がして、目を開けた。
少し眠っていたようだ。
時刻はまだ午後の、それほど遅くはない時間。
空の色を見て、そう判断した。
いつもの、堤防の上である。
男の上にかがんで、どこか少し神妙な表情で上から見下ろすのは、
やはりその娘以外になかった。リーエヒルデである。
「またおまえか。おまえも案外、暇だな」
男は草の斜面に寝そべったまま、わずかに姿勢を変えたが、とくに起き上がろうとはしない。少し眠そうな目で、運河の対岸の、さらにその向こうを見た。
「今日は少し、空が騒がしいですね?」
娘が横に座った。あいかわらず、先にこちらに許可を求めることはしない。流れる銀色の長い髪を、今日はどういう気まぐれか、後ろで一か所、ゆるく留めている。
娘の言うとおり、朝から、空が騒がしい。中小様々な飛空艇が、空を右から左へ、あるいはその逆へと、いそがしく動いている。着陸するもの、離陸し、編隊を組んで遠ざかってゆくもの。
「今日は、じゃない。今日も、だ」
ザークが答える。あくびまじりに。
「もう三日になる。なんだかいろいろ、煙たくなってきた」
「けむたく?」
「ああ。見ろよ、あれ。あの、でかいの」
ザークは視線を動かし、空中都市からわずかに離れた空に停泊する、その灰色の巨大な船を示した。
「ザルツブルグ級。ライラント王国の旗艦クラスだ。あんなものまで来てやがる。それにあれは―― あっちだ。あの、旧市街の上の、あれ」
男が視線を逆方向に。
「グレッケン・ベルン重巡航艦。あんなのも、めったに他ではおめにかかれない。まず間違いなく、ゲルン公国連合の所属だろう。あいつは今朝ついた。西の空から来て、何喰わぬ顔で停泊モードだ。おれも見たときはたまげたな」
「詳しいんですね、船に」
リーエヒルデが、かすかに微笑んだ。
「詳しくはない。ちょっとでも軍務で空を飛んでたヤツなら、まず最初に覚えるいちばん目立つ船だよ。だが、何がおどろいたかって、やつら―― ライラントとゲルンって言えば、今でもばっちり交戦中、西側の陸地の方じゃ、けっこう派手に戦闘を交わしてるって話だ。そいつらが、よりによって同じ空域で―― なんだか仲良く、おそろいで停泊してやがる。ま、まともじゃないよな。何かぜったい、よくない話が持ち上がってるに決まってる」
「そうですか? もしも停戦したのなら、とても良いことではないでしょうか」
「ばか。そう簡単に停戦できるなら、もうとっくにしてる」
ザークが頭をふった。頭についていた細かい草が、はらりと落ちて風に流れた。
「もう二十年来、本気でドンパチやってきた仇敵国どうしだぜ? おれにはむしろ、嫌な予感しかしないな。ぜったいなにか、ドロドロした政治の話が―― っておい。おまえ、話、聴いてない?」
リーエヒルデは、自分の肩にとまった緑の野鳥に、何か小声で話しかけるような。そのような仕草を見せている。とくに表情は変えずに。
「すいません。話は、聴いていました。そのように見えなかったのであれば、謝ります」
娘が指先で小鳥の背に触れると、鳥は翼を広げて空に舞い、やがて河向こうを埋める倉庫群の屋根のむこうに消えた。
「や、まあいい。たいした話でもない」
男はもう一度あくびし、それからまた、目を閉じた。
「退屈しているのですか?」
「ああ、してるね」
「どうして?」
「おまえは? してないのか? 退屈?」
「いいえ、特には。普段どおりです。とくに退屈などは。」
「ふん、そりゃ、けっこうなことだ」
男は目を閉じたが、太陽の熱、あるいはその光の残滓を、閉じた瞼を通して感じることはできた。さらに深く目を閉じるとその光は消せる。が、その、中途半端な暗闇、あるいは太陽の香りのする薄明のような閉じた視界が、男はこっそり、好きだった。遠い河音が聞こえる。ここから海に落ちてゆく、滝になる水流の、その音が。
「飛びたい、ですか?」
声だけが、きこえた。銀色に澄んだその声が。
声にもやはり色がある。そしてその声は、間違いなく銀色。しかも研ぎ澄まされた、透明にかなり近づいた、ひどく清浄な銀だろう。
「ああ。言うまでもなくな」
「言うまでもなく、ですか」
「そうだ。なあ、知ってるか、この言葉?」
「どの言葉です?」
「まあ聞けよ。たしか、そう――」
男の意識は一瞬、今ここにあるわずかな視界を忘れ、どこか別の広い空を飛んでいる。
そこには雲はなく、太陽もなく、何も、なかった。
文字通り何もない。だがそこが空であることはわかった。はじめからそれだけは知っている。
「『飛べない豚は、ただの豚さ』。古い音楽芝居の中で、イリアの飛空艇乗りが言うんだな。『飛べない豚は――』」
「それは、どういう意味?」
「文字通りの意味さ。飛んでこそ、何かある。飛ぶことを忘れたら―― それはただの豚だ、と。正しい言葉だ。たぶんその戯曲を書いたやつは、ほんとに飛ぶことが好きだったろう。おれはそんな気がするね」
「でも、豚は、良い動物ですよ。利口なイキモノ。わたくしは好きです」
「おまえが好きとか、どっちでもいいよ」
「でも。その言葉はやはり少し、意味が通らないと思います。」
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