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どの恒星系にも属さない不規則で遠大な軌道をもつ赤の惑星『エルグ』は、じつは約二千年前にも、いちどイウレアに接近していたらしい。らしい、というのは、あくまでこれは伝承に過ぎないからだ。各地に伝わる神話や民話の中に、赤くきらめく巨大な星の描写が散見する。各地の古文書学者たちの意見では、その赤の星にまつわる物語が編纂されたであろう年代は、おおよそにおいて、二千年前。おそらくそれ以前にもその星はたびたびイウレアに周期的に接近していたのかもしれない。が、なにぶん記録がない。唯一あるのが、その、およそ二千年前の神話期の記述だ。
そしてそれさえも、事実の記録としてはあまりにも頼りない。『神の目』だの、『竜王星』だの、『火の星』だの、各地の各民が、思い思いに名前をつけ、事実に脚色を加え、神話あるいは物語として後世に伝えた。中でも最も広く知られる名前としては、北部の諸王国が伝える『エルグ』という名。ちなみにエルグとは、もともと、キルト神話に登場する移り気な美貌の女神であるらしい。
だが、なぜその遊星がここに至るまで人々の意識にのぼらなかったかについては、ひとつの説明がある。つまり、それ以前の数か月、急速に接近しつつあるその遊星――
『エルグ』は、イウレアの双子の惑星である『豊饒の月ユルド』のちょうど背後に位置していた。特別注意を向けて四六時中、その意図をもって特殊な装置を用いて観測でもしない限り、一般の者の視界にその存在あるいは気配を捉えられる可能性は―― これはまったく、なかったのである。
しかし夏至が過ぎ、星夜祭の夜に至り――
各惑星の配列がこれから秋へと移行しようというこの時期になって、にわかにこの赤の遊星が、一般の目にとまることとなった。それがまさに、あの星夜祭の夜だったのだ。
最初に人々がそれを目にしたときの衝撃は、少なからぬものだった。
なにしろサイズが大きい。最初に現われた夜に、すでにそれは『豊饒の月ユルド』の三分の一。それが夜毎に大きさを増しつつある。もうまもなく、『ユルド』のサイズをも上回るだろう。市民らが動揺しないはずがなかった。
その大部分が鉄とティルトゥウムで構成されると予想される遊星エルグの推定質量は、惑星イウレアの0・76倍。
この数字を出してきたのは、空中都市クルロワからそれほど離れてもいない、先端技術研究の聖地と称されるヴェヌム王国である。その王立天文所において、先日、最新鋭の天文鏡を使った大掛かりな観測実験が集中的に行われた。結果、遊星エルグの今後の進路と衝突の危機に関して、
イウレアの惑星表面の八割以上の損壊を伴なう大衝突の危険性は、84セルモール。
五割以上の表面破壊を伴う中衝突の可能性、15セルモール。
三割程度の表面破壊にとどまる部分衝突の可能性、1セルモール。
衝突を回避できる可能性は、0セルモールと計算された。
この最終発表は、惑星イウレアに住まう全人類を絶望させるに十分なものだった。なにしろこれは、信用度のいまひとつはっきりしない、雑多な新興国の中小研究機関の発表とは異なり、天文観測における権威中の権威たる、ヴェヌムの王立天文所が出した数字だ。どちらかというと保守的で慎重なことで知られるそこの王仕えの学者たちが出した、やや控えめな数字ですら、それである。そこには希望の要素がひとつもなかった。
その後、後追いではあるが、東の自由都市エダの天文研究所もほぼ同じ内容で諸外国の王侯宛てに鋭く警告を発し―― また、南極に近い、ふだんは科学や新技術に対して懐疑的な姿勢を貫く保守的な宗教国家グクニアの国教審問所までもが、この暗い予測に基づいた警告声明を全市民に発したと伝えられた。こうして、赤道辺境に位置する某小国が最初に出したという控え目な軌道予測の第一報から二週、この悲観的な近未来予測は、惑星イウレアの全国家の民が知るところとなった。この星の未来は、きわめて暗黒に等しい色に、すでに完全に塗り替えられたのである。
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