白銀のツバメは、ただ北を指して飛ぶ

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 翌日早朝、さっそくの試験飛行が実施された。あるいは訓練飛行。  ザークと、その銀の髪の娘―― リーエヒルデを名のるその新人の魔法砲手が、同時にその白の機体に乗った。機の名前は、『白ツバメ』。そう、男は自分が慣れ親しんだその白の機体を、ここでの飛行に使っていた。装甲は薄く、あまり戦闘向きではない。が、そのぶん、距離は飛べた。風にのってどこまでも距離をゆく。もともとの設計者の意図にはなかったに違いない、が、ここ北の地においては、これほど競技に適した機体は数少ないと言ってよかった。実際男は―― ザークは、数ある飛空艇乗りの中でも、一、二を争う航続記録の保持者であった。正確に言えば、現時点で二位である。現在、辺境伯の私兵として―― つまり、実質的には競技の参加者としてこの都市で飼われている飛空艇乗りの数は四百を少し越える。その中で二位というのは、やはりそれは、非凡な記録であったろう。  ただ、ザークがそれを誇っているかというと――  それは少しも、なかったと言っていい。ほとんど記録は、気にしていない。  なにしろ、それはたまたま、気流の良さと重なって、運に味方されて出された距離だ。  しかも実際、その、目的とするギドの奈落からは、推定で400コルン以上も手前の地点だ。そんな半端な地点に到達したことを、いったい誰に自慢する?  バカらしいことだ。と、ザークはじっさい考えていた。  そしてまた、これが一番の理由なのだが――  競う相手は、他人ではない。  自分がどこまで行けるのか。  自分がどこまで飛べるのか。  およそ、そのことにしか、ザークは興味がなかった。  ときどき酒場で、知り合いの飛空士から賛辞を受けても。あるいは嫉妬心からの嫌味をさんざん言われても。ザークはほとんど、気にもとめなかった。それはそこに吹く低い地上の風にすぎず、そんなよどんだ不純な風は、自分には関係ない。実際そう思っていた。  話が脇道に逸れた。  とにかく、試験飛行だ。  その娘、リーエヒルデは、まずもってマスクの着用にもたついた。というよりも、そもそも高空マスクが必要だという予備知識さえ持ち合わせていなかったようだ。ここより高度が上がると、空気がさらに薄くなり、また、気温も大きく低下する。人間の肺には、あまりに過酷な環境だ。したがって飛行中の機内では、呼吸を補うマスクの着用が必須となる。だが、さいしょに娘は首をかしげた。 「これは、わたくしには必要ないと思います」  さらりと言ってそのまま機体に乗りこもうとするのを、ザークは止めた。 「おい。こら。マスクなしで空に上がろうってのは、あんたそりゃ、空をナメすぎだぜ?」 「そうでしょうか?」  リーエヒルデは、いささか不本意そうに肩をすくめたが、かといってそれ以上は特に抗弁しなかった。ジルーという名の若い小柄な整備士が、ひととおり、着脱の仕方を説明し、娘はそれを素直に着けた。そして案内されるがままに、また素直に、機内の定位置についた。具体的に言えば操縦士を務めるザークの斜め後方、上部。そこに、上方にわずかに突起した全方位を統べる半球形の窓があり、そこに仮の座席があつらえてある。「銃座」と仮にザークは呼んでいたが、とくにそこに、砲や銃が据えてあるわけではない。簡素な座席が、ひとつそこにあるだけだ。そこの部分に娘は乗りこむ。つまり彼女自身が、ここでこれから砲となるのである。  天気は晴れ。高高度の空に、わずかに雲の帯あり。  風はあるが、離陸の支障になるほどではない。 『白ツバメ』は軽やかに、ほぼ無音のままに滑走し、  そして離陸。とても順調に空へと舞いあがった。  舵を左方向に維持し、ぐるぐると周回航路を描きながら高度を上げる。空中都市の街並みが、たちまち眼下の背景として小さく遠ざかる。ほかにも飛行する大小様々な機体と距離を保ちながら、白ツバメはさらに高度を上げた。はるか眼下には、北の朝陽を受けてきらめくはるかなる海が見えた。その色は白か、あるいは金色の近かった。ザークはしばらくその輝きを視界の隅でとらえていたが―― やがてそこから目をそらし、前方に視点を固定した。しばらくそのまま沈黙が続いた。本当に音のない機体で、軽い音をたてて回転運動する機関部のシュルシュルという高い響き以外、音らしい音はしなかった。 「おい、あんた」  ザークが呼んだ。ずいぶん長く沈黙した後で。 「はい? わたくしでしょうか?」  後部上方から、声が返ってくる。マスクを通している分、やや、聞き取りづらかった。 「そうだ。ここにはおれとあんた意外に誰もいないだろ」 「『あんた』は、あまり好きな言葉ではありません」 「じゃ、なんて呼べばいい?」 「リーエ、と呼んでください。郷(さと)では皆がそう呼んでいました」 「ふん、リーエ、ね。」  男はひとまず復唱する。少し何か文句なり反論を考えはしたのだが、まあしかし、とくにその名を拒否する適当な理由は見当たらなかった。 「気分はどうだ?」 「普通です」 「飛行時間はどれくらい?」 「飛行時間?」 「今までどれくらい飛んだ?」 「ゼロです」 「は??」 「ですから。ゼロです。これがまったくの、初めてです」 「おいおいおい。。待ってくれよ。よくそれで、魔法砲手などに――」  ザークは二百語くらい、その、あまりの準備不足と経験不足、その無謀さについての文句を頭の中にずらずらと並べ立てたが―― まあしかし、言ってもその経験不足が補われるわけではないという結論に達し、けっきょく何も言わなかった。ただ少し、こっそり首を斜めにひねっただけだ。 「でも、やはりこれは、必要なさそうです」  そう言って娘が、無造作にマスクを脱いだ。 「お、おい! それ! マスク! 初心者が、そんな、この高度で―― 窒息――」  ザークは露骨に動揺し、誤って右手でレバーを操作、ガクンと高度が下がる。すぐさま冷静さを取り戻し、機体の制御を取り戻す。 「ほら。問題ないでしょう?」  娘がマスクを左手で持って、ぶらぶらと揺すった。その顔は、少し笑っている。 「まじか? なんで、あんた、この高度で呼吸が――」 「わたくしの郷は、ここよりも高い場所にあるのですよ? 空気はもっと薄いです」 「さと?? それって、どこだ??」  男は視線を前方に維持したまま――  少しまだ動揺した声で後ろに叫んだ。 「シルフォント・オン・ブルックです。あの世界樹で有名な」 「シルフォント? んなもん、伝説か何かの地名だろう。実際に、そんな―― 世界樹とか――」 「シルフェルト・オン・ブルックは実在します。伝説でも何でもない。そしてわたくしはそこから来ました。世界樹の街。そこがわたくしの郷です。小さいですが、とても綺麗な土地ですよ? 水も空気も綺麗です」  娘はそう言って、まるでその幻の高原都市をじっさい遠くに見すえるかのように――  ずっと遠くに視線を飛ばし、わずかに笑った。とても無邪気な笑顔で。
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