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「ふふ、冗談です」
そこに娘がいた。
空中に。
まるで魔法のように、空中の一点に静止し―― 魔法のように、ではない。それはたしかに、おそらく、魔法、なのだろう。まるで見えない地面がそこにあるかのように。平然と、涼しい顔をして、娘がそこに立っていた。
「なっ! お、落ちたんじゃ、なかった、の――」
娘はそれには答えずに、音もなく、何もない空間の上で軽やかなステップを踏み、
三歩で、男のところまで。
デッキの辺縁に無様に這いつくばる男の横に、とても優雅に着地した。
「すいません。ちょっぴり、からかっただけです」
娘が涼しい声で言い、さわりと、銀色の前髪をかきあげた。
「自分の体を、ごく短時間、浮かす程度は。わたくしふだんは、飛空艇を、魔法で支えているでしょう? それに比べれば、魔力の消費は――」
「バッカ野郎! 消費とかどうでもいいわ! 心臓に悪いだろが! 二度とやるなよ! 二度と――」
噛みつくほどの勢いで娘にむかって怒鳴り散らした男であったが――
しかしすぐに、怒鳴るのをやめ、
ちっ、と。忌々しそうに舌打ちをして、どさりと、そこに、尻をついて座った。
その、空の奈落を見下ろすデッキの石の上に。
「ここには、よく来るのですか?」
娘が、男の横にしずかに座った。
首をわずかに傾げて、男の反応を待っている。
「よく、って言うほどでもない。たまに、だな。なにしろここは、宿舎から遠い」
「ですね。ここまでけっこう、歩きました」
「くたびれたか?」
「少しは。でも、大丈夫です。とても疲れた、というほどでもありません」
「おまえはだいたい、そうだな。いつも。極端に疲れたりへばったり。おまえ、これまで一度も本気でしんどい経験、したことありません。って顔してるぜ」
「それは誤解です。わたくしも、時にはとても消耗することは、あります」
「ふん、どうだかな」
男は疑わしそうに首をふり、
それから、ふうっ、と。深く息を吐いた。
二人の目の前に開けたひたすらに青い空の向こうを、いま、二機の小型の飛空艇が、かすかな飛行音をたてて横切っていった。そのあとはまた、青だけが残った。
「おまえ、なんで、飛ぼうと思ったんだ?」
男がぽつりと訊いた。その目は、娘の方を見ていない。
「なぜとは?」
「なぜ、わざわざこんな辺境まで来て、飛空艇乗りの手助けをする? どういう気まぐれだ?」
「理由、ですか?」
「ああ。そうだ。おまえはそれほど、空が好きって感じでもない。だいたいにおいて、特に何かを、熱心に好きになるタイプでもなさそうだ。なのに、なぜだ?」
「――理由、ですか――」
娘がしばし、黙った。
男もとくに、答えを急がない。
また、数機の船が、ゆるやかな編隊を組んで、視界の左から右へと、渡って行った。
遅い午後の太陽が、それらの機体を、鈍い銀色に光らせている。
「理由は、あります。」
沈黙がことさら長くなり、男が答えをあきらめたころになり、娘が口を開いた。
「しかし、今は、言いたくありません。」
「ん、ま、それなら。これ以上おれからは訊かない」
「すいません」
「いや。別に謝る必要もない」
「逆に、質問を良いですか?」
「何?」
男が訊きかえす。娘は、じっと、何かを探るように男の瞳をのぞきこむ。
その瞳の色が、あまりにも深い銀色だったので、男はひそかに、たじろいた。
まるで自分の心を、すべて、見透かされている。そのような錯覚を、覚えずにはいられない。その銀は、あまりにも深い。
「ザークさんは、なぜ、飛ぶのですか?」
「おれか?」
「はい。あなたです」
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