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男は運河の堤が好きだった。都市の中央にある水源から分岐し、いくつもの運河が空中都市内をめぐっている。そして最後には都市の端まで至り、そこから垂直に二万セルンの距離を落下し、はるか下に広がる極北の海へと落ちてゆく。ここはそういった運河のひとつで、河が最後に滝となって落下する、少し手前の地点に位置していた。堤に立って遠くを見やると、市街が果てるところから、ここと似たようないくつもの河が滝となり、長い長い落下の旅の最初の軌跡を描きはじめている。それはたしかに壮観であったが、男は何日かでその景色に飽きた。人間はつくづく、あらゆる物事に慣れてしまうものなのだ。
しかし、男が飽きなかったこともある。
晴れた日にひとり、草の斜面に横たわる。そこからは、空と草しか見えない。ここは飛空場に近い。少し色の薄い極北の色を、いくつもの飛空艇が横切って行った。あるものは編隊を組み、あるものは単機で。こうして空だけを眺めていると心が落ち着いた。飛ぶときと飛ぶときの合間に生じた空白の時間、男はここでこうしてただ、時間を消費した。それは消費ではあるのだが、とても正しい消費の仕方だと。男には、なんとなくだが、そんな気がしていた。その日はしかし、その空だけの視界に、ふだんと違う別のものが映った。
誰かが上から、男を覗き込んでいた。そのことに気付いたのは、おそらくとても時間がたってからで、ずいぶん長い時間、男はとくに何も考えずにその顔をぼんやりと見返していた。男の思考はこことはまったく別のところを彷徨っており、いまここ、視界に現われた他人の顔を、顔として認識するまでにひどく時間がかかった。
「寝ているのですか?」
その顔が、声を発した。そこで初めて男の意識は現実に戻ってくる。
男の目が、はじめてそれを人の顔として認識する。それは女の顔で、しかも若く、美しく、髪の色も瞳の色も、現実離れした、透き通るような銀色をしていた。
「いや。起きてはいる。だが、あんたいったい誰だ?」
男が上半身を起こし、頭の後ろについた枯草を右手で払った。
「おれになにか用があるのか? 何かの人違いでは――」
男は言いかけたが、黙った。黙らざるをえなかった、というのが正確だ。
女がまっすぐ、男を見ていたからだ。その銀色の瞳で。刺すように、まっすぐに。
「ここに来れば会えると言われました。あなたがザークさんですね?」
女は言って、銀色の前髪を左手で払い、後ろに流した。女の服も妙だった。およそこの空中都市では見かけない。世界中から雑多な各国の男や女が流入するこの都市では、多少の奇抜な衣装では誰も振りかえりもしないが――
しかし女の服は、やはり十人が十人とも思わず振りかえる、そのようなものだった。
なにしろ白い。その白さがあまりにも突き抜けているため、それはむしろ淡い青を帯びているように見えなくもない。服は形で言えば、いわゆるガウンに近いものだ。そこらの貴族などが好んで湯上りに着る、あのガウンだ。それも、装飾は最小限、あくまで実用本位の、着心地の良さを第一に考えたデザインの。首から膝下にかけて、なめらかな生地がすとんと下まで降り、体の中心から少し左にずれた位地でボタンで合わせるようになっている。腰の低い位置で、同じ生地の細い帯が腰まわりを一周している。材質は上質のシルクのようにも思われたが―― もともと服の生地に詳しくはない男には、それがいったいどういう素材なのかは言えなかった。
そしてその、女が発する輝度と言うかあるいは透明感と言うのか。まるで白の光を、女の全身が発しているようだ。その白の輝きは、もはや神々しいを通りこし、見る者にある種の悲しみの感情を揺り起こす。男は何か、とても大事な、決して忘れてはならない子供の頃の思い出を、もう少しで思い出しそうに―― しかしやはりその記憶には届かない、という。そういう、淡い憧憬のようなものを一瞬そこで感じずにはいられない。が、男はとくに、それを表情には出さなかった。元来、あまり感情を表に出さないタイプなのだ。
「飛ばないときは、だいたいここにいると。言われて、ここまで探しに来ました。その情報はどうやら正しかったようですね」
女が横に座った。とても無造作に。それは人間の動作というよりは、まるで銀色の水が、滑らかにすべるようにも見えた。ここ、座ってよいですか? と尋ねることすらしなかったのが、じつは少し男の気にさわったのだが。まあしかし、特にここは男の専有地所であるわけでもなかった。許可を必要とする根拠も、じつはあまりないだろう。男はすぐに、そのように考え直す。
たしかにザークは、男の名前だった。ザーク。正式には、ザークリヒト・イム・アシェンルフィッテ・セザッグズ。その古風なギリシテ系の長い名をすべて正確に発音できる者などそう多くはなかったから、当然のように誰もが彼をザークと呼んだ。ザーク。それが男の名だ。
「言われたって誰に?」
「飛空場の人。整備の方です。男性で、背が高くて、髪の黒い――」
「ああ。あいつか。ベルザード。ったく。余計なことを――」
「迷惑でしたか?」
「……要件による。いったい何だ? あんたいったい誰だ?」
「明日から、一緒に飛ぶことになります。伯爵命令です」
「はぁ??」
「今日、先ほど着任しました。新人の――」
女が少し、言葉を探した。細い首をわずかに左にひねり。まるでそこに、何か、書かれていないかを探るように。
「魔法砲手、というのでしたか。こちらでは?」
女が言って、まっすぐザークの顔を見た。
思いがけなく男は、とても近い距離で女と見つめ合う形になったのだが――
女の銀の瞳には、男が見る限りいかなる感情もそこには感じられず、
ただそこに、銀色の空がある。そう、思えた。
それはあまりにも広いので、ひとことで何と、その銀色を表せば良いのか決めることができない。
そこにある感情が、正なるものか、負なるものか、
そこにある温度が、高いのか、低いのか、中庸なのか――
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