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しかしなにしろ、難易度が高い。
ギドの奈落。
まだ誰も、そんな遠くにまでは飛べた試しはない。
実際、まだ誰も、その付近にすら到達していない。その場所を見た者すらもいない。その、平和に倦んだ辺境伯が暇つぶしに始めた余興、ワイアット・ヒートの開始から、もうすでに六年目になるという、この年になっても。
自然、掛け金は誰にも分配されず、勝者なしの、ドローの回が、ひたすら数年、何十回も積み重ねられ―― しまいには、積み上がったその未払いの掛け金は、四百億ガルーを、もう、すでに、超えている。
なにしろ四百億ガルーだ。とてつもない額だ、それは。裕福な小公国の国家予算でさえ、年に百億、あるかどうか。それを軽く、四倍以上も超えてくる。
そこにはもう、熱狂を超えた狂気が。
あったといっても、言い過ぎではないだろう。
誰もが北を目指した。
その、国がひとつ買えるだけの金塊の山を、すべて自分で、独り占めに。
そういう、とても素朴だが、素朴だけに、よけいに始末の悪い、
どこかいびつなゴールドラッシュが、極北の都市を席巻した。
そして今もその熱狂は、続いている。
――また落ちた。またすべて、落ちて、戻らなかった。
だからまた、掛け金は積み上がる。そしそれは、それはもう、
もう来年には、五百億を、超えるのではないだろうか。
男が耳にしたのは、そういう噂だった。
まったくくだらない話だと。男は正直、思ったはずだ。
金。それが何だ。死んだらそんなものは、その先どこにも持ってゆけないぞ。
まあしかし――
その、とにかく北へ飛べ、という。
そこの部分にだけは、なぜか、心が、くすぐられた。
それは正直な気持ちで、だからこそ男は――
その、まだ顔も見たことのない、ろくに名前も、長すぎてフルネームで読むこともかなわない、その、何とかの末裔である、その極北の大伯爵のもとへ――
その者が統べるという、その、北の空に浮かぶ空中都市、クルロワに向かったのだ。
そういう次第で、男は――
七年務めたナバラの空軍を去り、ひとりでそこへ――
北へ。
そこへひとりで、赴いた。
ひとりで、というのは、しかし、少し語弊がある。
彼にはひとつ、友がいた。
飛空艇だ。
空軍に入る前から―― 十二の頃から飛ばしていた、二人乗りの、小さな機体。
白ツバメ、と。そう、名付けてくれた者がいた。
だから彼は、終生、その、少し可愛らしい、口にするのも少し照れる飛空艇の名を――
律儀に最後まで、大人になってからも使い続けた。たまにその名前をからかわれると、男は頬を赤らめて、どこか迷惑そうに眉をよせ、それからぽつりと、言ったものだ。下を向いて。少し自信がなさそうに。あんたには、その、名前の響きの良さってものが―― まだ、ほんとには、ぜんぜんわかっちゃいないんだ。白ツバメ。悪くない名前だ。おれはそう思うぜ、と。
だから男は、その朝――
ひとりではなく、それとともに。
その白の飛空艇を静かに駆って、男は北へと飛んだのだ。
七割の機械力と、三割の魔力と。
それが白のツバメを、空へと浮かべていたものだ。
が、男はあまり魔法ができる方ではなかった。というか、ほぼ、できない。自然、そのツバメは、ほとんどを機械の力で空を駆っていたのだが。まあしかし。
とても静かに空を飛んだ。それはもう、無音と言っても良いくらいだ。
だからそれが、唯一の。男にとっての相棒で。
そして実際、おそらくそれは――
恋人。だったのだろう。おそらくそれがいちばん近い。
男は自分で、絶対それを認めることはなかったであろう。が――
なめらかな機体、どこか優美な長い翼をもった、その飛ぶ機械をいつくしむ、その男の手つきや目つき、眼差し。そこには男が、未だかつて、地上の女の誰に対しても、決して一度も向けたことのない、限りない繊細さと、そこにはたしかな――
愛情と。
確かに呼べるものがあったろう、と。ここにはそれを、事実として書いておく。
まあ、とにかく。
男はその、小さな白い飛ぶモノとともに――
誰も見送る者のない、聖青二月の雨に煙るナバラの飛空基地を飛び立ち――
そして新たな、その北の地を。ひとりと、ひとつで、目指したのだ。
ただひたすらに単機で。誰かに護られることも、また、護るものもなく。
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