白銀のツバメは、ただ北を指して飛ぶ

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「ふん。ま、そうだな。おれも、答えられねえって、言えば、それまでだが。まあだが――」  ザークがひとつ、大きな口をあけて欠伸をした。涙がひとつぶ、左の目の端からこぼれる。男はそれを、左の人差し指で大きく弾いた。弾かれたその水滴は、ひたすらに深い、青の奈落へ散ってゆく。 「まあだが、特に隠すような何かは、おれにはない。だからあっさり言っちまうと、ま、要するに。それしかないんだよ。おれには、な」 「それしか?」 「ああ。ま、言えば、どっかの哀れな回遊魚みたいなもんだ。泳ぎ止めたら、もう、それで死んじまう。泳ぐことで、なんとかまだ、生きている。それを止めたら、おれは――」 「生きがい、のようなものですか?」 「いや。そういうのじゃない。なんていうのかな、呼吸、みたいなもんだ」 「呼吸?」 「ああ。そうだ。特に好きこのんで、おれらは息、しないだろ? ただ、呼吸する。それをしないと、生きていけないから。それと似た感じだな。飛ばないと、ダメになる。おれの場合は」 「呼吸、ですか」 「ああ。そうだ。それがいちばん、近い感じするよ」 「呼吸――」  娘はその言葉の響きについて、ひととおり、ひとりで、なにか頭の中で深く検証を続けているようだ。わずかに視線を落とし、自分の膝のあたりを見ている。 「まあ、だが、とりあえず、ここはどうだ? わざわざ、来た甲斐があったか? それとも平凡か? そんなに楽しくもないって顔をしているが」 「いえ。来た甲斐は―― ええ。あったと、思います。とても特別な場所だと感じます。何かここは―― 墓所―― なのでしょうか?」  娘が言った。いささか音量に乏しい声で。 「墓所。そうだな。いい表現かもしれん。ここは、そうだな。すべてが一度、終わった場所で――」  男はわずかに姿勢を変えて、すわったまま、背後に横たわる、無数の古い船たちに、ちらりと視線を投げかけた。少し疲れた、そして少し眠そうな―― しかしどこか、とても冷め切った、温度のない、静かな目で。 「ここには船と、空しかない。その、何もなさがな。掛け値なしの、何もなさが。たぶんおれは、好きなんだろう。落ち着く。なんだか、心がな。だからたまに、無性にここに、来たくなる時がある」 「いつもはひとり、ですか?」 「ああ。ひとりだ。ここを知ってるやつは少ない。何人かの整備士仲間と、あとは―― たぶんあまり、ほかに知っている者はいないだろう」 「ここを、わたくしに見せてくれたのはなぜですか?」 「訊くかよ、それを」  男は言って、ふっと、何か自虐的な笑みを口の端に浮かべた。 「まあ、なんだ。気分、だよ」 「気分?」 「ああ。たまたま今日は、そういう気分だった。気分だ。それだけだ」 「気分――」 「ああ。訊いても、ま、それ以上の答えは出てこない」 「そうですか」 「ああ。そうだ」    ズン……  遠い空から、低い重い響きが、いま、かすかに届く。  遠雷。  はるか彼方の海上で、積乱雲が湧いている。  その湧き上がる雲の上の部分は、鈍い午後の太陽の色に染まり、  じりじりと、雲はさらに上方に展開しながら、ゆっくりとこちらへ接近、しつつある。  とは言え、距離はかなりある。この都市にまで到達するには、まだ相当な時間があるはずだ。 「来るかな、あいつ」 「あの雲、ですか?」 「ああ。けっこうでかい。直撃したら、そこそこの嵐になる」 「では、戻りますか?」 「いや、」  男は一瞬沈黙、その、雷光をはらんだ巨大な雲の一点を睨んだ。 「おれはまだ、しばらくいる。おまえは、戻りたかったら、戻れ。遠くまでつき合わせて、なんだか悪かったな」 「いえ」  娘は小さく首をふった。 「わたくしも、もうしばらく、ここにいます」 「そうか?」 「はい。ここはたしかに、良い場所です」 「ふむ」 「まだしばらく、いても、かまわないですか?」 「おれに許可を問うな。何もおれの場所じゃない。いたければ、いろよ」 「はい。では。」  娘は言って、そのあとはもう、言葉はとくに、発さなかった。  空を斜めに直進してくる午後の陽射しの一翼が、娘の頬を、鮮やかな金色に染めあげた。男はちらりと視線を動かし、その、輝きを見た。その輝ける色には、何か、神聖と名づけても良いような、何かの深い世界の啓示が確かにそこに宿っている。そのような、心が急にしめつけられる、眩暈にも似た感覚を、男はそこで覚えたのだが――   彼はそれを、言語として表す術を持たなかった。また、それを言葉にする必要も、今、あるのかどうか。それも彼にはよくわからない。だから男は黙っている。ひたすら黙って、娘とふたり―― ただ、空を。見ていた。ずっとずっと、空だけを。
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