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クルロワで待機中の全飛空士に、召集がかかった。
それをザークに伝えにきたのは、なじみの整備士のベルザードという男だった。
そのときザークは、第二ドックの前の駐機スペースで、『白ツバメ』の機関部にオイルを補充していた。自身は整備士ではない。だが、自機の構造はそれなりに熟知している。飛べない時には、暇つぶしもかねて、無駄に、機体のあちこちを触っている。そのことでとくだん、飛行性能が向上するわけでもないと。ザークは自分でも理解はしていたが、まあしかし、そのことで何かが悪化することもあるまいと。その程度の判断であった。ともかく、駐機場のどこかに身を置き、飛ぶモノたちの「匂い」を全身に感じながら、機体のそばでオイルや機材に触れていると、心は少し落ち着く。何か少しは、意味のあることを自分はしている。そのような気持ちになれるのだ。
「伯爵公邸の広間に、十九時だそうだ」
ベルザードが、『白ツバメ』の胴部に背中をもたせかけて言った。どろりとした黒い液体のボトルを手にしている。それは特に、飛空艇に使うものではなく、単純に、自分が飲むものらしい。ベルザードはさほど旨そうでもなく、その何かの液体に黙って口をつけた。
「伯爵公邸? なんでまた?」
作業の手を休めずに、ザークが問い返す。その目は、機関部の給油口に注がれている。
「さあな。おれに訊くなよ。なんでも、伯爵じきじきに、何か話があるそうだ」
「伯爵が?」
ザークはそこで初めて、その話題にかすかな関心を持つ。
オイルのボトルキャップを閉め、その、すすけた色の金属筒を足元に置いた。
立場としては、この空中都市を統べる辺境伯に、雇われてはいるのだが――
ザークは直接、その人物に、会ったことはない。
伯爵は、ふだん、市民の前面に立って何かをすることはなく――
その人物像は、いささか謎に包まれていた。
契約時の手続きも、何かの指示も、すべて、飛空艇乗りたちを担当する伯爵配下の官吏たち、それから『エージェント』と呼ばれる素性のよくわからぬ黒服の代理人たちの手によって行われている。この都市に移ってもうすでに二年以上たつが、今日まで、ザークが伯爵と対面したことは、一度たりともない。その事情は、しかし、ザーク以外の、ほかの者達も同じであったろう。とかく、謎に包まれた人物であった。その、クルロワ辺境伯という者は。
「だが、見ろ。だいぶ近いな。またいっそう、近くなった」
ベルザードが、目を少し細めて空の一角を見すえた。
そこには、昼なお赤い光でもって人の目を引く、その遊星が。
エルグが、そこにとどまっている。街並みのむこう、空の、やや低い位置。
最初に人々がそれを目にしてから、三週ほどが経過していた。
が、日に日に大きくなりゆくそれは――
今では平気で、昼にも、そこに見えている。
噂では、もうまもなく、イウレアと接触―― その惨事は、もう秒読みに入っていると。騒がれてはいたが。だが、どれだけ騒いでみても、その星がそこにある。そしてさらに近くなる。その事実には、少しの変更もない。赤の星はただ、そこから、街を無心に見つめている。
「ま、星のことは別にどうでもいいが。しかし、飛べないのは困る。なんだか体が、なまっちまうみたいでな」
ザークが言って、肩をすくめた。
「おい。どうでもよくはないだろう。あれがそもそもの原因だ。ここで今、おまえが飛べない理由だろうが」
「まあ、そうかもしれんが。しかし、おれがどうこう考えたって、星がどうにかなるもんでもない。管轄外、ってやつだ。とりあえずおれには、今日、明日、飛べるかどうか。そこしか、関わりがない」
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