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ワイアット・ヒートの話に戻る。
距離も距離だが、なによりそこは、重力が違う。北に行くほどに飛ぶことは難しくなり、機械力で飛ぶ飛空艇も、魔法力を使う艇も、まず、まともには飛び続けることはできない。しかもそこには、竜がいた。
竜。
南の国の住人にとっては、そんなものは、いにしえのおとぎ話の中の荒唐無稽な幻獣に過ぎないと。そう、思うのだろうが――
しかし北では、違った。
竜はいる。それは現実のものだ。
ただ、めったに、人間のいる南にまでは降りてこないのだ。
重力の吹き溜まりのような、その、ろくに太陽も見えないその北の大地で、
彼らは何千年も、おそらくはそれより長く――
ひっそりと、しかし確かに、そこをねぐらとして生きてきた。
なんでも餌は―― 餌というか、主食と言うべきなのか。
空気の中のわずかなマナを、少し食べるだけで、またひたすらに何千コルンでも飛ぶ。
あるいは極北の氷を割って、そこの黒々とした塩だまりの水をわずかになめるだけで、またさらに数万コルンは飛べる。そういう、種族なのだそうだ。
だれも実際に竜たちに聞いてまわったわけではないので、その話がどれほど信用できるのかは不明だったが、まあとにかく―― 竜は長く生き、しかも、あまり食べる必要もない。そういう、他を超越した、ただの生き物以上の威厳を備えた何かではあるようだ。
だが。
今そこに現われたのが、その、飛空艇乗りたちだ。
辺境伯の暇つぶしの飛行レースに、われ先に、競い合って北の奈落を目指しゆく命知らずの男たちは―― そこで竜を、見ることになる。
実際に見た者で、そこから生きて戻ったものはわずかだ。
大半は、死んだ。竜の吐く炎に焼かれるか、その、軽くひとふりで小型の飛空艇なら数コルンはふきとばす力をもったその巨大な尾の一撃で、氷の大地に叩き落とされるか―― あるいはおそらく、喰われたのだろう。まあとにかく、彼らの多くが、そこで死んだことには間違いない。
竜たちはおそらく、怒っていたのだ。
北の大地の静けさを破る、その、礼儀知らずの人間の操る、飛ぶモノたちに。
やかましい空力音をたてて重々しく飛ぶ、機械力にたよった飛ぶモノたちの群れは、おそらく、優雅に静かに空を統べる竜たちからすれば、禍々しい、出来損ないだと。そう、見えたのではないだろうか。そしてそれは無礼にも―― 無粋な音や排気の煙によって、竜たちの眠りを破り、しかもそれらは、さしたる理由もなしに、その、竜たちの聖地と言われる、ギドの奈落の、さらにその北の地を目指そうと言うのだ。
まあそれはたしかに、うんざりするほど迷惑な話であっただろう。男はそのように想像した。男としては、その、小バエのように無慈悲に叩き落とされていく飛行レースの参加者よりも、むしろ、敵であるはずの竜たちの視点に、なぜか近さを感じていた。
綺麗に飛びたい。静かに飛びたい。
そしてただ、見たいのだ。
荒らすのではなく。掻き乱すのではなく。
ただ、遠くへ。もっともっと遠くへ。
それが男の、ただ一つの――
希望、と言うほど綺麗でもない、
しかし、野心。と言うほどには汚れていない。
そう、それは――
夢、
あるいは、あこがれ。
無垢な、心が素直に求める、
渇き、のようなもの。
おそらくそれが、最も近かっただろう。
もっともそれは、男が自分でそう思ったのではなく、
娘が――
リーエヒルデという仮の名を持つその銀髪の娘が、こっそり心に感じたことだった。
娘は男と出会い、はじめに思った。
この人はどこか、とても、乾いている、と。
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