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「なんで? どこが?」
目を開けた。少しだけ首を動かす。
光で視界が、ちくちくする。うまく像をとらえられない。
「だって、飛べたとしても、その豚は―― 飛んでいる豚、でしょう。それとも何か、別のものになるのですか?」
「知らん。たぶん、なるんだろう。何か別の――」
「何に? どのように?」
「――知らねえ。特に別に、知りたくもねえ」
男は少し、機嫌を損ねていたかもしれない。
じっさいその音楽芝居が好きで、子供の頃、小銭を握りしめて何度も劇場に通った。
そのセリフのことは、ことあるごとに、知人に何度も話した記憶がある。
が、これまで何度か話して、そのままそこで否定されたのは初めてだ。
まったく。変わった女だな。
男は少し、また、あきれた。あきれると同時に、少し、面白いと思う。
この女は、見た目もあれだが、性格もちょっと、普通じゃないとこ、あるな。まあ、それがいいんだか悪いんだか知らんが――
男はようやく上体を起こし、それから、むっ。と小さく意気込んで、堤防の草の上に一気に立ち上がる。娘がそばから、あまり感情の読めない細めた目をして、そんな男を見上げている。
「なあ、おまえ、このあと暇か? 予定は?」
男が何気なく、娘にむかって訊いた。
だが実際には、それほど何気なくは、なかったのである。
ザークとしては、精一杯の勇気と演技力をふりしぼった。
だが幸いにして、娘の方ではその無骨なまでの精一杯さには、どうやら気づかなかったようである。
「いいえ。特には。何故ですか?」
「よかったら、つきあえよ。見せたい場所がある」
「見せたい場所?」
「ああ。なかなか良い景色が見える」
「ここは十分、景色が良いと思いますが」
「ここよりも、だ。いや、こことはまた別の、というか。ま、とにかくだ。や、嫌ならいい。別に来なくても。ただ少し、誘ってみただけだ。じゃあな」
男は首を何度か振って、それから、脇に脱いであった深い灰色のジャケットを取り上げ、ひとりで、どこか気だるげな足どりで堤防を登り――
「ザークさん?」
「んん?」
「わたくし、予定はとくに、ないです」
「ん?」
ザークがふりむく。逆光になって、娘の方からはあまり顔がよく見えなかったろう。
「案内して頂けるのですね?」
娘が立ち上がり、白いガウンの裾の近くについた草を軽い仕草で払った。
表情には乏しかったが、少なくとも、何か、否定的な感情も、そこには感じられない。その、どこか深みのある銀色の瞳、まっすぐな銀色の眉がつくる表情の中には。
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